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文化・芸術

2011年6月 3日 (金)

中西圭三「東日本大震災チャリティーライブ」 in 棚倉 のお知らせ

福島県棚倉町のホームページに、
中西圭三「東日本大震災チャリティーライブ」の告知がアップされました。

お近くのみなさま、是非いらしてください。

6月18日(土) 14:30〜
棚倉町文化センター 倉美館 大ホール

http://www.town.tanagura.fukushima.jp/view.rbz?cd=545

歌の町棚倉でお目にかかりましょう!

広報たなぐら(棚倉町発行)の倉美館情報のpdfファイルです。

「tanagura201106.pdf」をダウンロード

2006年5月21日 (日)

シンクロニシティ

 このコンサートホールには、三台のハウスピアノがあるのだが、まずはその中から適切な一台を選ぶことに時間がかかったと小曽根さんは言う。そして、結局最終的に選んだスタインウェイも、はじめは音がどうしても自分のイメージと一致せず、ずいぶん音のコントロールに苦しんだとのことだった。「だけど、昨日練習していたら、ある時スーッと自分が吸い込まれてゆくような深い音が出るようになったことに気づいた。ああ、これでいったらいいんだ…これでいけると…思ったら、練習が楽しくなって、どんどん僕らしい音が生まれるようになったんだ」。別れ際、僕は小曽根さんにぶしつけな質問をした。「今日のオーケストラはすばらしいとおっしゃったんだけれども、そんな最高のオケとやることに、小曽根さんは怖さというかプレッシャーは感じないんですか?もしかして自分の音がオケにつりあわなかったらどうしよう…というような、そんな気持ちにはなりませんか?」。小曽根さんは微笑みながら、「いや、そんなことはないですね。オケがすばらしいこので、彼らが美しく深い音を出してくれる。僕がその音をよく聴いて受け止めさえすれば、その音が僕をその高さや深みに自然に連れて行ってくれる。また、僕の出した音をオケが受け止めて先を指し示してくれる。僕は、自然にその方向へ行けばいいんだと思う。演奏自体はすごくタフで大変だけど、心がうきうきするし、きっとすばらしい演奏になるんじゃないかと、僕自身が期待している。でもね、僕が先走りすぎて失敗したらごめん。ともかく、一生懸命弾いてくるわ。」手を高くあげて僕たちに合図を送りながら、ホールの中に消えてゆく小曽根さんを、僕たちは心躍らせながら見送った。こうして、自己に内向しながら、同時に外に開くという困難な課題に直面した40代のピアニストは、ステージに戻っていったのである。

 開演15分前、ほぼ満員になったホールに、出演者のプレトークが奢られた。橋本邦彦さんの洒脱な司会と翻訳によって、まずマエストロ・デュトワが、シューマンとショスタコービッチの楽曲について解説した。すぐれた交響楽は、ベートーベンやブラームス以外にもたくさんあるので、そのすばらしさを多くの人々に知らせたいという、彼の情熱が言葉の端々からほとばしった。続いて登場した小曽根さんは、ゲネプロを聴いてとても感動したという橋本さんの問いに答えて、「ジュノム」を演奏楽曲に選んだ理由について話した。小曽根さんは、自分にとっていかにこの曲の二楽章が大切か、そして、この美しいバラードがどれほど深いインスピレーションを自分に与えるかについて、実に楽しそうに語ったのである。もちろん、その後の演奏は、腰が抜けるほど美しかったのであるが…。

 やがて、コンサートが始まった。一曲目はシューマンの「マンフレッド」序曲。フルオーケストラで演奏されるこの曲は、金管楽器を中心にゴングやシロフォンの音が印象的用いられる壮大な叙情詩で、ロマン的な色彩が強い。マエストロ・デュトワの華麗なコンダクトによって、オーケストラは一糸乱れぬ演奏を見せ、満員のオーディエンスを魅了した。高い音楽性と技術に裏打ちされた音楽家たちが、マエストロ・デュトワの強い求心力に引き込まれ、美しい音と音の複合体をオーディエンスに投げかけてくる。僕は圧倒的な迫力に息をのんだ。音に気品と厚みとが同時に存在するのだ。

この日のコンサートマスターは、一曲目のシューマンと三曲目のショスタコービッチを、徳永二男さん、二曲目のモーツアルトを、三浦章宏さんがつとめる。モーツアルトは、他の二曲に対してオーケストラが小編成であること、そして、三浦章宏さんが東京フィルハーモニーオーケストラのコンサートマスターとして、既に一度小曽根さんとモーツアルトを演奏したことがある経験がかわれたということだろう。

そして、いよいよ二曲目。モーツアルト作曲、ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調「ジュノム」K.271である。ここまで、僕のこの冗長なレポートを辛抱づよく読んできてくださった方々の中には、いよいよ演奏の詳細が聴けると、期待してくださっている方もおられるに違いない。しかし、それはとうてい僕の任ではない。小曽根さんとマエストロ シャルル・デュトワ、そして宮崎国際音楽祭管弦楽団とのコラボレーションは、僕の聴力と言語能力をはるかに超えた、そう神に捧げられた音楽というべきもので、僕の拙い能力で技術論をあげつらったところで、音楽の本質から離れていってしまうだけだからだ。しかし、幸いなことに、まもなくNHKでこの日の演奏が放送されると聞いた。是非、その放送をご覧になって、ご自分の目で、耳で、その日どれほどまでにドラマチックな精神と音との格闘が行われたか、確かめていただきたい。僕自身は、自分の不明を恥じ入るしかないことだ。

