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学問・資格

2012年10月23日 (火)

エンリッチ講座 東浩紀さん「人間と動物とのあいだで引き裂かれる『人間』」のご報告

中西の総括的報告(フェイスブック)


昨日の東浩紀(@hazuma)さんの講義(河合塾エンリッチ講座)はすばらしいものでした。

聴衆の大半は河合塾の大学受験科生(浪人生)でしたが、グリーン生(現役生)もちらほら。職員・講師の他、東大の院生、社会人の方などの多彩な聴衆に、東さんは真摯に対峙し、自らの思考を雄弁に語ってくださいました。

まずは受験エリートであった自身の来歴(河合塾との関わりを含めて)と東大入学前のオリエンテーション合宿で感じた大きな失望(受験ってゲームでしかないんだ!)とそれによってもたらされた転機。なぜ文Ⅰに入ったのに、法学部にすすまず教養学部にすすみ思想・哲学の研究に向かったか。などなど、大学受験を控えた生徒に向けて、丁寧な導入をしてくださいました。

東さんの研究の出発点であるデリダの紹介に入ってからは、明晰な哲学的分析が展開され、ラカンを対置することでデリダ理解が深まることを前提に、西洋哲学では人間と物(魂の有無によって区別される)だけを対象とし、中間的な存在である「動物」が扱われてこなかったことを指摘。人間はいつも精神の明晰さを保っているわけではなく、ふだんはぼんやりしており、それはまさに「動物」に近い存在であるが、西洋哲学ではそれを意図的に扱ってこなかったことを明らかにされました。東さん自身は、今後社会思想が「動物」を扱わなければ、グローバル化した消費社会の分析と理論化はできず、自身がそれをやってゆきたいということを明言されたわけです。「動物」は不完全な人間という意味で「こども」に通じており、さらに社会的弱者の問題にも展開するはずだという目論見も示されたわけです。ハイデガー・ヘーゲル・コジェイヴ・ラカンなどを俎上にあげての講義でしたが、東さんの丁寧な説明で、聴衆も思考に誘われていったのでした。

(私のとった講義ノートはTwitter@mitsuo1960)で発信しています。不十分きわまりないものですがご参照ください。)

講義後の質問は、約1時間続きました。受験勉強に身が入らないという具体的な悩み相談、東さんは生まれ変わったらもう一度東大に行きますかという問いかけ、東さんの今後の研究の方向性、村上春樹、「おおかみこどもの雨と雪」と日本のアニメーション、「動物化」論の教育学への展開について、などなどたくさんの質問が飛び交いました。そろそろ最後に…と私が行った瞬間、5人が挙手し、しかし東さんはそれにひとつひとつ丁寧に応えてくださいました。思想家が真剣に思考し言葉を紡ぎ出す現場を目の当たりにすることは、聴衆である生徒たちにとってどれほどの僥倖であったかと思います。さらに東さんは、この質問の中で、今まで公にしてこなかった、社会思想の本質を「べき乗分布」と「正規分布」の二極線の相克と調和で理解し、暗い現在情勢と将来展望の中で、一筋の希望を示すという話をしてくださいました。これは今後本にまとめられるそうです。(こちらは東さんがご自身のTwitter(

