「サウンド・オブ・ミュージック」
プロフィール欄に、僕の精神的郷里は映画「サウンド・オブ・ミュージック」だと書いた。そして、この映画の中にあるすべてが僕の中に血肉化しているとも書いた。少しおおげさだが、これこそが自分の中で古典化作用がおきているということだと思う。人生の基準がアメリカのミュージカル映画だなんて、いわゆるインテリの人々には一笑にふされてしまうかもしれないが、僕は全然かまわない。血肉化していない知識など、無用の長物である。
リチャード・ロジャーズとオスカー・ハマーシュタイン二世というブロードウエイ最高のコンビの最後の作品になった「サウンド・オブ・ミュージック」は、1965年にロバート・ワイズ監督によって映画化された。ご存じのように、作品賞・監督賞をはじめアカデミー賞を総なめにした傑作である。ナチスドイツのオーストリア併合に抵抗して、やがて家族でスイスへ亡命する音楽一家トラップファミリーの物語。主演のジュリー・アンドリュースは、この映画の印象があまりにも強すぎて、その後ついにこれを越える作品に出演できなかったとも言われる。とりわけ日本人には人気があって、いまだにロケ地ザルツブルグでゆかりの地を尋ねてまわる観光客がひきもきらないらしい。(この現象は日本人だけのものだそうだ)。
僕は、小学校五年生のとき、つまり1970年に、いまはもうない倉敷の三友館という洋画専門劇場で見た。おそらく最初のリバイバルの上映の時だと思う。その年は、僕にとって最初の…最悪の年だった。担任の女性教師に徹底的に嫌われていたからだ。なぜあれほど馬が合わなかったのかいまだにわからないが、ともかく先生は僕のことが嫌いだった。かつて他の小学校でいとこの担任になったことのある先生だったので、母はかわいがってくれるものと思ったらしい。ところが、彼女は活発なスポーツマンタイプの男の子が好きらしく、運動音痴で本ばかり読んでいる僕は好みでなかったらしい。あれは二学期の始業式の次の日の朝礼のことだった。その日、午後のホームルームで二学期の学級委員が選挙されることになっていた。朝礼の終わりに、彼女はクラス全員にこう言ったのだ。「二学期は誰が学級委員になるんかなあ。○○(僕の名字)は指導力が全然なかったのに、どうして一学期になったんじゃろうなあ。みんなが助けたからなんとかなったけど…。今度は指導力のある学級委員を選べよ」。男のような口調で彼女は言い放った。それは僕が、教師という立場の大人から、はじめてむき出しの悪意を受け取った瞬間だった。確かに、指導力に欠けた学級委員長だったと思う。だが、選挙で行きがかり上しかたがなかったのだ。僕は、となりに座るともだちを見てへらへらと笑っていた。あんなときは笑うしかない。となりの子もへらへらと笑っていた。とてつもない言葉の暴力だった。続いてはじまった一時間目の授業は国語で、ローマ字の学習の単元。教科書には石川啄木の生涯が訓令式のローマ字で綴られていた。だが、僕は…文字が目に入らなかった。なんといったらいいのか、先生から全てを否定され卑屈になっていたのだと思う。むしろ、彼女に反抗するように窓の外をぼーっと見ていた。彼女はもう一度鉄槌を僕に与えた。「おい○○、御前みたいにぼーっとしとるからいつまでもローマ字が読めるようにならんのじゃ。しゃんと教科書に集中せい」。彼女には僕がふてくされているのがわかったのだと思う。わかっていてもう一度徹底的に否定した。僕は泣きたかったが、ほんとうにつらいときは案外泣けないものだ。またへらへらと笑い、形式的に教科書に目をおとし、授業が終わるのを待った。その日のホームルームでは、スポーツ万能のY君が学級委員長に選ばれた。僕は、彼女を徹底的に嫌いになり、体育祭の鼓笛隊も、上級生の卒業式の贈る言葉も、役割を与えられながら当日お腹が痛くなり、休んだ。それは、僕の精一杯の抵抗だった。もちろん、母にはあの九月の熱い一日のことを言っていない。母が悲しむからだ。
