父と子
タイガー・ウッズが、ツアーを欠場している。父のアール・ウッズ氏が、5月3日にがんで亡くなり、その悲しみと闘っているからだ。タイガーが、幼い頃から父の手ほどきを受けてゴルフをはじめ、現在のスーパースターの地位を築いたことはよく知られている。スポーツ界では今や常識の親子鷹の典型である。日本のスポーツ界では、イチローをはじめ、宮里藍、横峰さくら、亀田兄弟など、活躍中のトップアスリートの多くが、父の影響を強く受けてスポーツをはじめ、最初のコーチは父親であった。また松井秀喜も、コーチではないものの父との精神的な関係がたいへん深いといわれる。マスコミがそう喧伝するからかもしれないが、今や父親の直接的な関与がなければ、アスリートは生まれないといった勢いだ。自らも父親である僕は、自分とふたりの息子たちとの関わりをふりかえり、内心忸怩たる思いになる。僕など、未だに自己実現のあり方について思い悩むことが多く、残り少なくなった自分の可能性に未練たらたらなのである。いわゆる「親ばか」には違いないが、息子の音楽のレッスンの送り迎えをするくらいで、アドバイスを与えるどころか彼らのモチベーションをあげることすらできないでいる。
ピーター・シェーファーに、今度はサリエリではなく、モーツアルトの父親の物語を書いてもらいたい。音楽の天才を息子として授かった音楽家の話…。兄弟なら、より豊かな才能を与えられた者に対して嫉妬もしようが、父と子ならどうなのか。どこかで血の連続を感じ、こどもの将来におのれの情熱のすべてをかけるようになるのだろうか。是非、そのあたりの精神の葛藤を描いてもらいたい。世界中の父親に、かけがえのない贈り物になるはずだ。
松尾芭蕉は、最初の文学行脚『野ざらし紀行』の冒頭に次の発句を置く。
野ざらしを心に風のしむ身哉
秋十年却つて江戸を指す故郷
二十九歳で、故郷の伊賀上野から江戸に出て十余年、芭蕉は江戸市中に居住し、俳諧師として試行錯誤の日々を送った。大火のために「芭蕉庵」が類焼し深川に居を移す。そして、母の死の報が兄から届いたのは、出立の前年のことであった。その時、芭蕉はすでに四十一歳になっていたのである。「野ざらし」とは髑髏のことだから、彼の精神に母の死が大きく影を落としていたのは確実であり、母への墓参も旅の目的のひとつではあった。だが、旅立ちにあたって、芭蕉はこう宣言する。私の故郷は、伊賀上野ではなく、かえって今宇住む大都会江戸なのだと…。都市生活の中で故郷を喪失し、そして臍の緒を通じてつながった母も死んでしまった。今や江戸が故郷になったとは一種のレトリックで、芭蕉はどこへも帰属せぬ永遠の「旅人」となったのであろう。「死」を意識することで、父母血縁という小さな共同体・人間関係から出て、より広いどこまでも透徹した「人間」観を獲得するという精神のドラマがここにはある。芭蕉の言語表現の凄みは、まさにここにあると僕は思う。
モーツアルトは父の死に衝撃を受け、その悲しみを「レクイエム」に表現した。哀切なすばらしい曲だが、彼はついに父の死を乗り越えることができなかった。タイガー・ウッズはどうだろう。父の死を対象化して、より高次のプレイを僕たちに見せてくれるだろうか。そして、それは彼にとってどんな境地なのだろうか。CNNによれば、先週彼はこどもたちのための教育プログラムを再開し、自らの練習はじめたという。まもなく始まる全米オープンでの彼の活躍を期待したい。
中世のキリスト教の思想家たちは、さまざまな言葉を残している。次の言葉は、歴史家の阿部謹也先生から教えていただいた言葉である。
ある賢者は学びのあり方と形式について尋ねられたとき、こう述べている。「謙虚な精神、探求の熱意、静かな生活、黙々とした吟味、貧しさ、異国の地、これらは往々にして、多くの人々に読解の折の不明を明らかにしてくれるものである」。全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。というのは、他方である人が言うように、「いかなる甘美さで生まれ故郷がなべての人を引きつけるのか、そして自らを忘れ去ることを許さないのかを私は知らない」。修練を積み重ねた精神が少しずつ、これら可視的なものや過ぎ去るものをまず取り換えることを学ぶこと、次いでそれらを捨て去ることができるようになることは徳性の大いなる始源である。祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。第一の人は世界に愛を固定したのであり、第二の人は世界に愛を分散させたのであり、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。
「ディダスカリコン」上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成9サン=ヴィクトル学派』平凡社
道元の思想にも通じるこの言葉は、僕たちにさまざまなことを思い起こさせてくれる。おそらく、親と子、個人と国、などをめぐる情感は地続きで、中世の隠棲者ならぬ世俗的生活を送る僕たちは、現実をきちんと見据えながらも、自分を客観的に見つめることが必要なのだ。親子も、家族も、僕にとってはかけがえのないものだが、だが世界はその論理と感情だけでは解けないだろうと思う。これからも考えてゆきたい。
タイガー・ウッズのオフィシャルサイト
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