@hazuma)でまとめ、公にしていらっしゃいます。私もリツイートしましたからご参照ください。)東さんは、河合塾に到着時に「河合塾なう。聴衆は浪人生がおもだということ。新しい! なんかわくわくするな。この講演はw 」とツイート。さらに帰宅後、「今日の河合塾講義は新鮮でした。質問で「現国伸び悩んでいるけどどうすればいいですか」とかあったり。(ぼくの答えは「消去法で選択肢を選べ」w) 某誌より「バブルを知らない世代」としての対談依頼が来た。先日プレイボーイでは「U-40」の取材も受けた。なんか誤解がありそうなのであらためて強調 しておくけど、ぼくは1971年生まれの41歳、バブル期は高校生〜大学生で、みなさんが思うほど若くないですぜ!! いまやもう圧倒的ロートル感ですよ。 小学生女子を見ても、萌え〜とかではなく、娘の同級生としてしか見られなくなってしまった終わった年齢ですよ。 若くなりたい……もういちど……若くなって……アキバ行くんだ…… 1998年から2001年にかけて、ポスドクで学振もらって無職ながら快調に生活していたとき(学振は意外と給料いいのです)、ぼくは延々とミステリ読ん でゲームやってた。その成果は動ポモに活かされているので無駄ではなかったのだけど、あんな夏休みみたいな時間をもういちど過ごしたい。 昼夜逆転するの関係なく、1週間ぶっとおしでゲームとかやりたいなー。あの頃は平気で、アドベンチャーゲームの一画面突破するのに3時間とかかけてた (行き詰まっても攻略サイト見なかった)。夫婦でやってたし、めっちゃ楽しかった。 でも、このあいだ妻と話したのだけど、かりにいま暇ができてもたぶんあの頃には戻れない。時間が貴重であることを知ってしまったから。一晩時間があるな ら、いまは妻もぼくも別のことに時間を使う。若いというのは、時間の貴重さを知らないということ。それが眩しくてしかたないよ、いまのぼくは。 とか後ろ向きのことを書いているのは、今日、20年ぶりに河合塾横浜校を訪れたからだと思います。なにもかも懐かしい。」とツイートしてくださっています。東さんにこうした思いを記していただけたことを、司会としてよろこばしくまた誇りに思っています。是非来年以降も河合塾での講義をお願いしたいと念願しています。実は東さんと私が出会ったのは、出口汪先生のパーティでのことでした。このことは、東さんの紹介のときに生徒たちにも言ったのですが、ソーシャルネットワークのいわば明るさの部分で、出口先生、東さんとの出会いがあり、今回の講義が実現したことは明記しておきたいと思います。もちろんSNSには負の部分も多いのだけれど、すでにこれは私たちの社会にとっての与件で、無視することはできない。現にこの文章もSNS上で公開されるのです。だからこそこの時代の社会思想を形成する必要があるのです。東さんのお仕事は常に現在の分析から未来を指向しており、今回その一端に触れられたことは、私にとっても、多くの聴衆にとってもきわめて貴重な経験でした。講義に来て下さった東浩紀さんに改めて感謝申しあげます。そして出会いのきっかけとなった出口汪先生にも。ありがとうございました。

 

 

 

Twitterのまとめ 東さん&中西


(おおかみこども絶賛中) @hazuma (東さんのツイート)

河合塾なう。聴衆は浪人生がおもだということ。新しい!

なんかわくわくするな。この講演はw

中西 光雄 @mitsuo1960 (中西による講義中の連続ツイート)

東浩紀さんの講演がはじまりました。まずは、東さんの受験生活の話から。

東大入学時の違和感。 東大入学前のオリエンテション合宿が折り返し点。受はゲムだった。自分のやりたいことを考えたことはなかった。

エリトからのドロップアウト、哲学思想に向かう。ただそれはしいことを簡単明するという受験産業的な欲望に打ちされていた。しかしそれは大学では通用しなかった。

デリダを理解するには対抗者ラカンとの比較が有効だと気づく。ヨーロッパ思想では魂の有無によって世界を分けてきた。人間と物。では、動物はどうなるのか?

ハイデガーのDasein(現存在)。人間は世界を形成できる。魂がある。石は無世界的。魂がはない。では動物はどうなるのか。動物は世界貧困的。ハイデガーの区別のは論理の区別で神学的にうつくしい。だが動物はこの議論に入らない。

ハイデガは西洋哲学の象物排除、子供排除、障がい者排除、械的知性の排除につながる。めて式的だが。大学では判がかった。

 

コジェイヴ「ヘーゲル精神現象学読解」。ヘーゲルが哲学が難しくなった原因。神秘主義が入っているからだ。ヘーゲルが「世界史」を作った。ヘーゲルは世界 史の終わりをかんがえた。ヘーゲルはナポレオン、コジェイヴは第二次世界大戦で終わり。歴史の終わりは人間の終わりでもある。

 

コジェイヴは二つの道を示す。アメリカ化と日本化。日本化はスノビズム、形式化。アメリカ化は物化。ニズが即刻たされる。なる欲求属。消社会の暴走。ヨロッパの哲学が物をえない。社会思想、政治思想は消者、消社会をえない。

ヨーロッパ思想は人間に強い規定しかしていない。主体的な意識のある人間像しか扱わない。しかし、頭ぼんやりな人間を扱わないと、世の中はよくならない。頭ぼんやりとした人間は動物化。

こどもの問題はラカンは無視。教育のことをどう考えるかを問題化したい。自己決定をどうかんがえるか。消費社会論では人間になりきっていない人間=子どもをどう扱うのか。考えてゆきたい。

 

 

(おおかみこども絶賛中) @hazuma (東さんの連続ツイート)

酒飲んで電車で帰るの久しぶりー

今日の河合塾講義は新鮮でした。質問で「現国伸び悩んでいるけどどうすればいいですか」とかあったり。(ぼくの答えは「消去法で選択肢を選べ」w)

そして明日は、某日吉で朝から講義かー

某誌より「バブルを知らない世代」としての対談依頼が来た。先日プレイボーイでは「U-40」の取材も受けた。なんか誤解がありそうなのであらためて強調 しておくけど、ぼくは1971年生まれの41歳、バブル期は高校生〜大学生で、みなさんが思うほど若くないですぜ!!