その年の秋も深まるころ、その母が、父母会から帰ってきて、急に僕に「今度の日曜日に映画に行こう」と誘った。映画など見に行ったことのない母である。聞けば、担任の女性教師が熱心に見ることを勧めたのだという。僕の母はいわゆる教育ママで、教師の薦めることを無視できないタイプだった。きっと教育によいと思ったのだろう。、幼稚園だった弟を父に押しつけて、ふたりでバスに乗り倉敷に向かったのである。それが、「サウンド・オブ・ミュージック」だった。
当時、地方では洋画は二本立てが当たり前だった。三時間にも及ぶ「サウンド・オブ・ミュージック」も例外でなく、入館するとミア・ファロー主演の「ジョンとメリー」がかかっていた。同棲する男女の日常を描いた映画で、かなりエロチックなシーンもあり、母の教育への情熱は直ちに裏切られのだった。ミア・ファローの裸のお尻が妙に美しかった。「サウンド・オブ・ミュージック」はすばらしかった。ストーリーも音楽も、与えられたメッセージも、せつなく美しく愛に満ちていて、僕は心から感動していた。それなのに、母は、夕食の時間が気になって映画の終わらないうちに帰ろうという。僕はその言葉に従うしかなかった。だから、僕は、この映画の最後の美しいアルプス越えのシーンを、数年後にはじめてみることになる。今でもジュリー・アンドリュースの姿を見て、昔の恋人のように思え、涙が流れるのは、このときの完結していない逢瀬が原因である。すべて、あなたの責任だよ、お母さん。
次の日、学校から帰って、僕は母を説得し、ひとりでバスに乗って倉敷のレコード店へ行った。そして、「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラックアルバムを買った。その夜、眠るまで聞き続けた。次の日、そのLPを僕は学校へ持って行った。先生に見せたら、彼女は美しく笑い「あんた、ほんとうに行ったんかな。よかったじゃろ?それ貸して」と言った。僕はそのときだけ、彼女に受け入れられたと感じ、心を許した。その日の午後の音楽の授業は、そのLPの鑑賞会になった。45分間、音楽室のステレオのターンテーブルは、リチャード・ロジャースの音楽を流し続けたのである。僕は最高に幸せだった。
中学二年のとき、次のリバイバルがあって、これは児島東映という劇場でやはり二本立て。スティーブン・スピルバーグの「激突!」が併映されていた。僕は母に弁当を作ってもらい、重いラジカセをもって最前列に陣取って、映画を録音した。そして、二回「サウンド・オブ・ミュージック」を見た。十時間くらいがらがらの映画館にいたことになる。そして、次のリバイバルは、大学生のとき。旧日劇最後の映画が「サウンド・オブ・ミュージック」だった。デートの待ち合わせをすっぽかされ、ひとりで地下鉄に乗り銀座に出た。余った前売り券で、もう一度見に行った。それぐらい好きだ。英語では無理だが、台詞は全部言える。誰かに試してもらいたい。
ミュージカルへの興味は、やがてミュージカルの曲をアレンジしたジャズへの興味に広がり、深まった。ナチスドイツの行ったジェノサイドを忘れない正義感と勇気をもらっい、歴史好きになった。そして、カトリックではないが洗礼を受けキリスト教徒となった。リチャード・ロジャーズとオスカー・ハマーシュタイン二世がユダヤ人であったことに最近知ったのだが、そんな事実をも包括し超越する普遍的な場所にこの作品はあると思う。だから、僕は一生この映画を見続けるだろう。
小学五年生の僕が得た人生の教訓はこうだ。自分をもっとも傷つけた憎むべき醜悪な人間が、自分にとって最もうつくしいもの与えてくれることがあるということ。その矛盾…その不思議の中にこそ、僕たちの人生があること。そして、それ以外に人生はないということ。
だから僕は、今も「サウンド・オブ・ミュージック」を見ていつもせつない思いになる。小学校五年生とき、将来ジュリー・アンドリュースと結婚したいと思った自分に苦笑しつつだ。僕の精神的郷里とはこんな場所なのである。
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