ただ、ひとことだけここに印象を記しておくことをお許しいただけるだろうか。この日の小曽根真は、ジャズピアニストでもクラシックピアニストでもなかった。音楽の神の前で、ただひとりピアノで祈りをささげていたピアニストでしかなかった。小曽根さんは、第一楽章の最初の音符の、その深く美しい音色でオーディエンスとオーケストラを魅了し、自ら音を奏でながら、ホール全体の求心力の中心となった。そして、そのひとつひとつの音を、極めて高いレベルで理解し即座に音で反応するマエストロとオーケストラの感性が呼応し合い、見事な音楽的イメージを構築していったのである。モーツアルトが楽譜に書いた音、それは、小さな装飾音に至るまで美しくこの世に呼び戻され、管弦楽の音色と混じり合った。そして、あの特徴的なカデンツァでさえも、それはもはやジャズピアニストのそれではなく、かといってクラシックピアニストのそれでもない、むしろメロディやリズムの多様性については禁欲しながら、純粋な音と音との絡み合いからインスピレーションを得て、まさに即興で音楽が演奏されている、つまりはそこで音楽が生まれているその瞬間を目の当たりにするというレアリテが、僕たちを深い感動に導いた。とりわけ、あの小曽根さん自身が、重要だと語った第二楽章の美しさを、僕は生涯わすれることはないだろう。僕には、とてもゆっくりした、今まで聴いたこともないゆっくりしたテンポで音が刻まれていたように感じたのだが、終演後小曽根さんに伺ったところ、特に今日の演奏でテンポを遅くしたつもりはないと言う。つまりそれは、僕がそう感じたということなのであって、第二楽章が極めてエモーショナルな演奏であったということの証拠になるだろう。小曽根真がジャズピアニストとしての「我」を捨てたから、この演奏が可能になったのではない。「クラシックピアニスト」にジャンルを移行したわけでもない。小曽根さんは、ある意味で、もっともニュートラルな位置に身を置き、自分の内面を深く掘り見つめることで、同時に音楽に向かってすべてをゆだね自己を全開にしてゆくという、すさまじい精神のドラマを僕たちにつつみかくさず見せてくれたのだと思う。それは、マエストロにとっても、オーケストラの楽団員にとっても、感動的なことであったと思う。さすがに、第三楽章のカデンツァで小曽根さんがピアノの胎内に腕を差し入れ、弦を指でたたきはじめた時には、驚きをかくせなかった彼らであったのだけれども…。

オーディエンスのわれるような拍手とブラボーの歓呼に応えて、カーテンコールに応じる小曽根さんの姿は輝いていた。小曽根さんは、マエストロとオーケストラの人々に向かって指をたててガッツポーズを見せ、満面の笑みで再度オーディエンスのオベーションに応えたのである。ブラボー!ブラボー!僕はなぜか泣けてきて、小曽根さんの姿がゆがんで見えた。

やがて、小曽根さんはピアノに座って、演奏を始める。ジャズ特有のストライド奏法でのニューオリンズジャズか、ラグタイムのアンコールらしかった。でも何という曲なのだろう…と思っていると、それこそオーディエンスもオーケストラの楽団員もほぼ同時にそれに気づいて隣の人と顔を見合わせ微笑む。すかさず、ステージの上では、コンサートマスターの三浦さんがオーケストラに指示をして弓を弦におろして全員が演奏に加わる。そう、それは第三楽章のカデンツァの最後部の再現であったのだった。マエストロ抜きの二度目のフィナーレは、笑顔の中でのブラボー。オーケストラの誰にも告げられていなかった小曽根さんの悪戯は、すべての人々へのうれしいサプライズプレゼントとなったのである。

三曲目に演奏されたショスタコービッチの交響曲第10番 ホ短調 op.93は、フルオーケストラで、なおかつ四楽章もある大曲であるが、全身全霊をこめたマエストロとオーケストラの情感溢れる演奏で、この20世紀最大の交響楽作者の壮麗な音楽を心ゆくまで堪能することができた。この日の全三曲は、ほんとうにすばらしいプログラムであったと思う。マエストロ シャルル・デュトワと宮崎国際音楽祭管弦楽団のみなさんに、心からの讃美と感謝を申しあげたい。