いまやもう圧倒的ロートル感ですよ。

小学生女子を見ても、萌え〜とかではなく、娘の同級生としてしか見られなくなってしまった終わった年齢ですよ。

若くなりたい……もういちど……若くなって……アキバ行くんだ……

 

1998年から2001年にかけて、ポスドクで学振もらって無職ながら快調に生活していたとき(学振は意外と給料いいのです)、ぼくは延々とミステリ読ん でゲームやってた。その成果は動ポモに活かされているので無駄ではなかったのだけど、あんな夏休みみたいな時間をもういちど過ごしたい。

 

昼夜逆転するの関係なく、1週間ぶっとおしでゲームとかやりたいなー。。あの頃は平気で、アドベンチャーゲームの一画面突破するのに3時間とかかけてた (行き詰まっても攻略サイト見なかった)。夫婦でやってたし、めっちゃ楽しかった。

 

でも、このあいだ妻と話したのだけど、かりにいま暇ができてもたぶんあの頃には戻れない。時間が貴重であることを知ってしまったから。一晩時間があるな ら、いまは妻もぼくも別のことに時間を使う。若いというのは、時間の貴重さを知らないということ。それが眩しくてしかたないよ、いまのぼくは。

とか後ろ向きのことを書いているのは、今日、20年ぶりに河合塾横浜校を訪れたからだと思います。なにもかも懐かしい。。

 

(おおかみこども絶賛中) @hazuma  (東さんの連続ツイート)

そういえば今日の河合塾講義ではじめて公に話したのだけど。

ぼくは実は社会思想の本質は「べき乗分布」と「正規分布」の二極線で理解できるのではないかと思っていて、いつかそれで本書こうと思っている。人間は身体 的には正規分布。身体能力が100倍高いとかありえない。けど記号操作を介すると資産や影響力はべき乗分布する。影響力100倍とか普通。

人間社会はその二原理をどう調停するかで作られている。共産主義はぜんぶ正規分布にしたいと思っていた。逆に新自由主義はすべてべき乗分布にするのが合理 的だと考えている。でも本当は人間はその両者の調停で社会作っていくしかない。

たとえば、倫理学でいうカント主義は正規分布の倫理、功利主義はべき乗分布の倫理とか、整理できると思うんだよね。

とかいう感じで「だれでもわかる哲学」的なものを考えているんだけど、この二曲線のアイデア、あとでパクられると嫌なので、ここで今日そういうことを言ったよーというのを公知の事実にしておきます。ほら、ぼくって心狭いからさ。。

人間は平等ではない。でも平等を求めてしまうのは、要は人間の身体がみなだいたい同じ大きさだからにほかならない。裏返せば、人間の身体がみなだいたい同 じ大きさということこそ、カント主義とかマルクス主義とかの平等の理念の根拠なのだと思う。みな、このことを過小評価している。

これって超わかりやすい話でもあって、たとえば、男女の仲って階級超えるじゃん。それはどういうことかというと、べき乗分布で秩序化されている世界(所得 格差)に、正規分布の世界(結局男と女でしょ)が入り込んでいるという話だと思うんだよね。裸になると資産関係なしっていうか。

いくら資産の格差があっても(そしてこれからそれがどれだけ強くなっても)、人間はおたがいが同じような身体をもっているというかぎりにおいて、絶対に平等の理念を失わないでいられる。ぼくはこれこそが希望だと思うんだな。

左翼的な議論がだめなのは、べき乗分布を消し去れると思っていること。べき乗分布は、正規分布と同じくらい「自然」な原理であって、格差社会は絶対に解消 できない。格差の再生産は資本主義の原理そのもの。しかしそれはすべてがべき乗になるべきだということも意味しない。

