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2012年12月

2012年12月22日 (土)

文語のクリスマス・キャロル「あめにはさかえ」(『讃美歌』98)口語訳・注釈

今年のクリスマスイブ礼拝で、聖書の朗読を担当することになりました。
生まれてはじめての経験なので緊張しています。
どうぞお近くの方はお出かけください。

   
クリスマスイブ礼拝

 20121224日(月)19:3020:45
 日本キリスト教団代田教会
 
さて、この礼拝では、何曲かの文語の讃美歌(クリスマスキャロル)が歌われます。
ちょうどよい機会ですので、歌詞の深い理解のために、文語の歌詞に現代語訳と注をつけてみようと思います。
まずは、私の大好きな「あめには、さかえ」から。
メンデルスゾーン作曲のすばらしい楽曲です。この歌は、195412月に発行された日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌』(日本基督教団讃美歌委員会)に掲載されています。現行の『讃美歌21』(199910月)では、「聞け、天使の歌」とタイトルを変えて新しい歌詞がつけられていますが、この歌詞も純粋な口語ではありません。やはりメンデルスゾーンの曲には「あめには さかえ」という歌い出し初行のタイトルがふさわしい気がします。

あるいは今後も、クリスマスには文語で歌い継がれるかもしれません。
歌い継ぐなら、意味を学んでからにしたほうがよいというのが、私の立場です。
私自身、大好きな歌ながら、なかなか歌詞が覚えられませんでした。
意味と構造を理解していなかったためだと思われます。
讃美歌に親しんでいない人が「あめには さかえ」と聞くと、例えば宮沢賢治の「あめにも まけず」などを想起し、「雨には 栄え」と誤解してしまうのではないかとも思います。
世代を超えて歌うことのできる文語の歌は、学校でも教会でも残して欲しいと念願するものです。

少しはやいですが、みなさま、すばらしいクリスマスを!

讃美歌98 あめにはさかえ


あめにはさかえ み神にあれや、
つちにはやすき 人にあれやと、
みつかいたちの たたうる歌を、
ききてもろびと 共によろこび、
今ぞうまれし 君をたたえよ。

【口語訳】
天には栄光が 神にあるように、
地には平和が 人にあるようにと、
み使いたちの 讃える歌を
聞いて多くの人が ともに喜びあい、
今まさに生まれた 君を讃えなさい。

【注釈】
*冒頭の「あめにはさかえ み神にあれや、つちにはやすき 人にあれや」は、イエス・キリストの誕生を讃える言葉「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ。」(文語訳聖書 ルカ伝2:13-14)の和語的表現。この部分は、文誤訳聖書も歌詞も現代語の通常の語順ではない。「いと高き所には、神に栄光あれ」=「あめには、み神にさかえあれや」、「地には、主の悦び給ふ人に平和あれ」=「つちには、人にやすきあれや」となるべきところ。この語順が、わかりにくさを助長している可能性がある。
*「あめにはつちには」は、和語「天地(あめつち)」(『古事記』冒頭「天地初発時」)を分解し、区別の係助詞「は」で対称とした表現。「あめ」は「いと高き所=天」を、「つち」は「地」を表す。
*「さかえ」は名詞。「栄光」の和語的表現。動詞「さかゆ」の連用形と誤認する可能性がある。
*「み神」。「神」には尊敬の接頭語「み」が付く。
*「や」は詠嘆の終助詞。
*「やすき」は形容詞「やすし(安し)」の連体形の準体用法。名詞として扱う。「安し」は「安心だ・平穏だ」の意味だが、ここでは「平和」の和語的表現として用いられているる。この「やすき」を「平和」と理解するためには、聖書の該当箇所を想起する必要があろう。
*「もろびと」は「多くの人・衆人」の意味。
*「今ぞ生まれし 君をたたえよ。」は、1番から3番まで共通した最終行となる。
*「ぞ」は強調の係助詞。文末の一語を連体形で結ぶ。「今ぞうまれし」の「し」は、回想の助動詞「き」の連体形で、係り結びが完結しているように見えるが、「今ぞ生まれし」は「君」を修飾しているので、結びの消去(消滅・流れ)と判断する。先行する讃美歌の歌詞は「今生(あ)れましし」であったが、「生(あ)る」という動詞が用いられなくなったために、現行の歌詞に変更された。先ほど述べたように、「ぞ」では係り結びの完結の可能性を否定できないので、本来なら文末に影響を与えない強意の副助詞「し」などを補うべきであったかもしれない。「今し生まれし」と「し」音の繰り返しをきらって、現行のようになったということも考えられよう。



さだめたまいし 救いの時に、
かみのみくらを はなれて降(くだ)り、
いやしき賎の 処女にやどり、
世びとのなかに 住むべき為に、
いまぞ生れし 君をたたえよ。


【口語訳】
定めなさった 救済の時に、
神の御蔵を 離れて地上に降り、
身分の低い(聖霊によって) 処女に宿り
世の人々の中に 住もうとするために、
今まさに生まれた 君を讃えなさい。


【注釈】
*「さだめたまいし」の主語は「父なる神」。「たまふ」は尊敬の補助動詞。
*「かみのみくら」。「御座(みくら)」は、天皇の御座所のことだが、転じてキリスト教の「神の座」のこと。神のいらっしゃる場所。
*「いやしき賤の処女」。「処女マリア」のこと。処女懐胎を示す。「いやし」「賤し」はほぼ同義で、身分が低いということ。「賤の」は形容詞語幹の用法である。「いやしき賤の」は四半世紀ほど前から「御霊(みたま)によりて」と読み替えて歌われるようになった。ことさら身分の低さを強調する差別的表現を忌避するためだと思われる。
*「住むべき為に」。「べし」は当然・推量・意志などの意味を表す助動詞。偈現代語の語感では「するべきだ」ととられがちだが、ここは「意志」とするのが適当。神の意志として、イエスは天から地に派遣された。