さて、終演後、僕と金さんの宿泊組は、シーガイア・リゾートで開かれた宮崎タキシード倶楽部主催の「交流パーディ」(有料)に参加した。これは、文字通り、オーディエンスと演奏家たちの交流を目指した特別企画で、驚いたことに、オーディエンスと音楽家が自動的に同じテーブルに着くように仕組まれているのである。もし望むなら(そして勇気があるなら)マエストロと歓談しながらワインを楽しむこともできるのである。もちろん、小曽根さんも参加された。事情を全く知らない僕たちは、なぜか最前列に陣取り、USBヴェルビエ・フェスティバル・オーケストラの若き音楽家たち、そして桐朋音楽大学に在学中の学生からなる講習生たちの弦楽四重奏を心ゆくまで堪能したのである。怖い者知らずとはこのことである。僕たちと同じテーブルには、この日のプレトークの司会をした橋本邦彦さんがいらっしゃった。橋本さんは、5月6日に宮崎市内の特設ステージで行われたストリート演奏会で演奏されたストラヴィンスキーのバレエ音楽「兵士の物語」の翻訳と語りを担当された方であり、デュトワ氏の通訳もなさっていた。ミュージカルの翻訳で有名で、ここ数年上演されるバーンスタインやソンドハイムなどのミュージカルのほとんどを翻訳されており、宮本亜門さんとのコラボレーションも多い。(ちなみに次回作はスティーブン・ソンドハイムの「スイニードッド」で、なんと大竹しのぶさんと市村正親の主演!大竹さんはミュージカル初主演である。)その橋本さんから、お話を伺うことができた。橋本さんは、ゲネプロで小曽根さんのピアノを聴いて、まず音の美しさに心奪われたという。それは、ひとつの音だけでわかるほどのもので、多くのピアニストの中でもわずかな天才にしか許されていない才能だと語ってくれた。そして、ゲネプロのカデンツァと本番のそれとは全く違っていたけれど、どちらもすばらしかった。ほんとうに心躍る楽しい演奏だと絶賛した。そして、モーツアルトも聴きたいけれども、今度は是非バースタインの「不安の時代」を聴きたい、これは今絶対に小曽根さんでなければ弾けない曲だろうと熱望されたのだった。僕は、そのお気持ちを是非小曽根さんにお伝えしますと橋本さんに約束したのだった。そのあと、二十数年に渡る橋本さんとバーンスタインとの交友について、楽しくお話を伺った。バーンスタインとカラヤンとの確執や、知られざるカルロス・クライバーとの友情、そしてこどもたちへの音楽教育への情熱など、話題はつきることなく続いたのであった。その中で、ひとつだけ印象深かった話をここに記して、このレポートを終わりにしたい。橋本さんは言う。バースタインほど記憶のいい音楽家はいなかった。一度聴いたほとんどの音楽を覚えていた。彼はとてもさびしがりやで、パーティーが大好きだったのだが、そのたびにピアノの前にすわり、ジャズのスタンダードを弾いた。歌詞も完全に覚えており、しばしば替え歌を歌うほどだった。ラテンの音楽、とりわけ中南米の音楽にも興味があって、だから「ウエストサイドストーリー」が出来上がったのだ。ただ、彼には悩みがあった。それは彼があまりにも音楽を記憶していたから、自分が新しい曲を作曲するときに、すべて今まで聴いた何かの曲、誰かの曲に似ていると感じ、亡くなるまで本気で苦しんでいた。20世紀、そして21世紀に新しい音楽を作ろうとしたら、もしそのコンポーザーが恥知らずでなかったら、この問題・苦悩に立ち向かわざるをえない。それは、しかし、天才ならではの悩みなのだけれどね…。僕は、今回の宮崎への旅のはじめと終わりに、ふたつのとてもすばらしい言葉を聞けたと思っている。それは、小曽根さんの「40代特有の問題」に関する言葉と、バーンスタインの「記憶力と創造性」に関する言葉であり、このふたつは確実にリンクしているように思われたからだ。無数の音のパレットと無数のメロディラインを自覚してで、小曽根さんは21世紀のコンポーザー、そして演奏家としてこれからも生きてゆくことになる。だが、この先新たに天才ゆえの悩みと限界を抱え込むにしても、決して小曽根さんは孤独ではないと感じた。僕の中でのシンクロニシティが、なぜかそれを確信させたのだ。これから、小曽根真はもっともっとおもしろくなるぞ…そう信じて疑わない僕なのである。

帰りの飛行機はもちろんオンタイムで飛んだ。空港までのタクシーの中で、ゴルフ好きの運転手さんと、毎年ダンロップフェニックストーナメントにやって来るタイガー・ウッズのことについて話した。あの若きゴルフの天才は、自分の限界をどう考えているのだろう…長いスランプの後奇跡の復活をした彼の言葉も、いつか聞いて見たいと僕は思った。今回の宮崎遠征は、僕の中に新たなフォーミュラをつくりあげたようだ。やはり、搭乗機のキャンセルは、心ゆくまで楽しむものだったのである。

2006年5月20日 (土)