べき乗分布の世界と正規分布の世界をどう腑分けし、繋げていくかが、21世紀の思想の課題だと思うんだ。

というわけで、ぼくは今後リアルの可能性は正規分布にこそあると思っている。資産が1万倍だろうと、フォロワーの数が1万倍だろうと、リアルに会うと身体 の大きさは(そして身体的能力も知的能力も)大して変わらない。ここにこそ平等の理念の根拠があるし、またリアルに会うことの意味もあると思う。

ネットは記号操作の世界だから、どうしてもべき乗分布になる(スケールフリーになる)。強い奴はどんどん強くなる。でも、100万フォロワーのひとでも、 オフ会で摑まれば100フォロワーのひとの話を聞かざるを得ない。この単純な事実に、人類の希望があるんだと真剣に思ってる。

とかいうかんじ。そのうち、ちゃんと本にします。きっとこれは、ぼくの哲学の中心の問題なので。

ではおやすみ〜

 

Twitter上での反応

(おおかみこども絶賛中) @hazuma 

東先生@hazumaへの中西先生@mitsuo1960のツイートを読んでいると、従来の哲学というのがいかに窮屈なものだったか、が伺える。確かに各時代の選りすぐりの賢い人間が哲学を担って来たのだろうし、参考にしなければいけないとは思うが、やはりあまりに窮屈だ。強烈な印象

(おおかみこども絶賛中) @hazuma 

"@mminami1: @hazuma 現役生が僕だけで驚きましたが、実は予習していったので内容はバッチリでした!!"受験もがんばれー

(おおかみこども絶賛中) @hazuma 

まさにそういう話です。RT @herobridge なるほど。確かに金持ちが身長5mあったら打ちのめされるな。でも人間は多かれ少なかれ似たような姿形だ。そこの部分で格差を乗り越えられるって事か。

2012年10月 3日 (水)

河合塾エンリッチ講座 東浩紀さん講演 人間と動物のあいだで引き裂かれる「人間」

河合塾エンリッチ講座2012

 

東浩紀(早稲田大学教授) 

人間と動物のあいだで引き裂かれる「人間」

 

20121022日(月) 17:3019:00 

河合塾横浜校3N教室

入場無料・申込不要

 

 例えば、ジュリアード音楽院出身の演奏家について「彼はジュリアード・メイドのチェリストで…」と表現することがある。それにならえば、東浩紀さんは「河合塾メイドの思想家・批評家」である。

 

 中学生の ころから、今はなき駒場校に通い始めた彼は、高等学校卒業までの数年間を河合塾で過ごした。彼のフットワークは軽く、時に他校舎の単科講座にも足を伸ばし たこともあるそうだ。そればかりか、大学入学後にはグリーンコースのチューターまで経験している。僕が東さんとはじめて会ったときにも、彼は河合塾への愛 を存分に語ってくれて、むしろ僕のほうが面はゆかったほどだ。彼がこれほどまでに河合塾をなつかしがるのは、単なる多感な思春期の時代へのノスタルジーで はなく、明らかに、彼の思想家・批評家としての基盤が、この河合塾での数年間に形づくられたことを物語っている。今回の講座では、そんな彼の自己形成史に まで踏み込んだお話が聴けるはずである。

 

 東さんの 問題関心の領域は極めて広い。はじめ、フランスの思想家ジャック・デリダの研究から出発したが、日本のアニメや現代美術への批評、オタク文化を分析したポ ストモダン論、そして政治の問題まで、現代に切り結ぶあらゆる事象を俎上に載せる。そして彼自身SF作家でもある。書籍や新聞、「朝まで生テレビ」などマ スメディアによる発言も極めて多い東さんだが、Twitterで思いを常に発信し続けており、時に過激に自己をさらすことを厭わない。3.11の大震災とそれに続く原子力事故の際には、思想家・批評家として、また幼いこどもを持つ親として、苦悩し行動する様がつぶさに語られたことは記憶に新しい。

 

 大学での教育活動を行う一方で、仲間たちと会社を立ち上げ『思想地図β』をいう雑誌を発刊している東さんは、言論アカデミズムや権威から自由になる闘争を続けており、今最も注目すべき人物のひとりである。

 その東さんが、最先端の問題意識を「コウハイ」である君たちに語ってくれるのが、今回の講座である。従順である必要はない。「コウハイ」たちと論争が起きることを東さんは望んでいるに違いないのだから。(司会 中西光雄)


20121022b

2011年5月22日 (日)

