井上ひさし『組曲虐殺』(天王洲銀河劇場)再演レポート
井上ひさしの遺作となった『組曲虐殺』の再演を、初演と同じ天王洲銀河劇場で見た。この三年の間に、作者の井上ひさしが亡くなり、その直後に東日本大震災の悲劇が起きて、日本の社会が大きく変質したことを誰もが実感する中での公演となったが、それだけに初演以上の切実さを持って、井上と俳優たちが練り上げたことばが、私たちの胸に突き刺さってくるものであった。とりわけここ数週間の、戦争への足音を耳元で聞かざるをえないような政治的言説に、嫌悪といらだちを覚えていた私に、豊かな演劇的経験と思索と行動へのヒント、そしてなによりも希望を与えてくれたことに対して、まず特別の謝意を示しておきたい。
プロレタリア作家小林多喜二(井上芳雄)の生と死を、井上お得意の音楽劇として作品化した『組曲虐殺』は、第一幕の登場人物の丹念な(ときにはしつこいほどの)描写からはじまる。多喜二を支える実姉の佐藤チマ(高畑淳子)、恋人の田口瀧子、のちに妻となるプロレタリア女優の伊藤ふじ子(神野三鈴)、そして、多喜二を追う特高警察の古橋鉄雄(山本龍二)と山本正(山崎一)。その誰もが十分に個性的で人間的魅力に溢れているが、多喜二を必死に守る女性たちばかりでなく、彼を追い詰める権力特高警察の者たちまでもが、社会の全体主義化、戦争への傾斜、そして根底にある経済的貧困の被害者として描かれる。時代の暗さが彼らに影を落とし、それぞれに苦渋に満ちた人生を選択させているのである。そして、主人公小林多喜二の姿は、これらの人々のことばと所作によって、少しずつ彫啄されてゆくという趣向のように思われた。
一転して第二幕は、多喜二の逮捕と虐殺という受難の物語が、すさまじい緊張感の中で語られてゆく。多喜二自身によって語られる、次のことばが印象的だ。
「…絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか…いや、いないことはない。」
さらに、彼は続ける。
「たがいの命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに値しません。」
「ぼくの思想に、人殺しの道具の出る幕はありません。」
井上ひさしが、小林多喜二に語らせたこれらのメッセージは、確かに作家小林多喜二の肉声であるが、また劇作家井上ひさしの肉声でもあって、私たちの心を強く打つ。小林と井上の作家・表現者としての人生がオーバーラップしてゆくのである。井上芳雄の演技は迫真のもので、まさに多喜二が乗り移ったかのようであったが、それはまわりを固める俳優陣にも言えることで、故井上ひさしへの追慕と感謝の思いを捧げるというよりも、自らの肉体と精神を駆使して、井上の構想した演劇世界を初演以上に豊かに現前させることに成功したという点において、井上作品の永遠性を証明したのであり、井上ひさしの魂をみごとに復活させたということに他ならない。そう、確かにこの舞台の上には、井上ひさしがいた。俳優たちも、そして全身全霊をかけてピアノを演奏する小曽根真も、そのことを確信していたであろう。
俳優たちのコミカルな演技が笑いを誘い、でも心の琴線がことばに共鳴して涙が流れ出てしまう。実際、第二幕の後半は、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえ、それはカーテンコールまで終わることはなかった。この公演は平日木曜日のマチネー。しかし、三階席まで満員のオーディエンス。カーテンコールはスタンディングオベーションとなったことは言うまでもない。終演後、私の少し前を歩いていた三人連れの女性たちは、山形ナンバーのクルマに乗り込み帰っていった。みんなこの公演を待っていたのである。
『組曲虐殺』は、東京公演が年末まで続いたあと、来年二月までの全国公演を控えている。この「落ちた」俳優たちとピアニストが繰り広げる演劇世界がどれほどの進化をするのか、私には想像もできない。しかし、この芝居を見逃すことは、人生の損失のひとつになるだろということはできる。初演のときより、私たちはずっと息苦しい社会の中に生きている。だからこそ、勇気と希望とをもってよりよく生きるために、井上ひさしの遺言のようなこの珠玉の作品を見ておきたいと思うのだ。
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