四十代の問題

日曜日の早朝、宮崎へ向かう飛行機に乗るために羽田にやって来たら、搭乗便がキャンセルになっていた。すでにチエックインははじまっており、幾人かの乗客はすでに搭乗待合室に入っていたようだった。搭乗機の突然のメカニカルな問題による欠航によって、航空会社のカウンターは大混乱していた。他の航空会社へのエンドースといえば聞こえはいいが、実際はなかば強制的にバスで空港内を端から端まで移動させられ、再度のチェックインのためにバスを降りまたバスに乗りを繰り替えしていたために、出発は一時間ほど遅れてしまったのだった。団体の観光客と思われる人々が、口々に、そして聞こえよがしに航空会社の対応への不平を口にし、しばらくの間、殺気だった雰囲気が時間を支配していた。しかし、僕はというと、そのトラブルをひとり楽しんでいたのである。2003年の5月にも同じような経験をしていたからだ。それはニューヨークのJ.F.ケネディ空港でのこと。金曜日の夜、マンハッタンのジャズクラブ”Jazz Standard”での小曽根真The Trioのライブを聴き、翌朝帰国のために空港に到着すると、搭乗便がやはりキャンセルになっていた。その時の旅はというと、金曜の夕方にニューヨークに着き、その夜のライブを聴き、土曜日の午前中にニューヨークを離れるという強行スケジュールだったので、それを知った航空会社の職員が、これ幸いと気の毒がって、マンハッタンのホテルを準備するから翌日の便に振り替えるようにすすめてきたのだった。僕もしばし考えた。正直に言えば、もう一泊して土曜日のライブを聴いてゆきたかった。しかし、日曜日に帰国しておかないと、月曜日の仕事に穴をあけることになる。それが絶対に許されぬというわけではなかったが、しかし、一度仕事に穴を開けてしまうと、次のまたとないチャンス、それは小曽根さんにとっての、そしてつまりは僕たちファンにとっての、エポックメイキングなライブやコンサートがブッキングされた時に、僕自身が聴きに行くことをためらうことになってしまう。そのことが怖くて、その日は無理矢理他社便にエンドースしてもらって帰国したのだった。前夜のライブはほんとうにすばらしかった。ニューヨークの小曽根真は輝いていた。はるばるニューヨークまで来たかいがあったと心から思ったのだった。その日以来、僕にとって、搭乗便のキャンセルは、かけがえのないすばらしい音楽・演奏が聴けることの表象となったのであり、縁起が悪いものという文字通りの意味でのジンクスを、熱狂へと転換する方程式となったのである。そして、今回の宮崎旅行では、既にして行きの便がキャンセルとなった。それはとりもなおさず、これから宮崎で聴く小曽根さんのモーツアルトが、以前にも増してすばらしいものであることを約束してくれたようなものだった。僕だけにしかわからない遠征旅行のフォーミュラがささやいた甘美な預言は、もうその日の夕方には現実のものとなった。しかしその現実は、預言をはるかに超えて荘厳なものだったのである。

今年で第11回を迎える宮崎国際音楽祭は、総合プロデューサーであるバイオリニスト徳永二男氏のもと、指揮者シャルル・デュトワ氏をアーティスティック・ディレクターにいただく。そのメイン会場となる宮崎県立芸術劇場は、宮崎市の中心部から少し離れた総合文化公園の中にあった。県立美術館や県立図書館と連なるように造形された美しい建物である。1996年の音楽祭創設の際、音楽的な、そして精神的なとしてシンボルとしてこの音楽祭に深くかかわった故アイザック・スターン氏を顕彰するために、メインホールは「アイザックスターンホール」と命名されている。ウィーンの「ムジークフェラインザール」をモデルにした形式で、「シューボックスタイプ」と呼ばれる。要するに、靴箱のような長方形のホールの底辺に客席があり、二層に吊られたコの字型の桟敷席が低いステージを見下ろす形式なのである。宮崎県産のケヤキやミズメザクラを多用した快適な空間の正面には、壮麗なパイプオルガンがそびえ立ち美しい中に適切な緊張感を与えていた。もちろん、今日のコンサートもこのホールで演奏されるのである。この日のプログラムを示しておこう。

演奏会4「3つのメモリアル」

1 シューマン 「マンフレッド」序曲 op.115

2 モーツアルト ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調「ジュノム」K.271

3 ショスタコービッチ 交響曲第10番 ホ短調 op.93

この三曲である。

 宮崎国際音楽祭管弦楽団は、この音楽祭のために特別に編成されたもので、例えばバイオリンの漆原朝子・啓子姉妹などソリストとしても活躍中のトップレベルの音楽家たちと、海外から招聘されたUSBヴェルビエ・フェスティバル・オーケストラの若き音楽家たち、そして桐朋音楽大学に在学中の学生からなる講習生などからなる混成オーケストラである。わずか二日間のリハーサルを経て、すでに前日、同じアイザックスターホールでドビュッシー、ストラヴィンスキー、そしてラヴェルを演奏して、オーディエンスから喝采と賞賛とを浴びていた。その完成度と音楽性の高さは、マエストロ・シャルル・デュトワをして、このメンバーでツアーに出て、各地の音楽ファンにそのすばらしさを知らしめたいと言わせたほどである。小曽根さん自身、前日のコンサートを聴いてすっかり彼らの演奏に魅了され、音の美しさにノックアウトされたと言う。小曽根さんのピアノとの、極めて高いレヴェルでの対話、コラボレーションが期待される所以なのである。