黒川清さんのリーダーシップ論

この週末の一番の成果は、慶應義塾大学福澤諭吉記念文明塾でリーダーシップ論を

ロジカルかつ情熱的に語る黒川清さんの講義を聴けたこと。

次代を担う日本の若者を信じ、鼓舞する姿に打たれた。

大学を目指す私の生徒たちに視聴をすすめます。

僕自身も変わらねば。

51歳。

まだ守旧派になるわけにはいきません。

英語での発信、なんとか実現しようと思っています。

黒川さんの講義

http://www.ustream.tv/recorded/14806406

黒川さんのブログ(日本語)

http://www.kiyoshikurokawa.com/

IMPACT JAPAN(英語)

http://impactjapan.org/



2011年2月18日 (金)

やりなおし古文講座のテキストファイルです

「text02.doc」をダウンロード

ワードテキストとなっております。

ダウンロードして用いてください。

2011年2月17日 (木)

第2回【USTREAM】やりなおし古文講座「源氏物語を自力で読む」

私のインフルエンザ罹患で延期していた

やり直し古文講座「源氏物語を自力で読む」の【USTREAM】放送を

2月18日(金)の20時から行います。

1回目の放送を見てくださった方、遅くなってほんとうに申し訳ありません。

今後は定期的に(月1回)行いたいと考えています。

どうぞよろしくお願いします。

facebookページも開設しました。ご覧ください。

http://www.facebook.com/pages/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%85%89%E9%9B%84%E3%81%AE%E3%82%84%E3%82%8A%E7%9B%B4%E3%81%97%E5%8F%A4%E6%96%87%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%82%92%E8%87%AA%E5%8A%9B%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%80/111174172293488?sk=wall

2010年12月26日 (日)

第2回【USTREAM】やりなおし古文講座のスケジュールが決まりました。

「【USTREAM】やりなおし古文講座『源氏物語』を自力で読む」

第二回のスケジュールが決定しました。

2011年1月21日(金)20:00〜

受験の追い込み時期ということもあって、第一回から間が開いてしまいますが、

どうぞどうぞお許しください。

第二回は「主語の決め方と敬語」というテーマで行いたいと思います。

ご意見・ご提案があれば、是非お知らせください。

ありがとうございます。

2010年12月12日 (日)

【USTREAM】やりなおし古文講座はアーカイブでいつでも御覧になれます!

【USTREAM】やりなおし古文講座『源氏物語』を自力で読む

第一回の講座がアーカイブされています。

下のリンク先から御覧になれます。

連続講座のガイダンス的な性格をもつものですので

いつでも御覧になってください。

どうぞよろしくお願いします。

http://www.ustream.tv/channel/kobungenji

2010年12月10日 (金)

pdfテキストはこちらから

【USTREAM】「やり直し古文講座『源氏物語』を自力で読む」

本日12/10(金)20:30START!  

pdfテキストをダウンロードしてプリントアウトしてください!

http://www.harusales.jp/kobungenji/kobun_vol1.pdf

【USTREAM】「やり直し古文講座『源氏物語』を自力で読む」

【USTREAM】「やり直し古文講座『源氏物語』を自力で読む」

予備校講師中西光雄 @ による古文講座をUST配信。

本日12/10(金)20:30START!

受験のための授業ではありません。

古文に興味を持つ、どなたでもご参加ください。

まずはテキストをダウンロードしてください!

2006年5月29日 (月)

再び道元

再び道元である。昨日は、ドストエフスキー研究会で、僕は『正法眼蔵』「現成公安」を先月に引き続きレポートした。

身心(しんじん)に法いまだ参飽(さんぽう)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方(よも)をみるに、たゞまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方(けた)なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿(ぐでん)のごとし、瓔珞(えいらく)のごとし。たゞわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず。直下も一滴しかあるべしとしるべし。

【現代語訳】

(修行が十分でなく)身体と心にまださとりが身についていないときには、さとりとはこういうものだと納得しているものだ。(修行が十分で)さとりがまだ身体と心に身についているときには、まだ(さとりは)足りないと思うものだ。たとえば、船にのって山の見えない海の中に出て四方を見渡すと、ただ丸に見えるのであって、まったく異なる様子が見えることはない。そうではあるけれど、この海というものは丸ではない、(また)四角でもない。(だから)残った海が海であることの功徳(=本性)をつくして(その海のかたちを)考えざるをえない。(水は)魚にとっては宮殿のようなものであり、天人とっては宝で飾られた池である。ただ(人には)自分の眼のおよぶ範囲が、しばらく丸に見えるばかりである。それと同じで、万法もまたそのようなものである。俗の世界においても(出家後の)仏法の世界においても、多くの功徳を帯びているというけれども、(人は)修行をつんで(身につけた)眼力の及ぶところのものだけを理解するものだ。すべての世界の本来の姿を知ろうとするときには、(自分の認識によって)四角は四角、まるはまると見るほかに、他に海の功徳・山の功徳(それぞれの功徳)があって極まるところはなく、(自分の)四方に世界があることを理解すべきだ。自分以外のことばかりがこうなのではない。自分の足もとも(水の)一滴もそういうことなのだろうと知るべきだ。