あさ日のごとく かがやき昇り、
みひかりをもて 暗きを照らし、
つちよりいでし 人を活かしめ、
つきぬいのちを 与うるために、
いまぞ生れし 君をたたえよ。


【口語訳】
まるで朝日のように 輝きながら昇り、
み光を用いて 暗い場所を照らし、
地から作られた 人をよく生きさせ、
尽きることのない永遠の命を 与えるために、
今まさに生まれた 君を讃えなさい。


【注釈】
*一行二行および三行四行は、それぞれ一連の表現。すべて最終行の「君」を修飾する。
*「みひかり」。「み」は尊敬の接頭語。神の御光。
*「暗き」。形容詞「暗し」連体形の準体用法。「暗い場所」のこと。
*「つちよりいでし人」。主なる神は土から人を創造された。(「創世記」)
*「活かしめ」。「しむ」は使役の助動詞。「す・さす」に比べてやや硬質の表現。
*「つきぬいのち」。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。「尽きることのない永遠の命」のこと。
*「与ふるために」。「与ふる」はハ行下二段活用動詞「与ふ」の連体形。「与えるために」。

日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌』日本基督教団讃美歌委員会、195412

2012年12月13日 (木)

井上ひさし『組曲虐殺』(天王洲銀河劇場)再演レポート

 井上ひさしの遺作となった『組曲虐殺』の再演を、初演と同じ天王洲銀河劇場で見た。この三年の間に、作者の井上ひさしが亡くなり、その直後に東日本大震災の悲劇が起きて、日本の社会が大きく変質したことを誰もが実感する中での公演となったが、それだけに初演以上の切実さを持って、井上と俳優たちが練り上げたことばが、私たちの胸に突き刺さってくるものであった。とりわけここ数週間の、戦争への足音を耳元で聞かざるをえないような政治的言説に、嫌悪といらだちを覚えていた私に、豊かな演劇的経験と思索と行動へのヒント、そしてなによりも希望を与えてくれたことに対して、まず特別の謝意を示しておきたい。

 プロレタリア作家小林多喜二(井上芳雄)の生と死を、井上お得意の音楽劇として作品化した『組曲虐殺』は、第一幕の登場人物の丹念な(ときにはしつこいほどの)描写からはじまる。多喜二を支える実姉の佐藤チマ(高畑淳子)、恋人の田口瀧子、のちに妻となるプロレタリア女優の伊藤ふじ子(神野三鈴)、そして、多喜二を追う特高警察の古橋鉄雄(山本龍二)と山本正(山崎一)。その誰もが十分に個性的で人間的魅力に溢れているが、多喜二を必死に守る女性たちばかりでなく、彼を追い詰める権力特高警察の者たちまでもが、社会の全体主義化、戦争への傾斜、そして根底にある経済的貧困の被害者として描かれる。時代の暗さが彼らに影を落とし、それぞれに苦渋に満ちた人生を選択させているのである。そして、主人公小林多喜二の姿は、これらの人々のことばと所作によって、少しずつ彫啄されてゆくという趣向のように思われた。

 一転して第二幕は、多喜二の逮捕と虐殺という受難の物語が、すさまじい緊張感の中で語られてゆく。多喜二自身によって語られる、次のことばが印象的だ。

「…絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか…いや、いないことはない。」

さらに、彼は続ける。

「たがいの命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに値しません。」

「ぼくの思想に、人殺しの道具の出る幕はありません。」

 井上ひさしが、小林多喜二に語らせたこれらのメッセージは、確かに作家小林多喜二の肉声であるが、また劇作家井上ひさしの肉声でもあって、私たちの心を強く打つ。小林と井上の作家・表現者としての人生がオーバーラップしてゆくのである。井上芳雄の演技は迫真のもので、まさに多喜二が乗り移ったかのようであったが、それはまわりを固める俳優陣にも言えることで、故井上ひさしへの追慕と感謝の思いを捧げるというよりも、自らの肉体と精神を駆使して、井上の構想した演劇世界を初演以上に豊かに現前させることに成功したという点において、井上作品の永遠性を証明したのであり、井上ひさしの魂をみごとに復活させたということに他ならない。そう、確かにこの舞台の上には、井上ひさしがいた。俳優たちも、そして全身全霊をかけてピアノを演奏する小曽根真も、そのことを確信していたであろう。

 俳優たちのコミカルな演技が笑いを誘い、でも心の琴線がことばに共鳴して涙が流れ出てしまう。実際、第二幕の後半は、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえ、それはカーテンコールまで終わることはなかった。この公演は平日木曜日のマチネー。しかし、三階席まで満員のオーディエンス。カーテンコールはスタンディングオベーションとなったことは言うまでもない。終演後、私の少し前を歩いていた三人連れの女性たちは、山形ナンバーのクルマに乗り込み帰っていった。みんなこの公演を待っていたのである。

 『組曲虐殺』は、東京公演が年末まで続いたあと、来年二月までの全国公演を控えている。この「落ちた」俳優たちとピアニストが繰り広げる演劇世界がどれほどの進化をするのか、私には想像もできない。しかし、この芝居を見逃すことは、人生の損失のひとつになるだろということはできる。初演のときより、私たちはずっと息苦しい社会の中に生きている。だからこそ、勇気と希望とをもってよりよく生きるために、井上ひさしの遺言のようなこの珠玉の作品を見ておきたいと思うのだ。

 

 

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