 開演前、幸運なことに、僕たちはゲネプロを終えたばかりの小曽根さんにお話を伺うことができた。Tシャツでさっそうと僕たちの現れた小曽根さんは、まずオーケストラの音の美しさを指摘し、是非今日の演奏を楽しみにしていてほしいと語った。もちろん、いつものように「ピアニストはへぼやけどな」とつけ加えるのを忘れなかったのであるけれど…。僕たちの話題は、自然に前週に東京フォーラムで行われた「ジュノム」の演奏と、その後、小曽根さんがこのフォーラムに書き込んだメッセージに及んだ。「ジュノム」のすばらしい演奏ののちに、小曽根さんがなぜか内向し、自分と向き合わざるおえなくなったと語ったあの言葉についてである。小曽根さんは、問いに直接答えずに、新たに僕たちに次のようなエピソードを語ってくれた。昨年の暮れ、ブルーノート東京でミンガスビックバンドの公演があったとき、小曽根さんか彼らの音楽を聴きにでかけ、」バークリー音楽大学での同級生であるトロンボーン奏者Ku-umba Frank Lacyに再会した。小曽根さんは彼に、「最近、音楽を演奏していても昔のようにわくわくしないし、楽しくない。それはどうしてなんだろう?」と問いかけたのだそうだ。それに対するFrank Lacyの応えはこうだった。「それはね、まこと、40代特有の問題なんだよ。40代の音楽家の誰もが向き合う問題。音楽の問題じゃないね。君自身の心の問題なんだ」と。もっと若かったころは、新しい和音を弾くたびに感動していた。こんな美しい和音もある。こんな不協和音もある。これはどうだ。これは新しい。このように音のパレットがどんどん増えて行くことが楽しくてしかたがなかった時期があった。でも、今は、その無限に存在するように思われた和音のほとんどを知っており、自分の音のカタログの中にすべてがあるように感じられる。どんなに工夫しても、すべてどこかで聴いた音。そのようにして、自分の作る音に、音楽に、感動できない自分を発見し愕然としてしまった。「音のパレットを広げたことだけで満足してしまうミュージシャンはいくらでもいるよね。僕も、そうならないとは限らなかったと思う。でも、先週『ジュノム』を弾いて、確かに次の次元というか、次のレベルがはっきり見えたような気がするんだ。それは、音のパレットを広げることではなくて、自分が弾くひとつひとつの音の深さ、美しさをどこまでも追求すること…ひとつひとつの音の深さに連れていってもらえる世界に自分が行ってみること…これからの僕はその課題に向き合わなければならないと、『ジュノム』の演奏を通じて理解したんだ。」と小曽根さんは言う。他ならぬ僕自信も40代だから、自分の仕事や生き方の中での40代の問題はよくわかる、というか、とても身につまされる問題だ。しかし、小曽根さんのような天才的な音楽家が、僕たちと同じようにもがき苦しんでいたとは、想像だにしなかったことだった。クリエーションのレベルが違うから、小曽根さんと自分を比較したり、同一化するつもりは毛頭ない。だがしかし、小曽根さんの創り出すものが確かに「僕らの音楽」であることはわかる。「僕らの音楽」「僕らの時代の音楽」「僕らの地球の音楽」「僕らの命の源にふれる音楽」。話を聞いて、モーツアルトが、現代に生まれ変わるとしたら、やはり小曽根真という存在を媒介としてしかありえないと僕は確信していた。30代でこの世を去ったモーツアルトには、40代の問題などなかっただろう。でも、生きながらえていたら、きっと同じ問題に向き合っていたはずだ。モーツアルトを失われた生涯を生き直す小曽根真が僕の目の前で動きつづけている、そしてあまりにも率直に自らの思いを僕たちに語ってくれることに僕は深く感動していた。小曽根真の「ジュノム」はその個性的なカデンッアだけが見せ場ではない。ファーストノートかラストノードまでのひとつひとつの音が、命がけのドラマなのだ。

2006年5月 8日 (月)

名づけの精神史

早朝に目覚めてこの文章を書いている。この週末は、さすがに疲れたのか、昼間からうとうとばかりしていた。しかし、夜寝ると、授業ではない、なぜか一般向けの講演に遅れそうになる夢ばかり…。講義で使うスライド(古い!今時はパワーポイントである。)が見つからない。講演後には海外旅行への出発が控えているというのに…だ。相当ストレスがたまっているのだろう。あまりにもわかりやすすぎる夢で、目覚めてから笑ってしまう自分がいる。こんなに本人に簡単に理解できるのなら、精神分析医などいらない。

先週、高校生たちに「夜明け前」に関する言葉を教えた。あかつき・あかとき・あした・あさまだき・しののめ・いなのめ・おしあけがた・つとめて・夜のほどろ…。早朝の美しさのように言葉も美しい。そして、多彩だ。

「君たちの中に朝型の人いますか?朝早く起きて勉強している人。夜更かしして受験勉強する、いわゆる夜型の人は多いけど、今時朝型人間は少ないかもしれません。僕なんか年寄りだから、朝早く目覚めちゃう。仕事や予習はいつも早朝です。だいいち、満員電車がこわいので、毎日六時過ぎには家を出ます。だから、だいたい毎日四時くらいには起きて、夜明けを迎えることになります。早起きって気持ちいいんだぜ。新聞配達のバイクの音が聞こえるころ、窓からうすぼんやりした光が差し込んできて、やがて窓全体に広がる。窓を開けると、冷たいきれいな空気が流れ込んでくる。とても素敵な時間です。君たちの勉強も朝型に変更することをすすめますよ。勉強の能率があがりますよ。」

「でも…もしかして君たちが朝型人間になって、早朝に勉強することになっても、やはり新聞配達がやってくる時間だと漠然と認識するだけで、美しい名前をつけようなんて思いもしないのではありませんか。「夜明け前…それでいいじゃないか…」そう思うのが普通だと思います。でも、奈良・平安時代の日本人は、この時間に、たくさんの美しい言葉をつけている。なぜなのでしょうね。ひょっとして彼らが暇だったのでしょうか?あるいは全員が詩人だったとか…どう思いますか?」