僕は、この一連の文から、道元の永遠感・自然観について考えて見た。道元にとって、「法(=仏法)」は、完全なるもの、つまり「絶対者」の謂いだと考えてよい。「身心(自己)」に「法」が満ちるとは、先月取り上げた比喩でいえば、月が一滴の水に宿るように、法が身心に宿る状態だといえる。修行が完全な状態である。これに対して、「身心に法にまだ参飽せざる」というのはどういうことかといえば、法が不完全に身心に宿るということである。この不完全な状態を、この一文で道元はあえて問題にしようとする。

道元は、身心に法が満ちた完全な悟りを得た時にだけ、(修行や悟りが)「足らず」と認識できるという。法が身心に参飽するということ(=一滴の露に月が宿るということ)において、修行がはじまるというのはある種の論理矛盾だろう。が、その矛盾を超越することにこそ、道元の「悟り」の本質があるのかもしれない。これは、修行と悟りをめぐるダイナミズムの表明であり、道元のスタティックな論理に動性が生まれる瞬間と言ってよい。「悟る」ことによってしか次の「悟り」は見えない。もしそうなら、「悟り」というものに、段階・階級を設けなければ合理的に説明できないはずだが、その「悟り」の段階をひとつひとつ登ることによってのみ可能となる、永遠運動としての「悟り」という構造が見えてくるのである。

道元の説く「功徳・徳」とは、もの・現象それ自体が持つ本来性(nature)である。本来性という観点から見れば、ひとつひとつのもの・現象に永遠性が宿っているのである。しかし、もの・現象を、ひとつの局面から見ても本来性は明らかにならないだろう。人は自分の認識ができる限りのことしか認識できない。だからこそ、自分が認識できない世界があることを知るべきなのである。それは自分自身に対する認識(自己認識)においても同じことが言える。つまり、私自身の中に、私自身の気づいていない本来性が存在する。そのことにも気づく必要があるということである。道元の認識は常に比喩的であると同時に具体的である。自分の命でさえ「直下の一滴」と認識する。そして、その一滴にこそ、月や天が宿るというのだ。それが「悟り」ということだろう。

しかし、人の「悟り」が、このように永遠に相対化されてゆくならば、人はニヒリズムに陥る他はない。「修行」が自己目的化し、「修行のための修行」がドグマ化され慣習化される。それは、宗教の世俗化という側面を持つ。だが、絶対者の存在を彼方に見ながら、「悟り」に常に相対的な説明を加えてゆくのが道元の立場なのである。「法」「仏」という不可知の絶対者を認識するために、無限の認識の段階・階級を越えてゆく。それが、道元の言う「悟り」の意味ではないか。そして、人はそのように生きるしかないのではないか。僕は、道元からのメッセージをそのように理解してみた。

A先生が、数ヶ月前次のような話をしてくれたことを僕は思い出していた。それは、A先生が、故郷の海岸に出て海を見ていたときのこと、ひとつの直感というか認識が与えられたという話だ。海岸に打ち寄せる波、砂にはかたちがあり、匂いがあり、音がある。それは実態にほかならないが、その波や海水が連続し、海となり、水平線と出会うところで永遠につながっている…その永遠性の実感についてのことである。僕など鈍いから、海を見ていて、そのような認識・悟りに到達することはまずない。だが、A先生の語る言葉を聞いても、僕たちは「永遠性」の側面に触れることはできる。そして、その「永遠性」を実感した経験が、僕たちの顔を絶対者に向かせ、永遠運動としての「悟り」・修行に立ち向かわせるのかもしれない。

A先生は、僕のレポートを聴いたあと、眼の奥でほほえみながら、こうおっしゃった。自分の中に、ひとつの認識が生まれても、少し時間をおくと、それが間違いであったり、ほんの小さな問題だったとわかり、さらに大きな課題がすぐに見えてくる。しかし、僕自身を含めてそのように人間は生きてゆくしかないと思いますね。

道元の宇宙は、ますます深く広い。

                             

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