「僕は、大学生のころ、言語人類学者の先生から、『サピア=ウォーフの仮説』というものを習いました。サピアとウォーフという二人の人類学者が、共同で提出した仮説です。仮説というからには、まだ客観的に証明されていません。どういう仮説かと言うと、『ある文化にとって重要だと思われる事柄については、それを表す語彙数が増える』というものです。西サモア諸島では、ここは漁業で生計をたてている島なんだけれども、海の特定の場所に名前がつけられているというのです。僕たちなら「西北西の沖合5キロの位置」などと表現する場所を、例えば「青山」と名づけている。(海に山って名づける人はいないでしょうけれど…)。その島で「青山」と言ったら、島民たち全員が「あの場所だ」とイメージがわくのだそうです。もちろん、ただの大海原なんですよ。ここからわかることは、人間というものは、自分にとって、自分たちにとって大切だと思うものに対しては、名前を与えるという原理なんです。ほら、君たちにもひとりひとり固有の名前がついているね。これは、ご両親が君たちがうまれたときに、この子が将来こんな子になりますようにという願いをこめて、君たちに名付けをしたんです。ご両親にとっては、君たちはかけがえのない存在なんです。だから、名を与えた。犬だって「犬」って言っているときにはかわいくないけど、「こころ」(あっ、これが家の犬の名前です。雄のミニチュアシュナウザーなんですけど…変ですか?)って呼ぶともう世界一かわいい。かわいくてしかたがない。名付けは、愛情の表現でもあります。」

「じゃ、古代の日本人は、なぜ『夜明け前』にこんなにたくさんの美しい名前を与えたんでしょうか…。たぶん、それは彼らのこんな生活習慣のためでした。君たちは、当時の結婚の形態が『通い婚』あるいは『妻訪い婚』だったことは知っているでしょう。男女二人は一緒に生活せず、男が女のもとに通い一夜を過ごす。しかし、これには厳密なルールがありました。男が女のもとを訪問する際は「月明かり」のもとで行うべし。当時、都大路にも街路灯はありません。しかし、たいまつをつけて徘徊してはいけなかったのです。闇夜には通えない道理です。だから、男も女も満月の夜を待っていた。彼らが、『望月・十六夜月・立待月・居待月・臥(寝)待月』と、満月の夜から19日の夜まで、この五日間だけに名付けをしているのは、当然といえます。では、『夜明け前』はなぜ大切だったのか。女のもとで一夜を過ごした男は、必ず「夜明け前」に自宅に戻っていなければなりませんでした。いわゆる『朝帰り』はもってのほか。とりわけ、結婚を正式に宣言しないうちにそんなことをすると、一生ダメな男という烙印を押されるようなものだったんです。だから、『夜明け前』にこぞって帰った。そして、自宅に帰ってから『後朝の文(きぬぎぬのふみ)』というラブレターを書くのです。それが恋愛のマナーでした。だから、『夜明け前』は男が帰る時間、別れの時間、男女が一緒にいられる最後の瞬間でした。ロマンチックで切ない時間を、美しい言葉で表現するのは、人間として当然のことだと思いませんか。」

「恋愛ってすばらしいものです。君たちも、もうその経験がある人もいるだろうし、これから経験する人もいるでしょう。恋愛は誰もがするものだし、誰もをロマンチックにします。受験生である今は恋愛に逃げてはいけませんが、いずれ近い将来誰もが味わうことになる美しい感情の世界です。古代人のその思いが、『夜明け前』という言葉に結晶している。そう思ったら、古語にも少しは親近感を感じられるのではないかと僕は思いますよ。」

「ついでに言いますが、君たちの中には、文法用語のような何かを説明するための言葉に拒否する人がたくさんいます。難しい漢語は見るのもいやだとかね。でもね、人間はずっと昔からひとやものやことがらに『名付け』をすることで、認識してきた歴史があるんです。『名付け』ることではじめて相手が認識できる。愛することができる。相手とコミュニケーションがとれるのです。だから、多少面倒くさいでしょうが、僕がこの授業の中で使う用語『接続・係り結び・連体中止法・一連の述語』などは、覚えてくださいね。そのひとつひとつに、名前が示す独特の世界があるのです。それを共有しないと、君たちは教室の中でただひとり異邦人になってしまいますから。僕はこれから何度も言いますよ。『名前をつけたらおともだち』。ようするに、すべてはコミュニケーションの問題なんです。自分と違う世界とつきあわないと楽しくないじゃないですか。『名前をつけたらおともだち』。」

文章を書いているうちに、夜がすっかり明け切ってしまった。大型連休明けの月曜日、今週も頑張ろう。

2006年5月 4日 (木)

歌道執心

世の中こぞって大型連休中で、今年は天候にも恵まれて毎日大変な人出だが、僕の所属する予備校では、この期間カレンダーどおりに授業が行われ、休みは一切無い。やっと勉強の習慣が確立し、受験生としての自覚ができたところでの連続した休暇は、精神と肉体とを一気に弛緩させ、かえって逆効果になるということだろう。あるいは、受験生としての覚悟を決めさせる「踏み絵」の役割を果たす…そういったイニシエーションの意味もあろう。とりわけ浪人生にとっては、家族連れや山歩きの人が散見するガラガラの電車に乗って登校するわけで、自分が社会的には少数者の立場に立ったこと、外国人の目で社会を眺める存在になってしまったことを、強く印象づけることになる。それは、約10ヶ月間の短期留学のはじまりを高らかに告げる鐘の音でもあるのだ。僕はというと、満員電車から開放されることを無条件で喜び、それでもなぜかいつもの時間に家を出る。今日はクルマで津田沼へ行ったが、帰途高速湾岸線の渋滞(TDLからの帰宅渋滞)に巻き込まれ、少しだけイライラした。そうとう疲労は蓄積されてきているものの、トレーニングを続けているせいか体調は良く、心地よい筋肉痛はあっても、思考を妨げるような頭痛・肩こりなどはない。僕自身の精神と肉体も、新しい局面を迎え始めたようだ。集中力をさらに高めて、生き生きと快活に暮らしたいと思う。いつも厳しく肉体を追い込んでくれる素敵なトレーナー諸君に感謝!

『方丈記』の作者鴨長明の歌論『無名抄』は、「歌道執心(かどうしゅうしん)」の話を多く収める。文字通り、和歌の道にひたすら執着し、すばらしい作品を残すことに生涯をかけた芸術家たちの話である。「執着(しゅうじゃく)」は、古代・中世を通じて日本社会の思想的・宗教的基盤であった「仏教」では完全に否定される。権力欲・名誉欲・金銭欲・食欲・性欲・愛欲…人がそれらに「執着」するがゆえに、人は不幸になる。死んでしまった最愛の夫に会いたいがために、石になった女の話がある。彼女の死後も魂は現世(げんぜ)に残り、ついには成仏できない、それは人として最低のことだと説く。「妄執(もうしゅう)」とはそのようなことを言うのである。現世において欲望をすべて捨てよ、仏に帰依し出家をせよ、それが唯一の極楽往生の道である…仏教とは本来そう教えるラディカルな宗教だ。中世の人鴨長明も、自らものした仏教説話集『発心集』でそのように説いている。ただし、「歌道執心」の人だけは別である。

平安時代に登蓮法師という歌人がいた。ある雨の日、登蓮法師とその友人たちが集まって話をしていた。登蓮法師は皆に問いかける。「ますほの薄というのはどんな薄なのか」と。和歌の中で慣用的に用いられる「ますほの薄」の由来を知りたいと思ったためである。ある老人が、「渡辺というところに、その事を知る高僧がいると聞いたことがある」と言った瞬間、登蓮法師は無言になり、「蓑と笠を借してください」と願い出る。話を中断し、出立しようとする登蓮法師に、友人たちはその理由を問うと、登蓮法師はこう言った。「渡辺にゆくのです。長年不審におもっていましたことを知っている人があると聞いて、どうしてそれを尋ねないでいられましょうか」と。「それにしても雨が止んでから出発なさいませ」と友人たちは諫めるが、登蓮法師はこのように言い捨てて渡辺に向かうのである。

「いで、はかなき事をものたまふかな。命は我も人も、雨の晴れ間などを待つべきものかは。何事も今静かに」(なんとまあ、つまらないことをおっしゃるものですね。命には限度があります。私の命も、またその方の命も、雨の晴れ間などを待つものとは限りません。晴れ間を待つ間に、どちらかの命が失われるかもしれないのです。何事も、今ただちに静かに行動するものです)。

「この話、もし今君たちに明確な何かしたいという目標があり、それに向かってひたすら努力していたらなら、すごく理解できるはずだよね。例えば、音楽や絵画などの芸術や、スポーツ、それ以外の学問でもいい。ほんとうにやりたいことがあったら、ひたすらそのことばかりを考えるはずです。そして、まず身体が動く。登蓮法師はそのような『執心』をもっていたわけです。『執心』は仏教では完全に否定されるけど、受験生には必要だと思う。そうでなかったら、予備校に来る意味なんかなくなる。でも、この登蓮法師のように強い『執心』ではなく、ただなんとなく大学に行きたいなあ…くらいの弱いモチベーションの人が多いのも事実ですね。君たちも、ちょうど自分の将来について考える時期だから、自分にひきつけてこの登蓮法師について考えてみてください。彼のこの高いモチベーションは、彼に特別の才能があったからなんだろうか、つまり彼はある種の天才なのだろうか、どうでしょう?僕は、才能と努力についていつもこの話をします。タイガー・ウッズという天才的なゴルファーがいるよね。彼は、努力の天才ともいわれます。ゴルフが好きで好きで、朝から晩までゴルフのことばかり考え、練習を重ねている。試合でパターの調子が悪かったとき、彼は日没で球が見えなくなるまで練習をしているといいます。天才と呼ばれる人間が一番最後まで練習をしている。才能とは努力だ…と言ってもいいかもしれないよね。もうひとり、これは日本人のダンサーなんだけれど、イギリスのロイヤルバレエ団で初めての日本人プリンシパルになった熊川哲也という人がいます。今、Kバレエカンパニーという集団を率いています。彼は、『あなたはどうしてプリンシパルになれたんだと思いますか』という問いに対して『才能だね』と答えました。僕は、そのインタビューを見ていて、なんて不遜な人間なんだとも思ったのですが、あとで彼は本の中でこう語っています。『ロイヤルバレエ団でトップダンサーになるためには、練習にすべてをかけ、個人ができる限りの努力をしているのなんか当然のことなんです。だから、そのなかで自分だけがプリンシパルに選ばれた理由を問われたら、才能だと答えるしかない。でないと、他の人の努力に対して失礼でしょう』と。僕は、努力と才能をめぐるこのふたりの議論は、実は同じことを言っているような気がしています。ただ、一度君たち自身で考えてみてください。自分には才能がないから、この道に進めないんじゃないか…そう思っている人も多いと思います。でも、才能とうものが、まず努力する才能…つまり『執心』にあるとしたら、まず自分の内側にその情熱があるかどうか問いかけて見るべきでしょう。やってみて、『我に才無し』と思ったら、思えるまでやれたら、それは幸せといえるんじゃないでしょうか。是非、今年、今この時だからこそ考えて見てください」。

僕など、才能の無い人間の典型だけれど、だからこそ生徒たちに言えることもある。ちょっと挑発的にはなすと、目が輝き出す生徒と、目をふっとそらす生徒がいる。それでいいと思う。でも、「執心」の芸術家には、今でもあこがれている自分がいる。谷川俊太郎が武満徹についてこう言っていた。「彼は僕とあうと、突然こないだ見た映画の話を堰を切ったように話し出すやつでした。あいさつもせずに」。そういえば、大学生のころ、ゼミが終わって大学から駅の間、つまらない世間話をしている僕たちに向かって、ある先輩がこう怒ったのだった。「お前らはなんで帰り道にそんなくだらない話をしながら歩いていられるんだ。ほんとうに文学に心奪われているのなら、今までゼミで話していた話題をしながら帰るのが本当じゃないか。」あの時は、ただの難癖だと思ったが今ならわかる。「執心」とはそうことなのだと。

「君たちは、入試のために無理やりやっている古文を『文学』とは思わないでしょうね。僕も予備校で『文学』を教えようとは思わないです。でもね、「執着」が完全否定される中世に、「歌道執心」の話が残り、そして「執心」を称揚していた人がいたことだけは忘れないでください。なぜだと思いますか?それは、やはりこの作品が『文学』だからなんです。芸術家には芸術家の心がわかる。志ある者には志がわかるってことです。そのことだけ、忘れないでいてくれればうれしいです。余計なことを話ました。」やはり、僕は「歌道執心」について語ることが好きなのだなと思う。

2006年4月14日 (金)

「古典」を読むこと

 気がついたら46歳になっていた。若い頃、自分の42歳までの姿はなんとなく想像できていたのだけれど、なんだかそこまでで人生が終わりそうな気がして、その先を考えようともしなかったことを思い出す。もうあれから4年も生きてしまったのだな…最近よくそんな風に考える自分がいる。

 人生そのものが"terra incognita"(未知の国)を旅するようなものだが、とりわけこの数年は異国に迷い込んでさまよい歩いている気すらするのはなぜなのだろう。仕事には十分慣れ、生活はそこそこ安定しており、家族との小さな幸せも確かにある。そして、それはかけがえのない大切なものだとも思う。だが、だからこそ、それを守るためだけのために、時として自動化して「安楽」に生活している自分が、まるで異国人のようにも思えてくるのだ。僕はこんな大人になりたかったのだろうか?せわしない日々の生活に、なんとなく息苦しくさを感じ渇いている自分がいる。子どものころの自分のまなざしに審判を受ける自分がいる。

 唐突だが、これから本気で「古典」を読もうと思っている。都会の雑踏の中で、職場のざわめきの中で、家族との団らんの中で、歴史に淘汰されてきた古人たちの言葉に向き合う。いまさら、かっこつけて哲学者を気取るつもりはない。孤独にならなくてもいいのだと思う。家族と公園にでかけてシェークスピアの気に入った一節ずつを朗読する。病院の診察室で医者と『徒然草』談義をする。転職の相談に来たかつての教え子にアウグスティヌスの回心について語ってみる。そんなたわいもない日常の中で「古典」を読んでゆきたい。理解できなくていいのだ。古人の声に自分の声を重ね合わせることができるのなら…。

 読書好きを気取りながら「新書」ばかりを読んできた僕だ。思潮の動向に敏感で、「思想」だってファッションのひとつだった。そこから何も学ばず、何も身についていないことは、自分が一番わかっているつもりだ。ファッションはすてきだが、僕にはもうそれにつきあう体力も時間も残されてはいないような気がする。だから今「古典」を読む。

 僕は、大学・大学院で日本の古典文学を専攻し、今は予備校で受験生に「古文」を教えている。だけど、どうも日本の古典がしっくりこないままだ。『源氏物語』はいまだに好きになれない。『徒然草』はようやく魅力が見えてきたところかもしれない。松尾芭蕉はこれからだ。で、今のところ、モンテーニュが一番肌に合っている気がする。「道徳観察者」という正真の「モラリスト」、山の向こうにはまた別の正義がある…と語る中世のフランスの哲学者はとても魅力的だ。だから、『エセー(随想録)』を読む。『徒然草』と比較しつつ…。

 僕には夢がある。今は一介の「古文(日本)」教師に過ぎないけれど、いつの日か「古典」の教師になる…という夢だ。「古典」の上に、日本の…とか、中国の…とか、ヨーロッパの…とかつかないただの「古典」の教師。専門はない。『チップス先生さようなら』のチップス先生のように、ラテンの引用句を会話のふしぶしに入れ込むのではなく、快活に日常生活や芸術について語るおしゃべりな教師。考えがまとまらないとき、あの人と話したらなぜか頭が整理されてはっきりと問題点が明らかになった…と言われるような穏やかな明晰さを持ったメンター。まあ、僕には無理なはなしだが、でもそういう人になってみたい。なれたらいいな。

 時間はないが、時間はある。だから、ゆっくりこのブログに自分の歩みを残してゆきたいと思う。本来軽薄な流行大好き人間だから、すぐに馬脚をあらわすだろう。そのときは、思いっきり笑ってやってください。古典とジャズと教育と…へんなとりあわせの「哲学のライオン」出発進行!

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