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2012年11月

2012年11月28日 (水)

戒能信生「賀川豊彦と関東大震災」日本のボランティア活動の原点について

河合塾エンリッチ講座2012
「賀川豊彦と関東大震災」日本のボランティア活動の原点について
 戒能信生(日本基督教団東駒形教会主任牧師)
 2012年11月27日(火)17:30〜19:00 河合塾秋葉原館4A教室

 入試が近づき余裕がなくなってしまったのか参加者が非常に少なかったのだが、大学のゼミナールのような雰囲気で戒能先生の講義を親しく伺えたことは、私たち参加者にとっては夢のような体験だった。

 土曜日の関東大震災の報を受けて、賀川豊彦が神戸を出発したのは、月曜日の朝のこと。日曜日に蔵書(多くは洋書)を売り払って金をつくり、横浜から被災地に入った。その行動力にまず驚く。

 戒能先生は、賀川その人の言動よりも、賀川を支えたボランティアの人々にフォーカスしてゆく。まず、賀川が神戸から連れて来た三人の若者(木立義道、深田種嗣、薄葉信吾)の写真を指し示しながら、それぞれの性格となしえた仕事を丁寧に解き明かしてゆかれた。事務的能力に優れた木立は、慰問のふとんを被災者に配って寝場所を与え、与えたふとんを担保にして金を貸し(質屋)、廃品回収業(バタ屋)を始めることを奨励する。深田は宗教的な仕事を担当してボランティア活動を精神的に支えて、後に著名な牧師となった。(この人が、あのすばらしい説教をなさる深田未来生先生の父上とは!)京都から復興景気で出稼ぎにやってきて、被災地の惨状を見てボランティアとして働くことになって大工田中源太郎。家を出て奉仕団に身を投じ、ボランティアたちの食事全般の面倒を見た南京米のママさん。何の特殊能力を持たない青山学院の女学生菊池千歳は、被災者の話をただただ聞いて(傾聴)勇気づけた。(この人が佐竹昭先生の母上!)泥棒の前科があるにもかかわらず子ども会をつくり幼児教育に没頭した東間清造もいた。戒能先生は、それぞれの人物像を愛情を持って丁寧に描写しながら、これらの人々は、関東大震災のボランティア活動をきっかけとして、生涯の道が開かれたのだと雄弁に語られた。私も、このすばらしいメッセージを多くの若者に届けたいと思う。

 最後に賀川豊彦の天譴論批判に話が及んだ。大震災を人間世界の腐敗と堕落に対する天からの報復とする「天譴論」は、ひとつの流行思想で、それゆえに震災後の思想界、文学界を席巻した。それを正面から批判したのはひとり賀川豊彦のみであったと、戒能先生は指摘されたのである。最後に、賀川豊彦のことばを引いておこう。

「東京の罹災者に向つて『御前は罰当たりだよ』と手紙を出す暇があつたら先づヨブの患部に包帯をしてやる事だ。善悪の裁判は神の職分である」(『苦難に対する態度』)

 私は同僚の講師が企画した講演会に駆けつけたに過ぎないが、キリスト者として新たにされる経験であったことは間違いない。講演をしていただいた戒能信生先生に心から感謝したい。たとえ参加する生徒が少なくても、このようなすぐれた知性との出会いの場を準備することが、予備校河合塾のアイデンティティだと信じている。なにがあっても継続してゆきたいと改めて思ったことだった。

20121127enrich

2012年11月25日 (日)

ジュニア科礼拝 説教「子供を祝福する」

2012年11月25日、所属する日本キリスト教団代田教会のジュニア科礼拝で説教を担当しました。

聖書


マタイによる福音書 1913節〜15

19:13そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちをれて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 19:14しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 19:15そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 

説教

日本では、七五三という伝統的な幼児祝福の儀式があり、子どもの成長を祈るため、この季節に神社やお寺に御参りをする人々もいます。これはもともと平安貴族が行っていた「袴着・着袴」という、子どもがはじめて袴をつける儀式を、江戸時代に武家が洗練したものと言われ、関東地方特有の風俗でした。今日では成人式はすべての人々に対して行われますが、平安時代に成人できるのは貴族だけであり、したがって貴族の家来・従者となる身分の人々は成人しませんから、一生子ども時代の、例えば女子は、髪を長く伸ばすことなく肩までの短い「尼そぎ」姿で生活します。このような人々を「童(わらわ)」と呼び、子どもという名前がついていますが、おじいさんやおばあさんもいたのです。成人式のことを、入会儀礼・イニシエーションと呼びますが、「袴着・着袴」は、成人貴族となるための第一歩なのでした。古代ギリシアにおいても、市民となれるのは貴族だけですから、貴族社会というのは、洋の東西を問わず、人を区別し差別することが前提にあるのです。

 

主イエスは、子どもたちに手を置いて祝福されました。当時のユダヤ社会では、両親が子どもに手を置いて祝福の祈りをする習慣があったそうです。時には、ユダヤ教のラビや高名な人に手を置いて祝福してもらうこともありました。主イエスのもとに集まってきた子どもたちの親は、自分たちの子どもに主イエスからの豊かな祝福をいただきたかったのでしょう。当時は子どもが成人するまで成長することは、大変なことでした。乳幼児のときに病気にかかると、適切な医療がないので、たやすく命を奪われたのです。ですから、神へとりなしの祈りは、親たちにとって極めて切実なものであったのです。ルカによる福音書によると、親たちは「乳飲み子までも」連れてきたのです。

 

ところが、弟子たちはそれを遮りました。大切な伝道の旅の途上にある主イエスの貴重な時間を、そのような子どもたちの祝福のために、用いるべきではないと考えるのは当然のことだったかもしれません。主イエスはすでにご自身の受難を予告され、一刻一刻がこのうえなく貴重なものであったのです。

 

しかし、主イエスは弟子たちを制止し、親たちの申し出をお受けになりました。イエスはこう言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子どもたちに手を置いて祝福されたのです。

 

主イエスの言われる「天の国」「神の国」に入るための資格はありません。貴族でないと入れないところではない。ただ、親に連れてこられただけの、何もできない子どもたちこそが、受け入れられるのだと、主イエスはおっしゃいます。私たちの社会は、貴族社会ではありませんが、例えば、高等学校や大学・専門学校に入るときには試験があって、合格しなければ入れません。会社だってそうです。スポーツや芸術・芸能などの世界で活躍する人々は、より厳しい練習と選抜を経ていることも事実です。しかし、主イエスの言われる「神の国」には、生まれや家柄のよい人でなく、立派ですばらしい人ではなくても、それこそ「いと小さき者」が入れるとおっしゃる。ここに集まったあなたたちは、もう「子ども」とはいえないけれど、また、なにがしかの努力をしてなにかの資格を持っている人も多いでしょうけれど、主イエスは、むしろ子どもになれと命令なさる。その深い愛に基づいた自由さと希望の原理に、私たちは心を強く動かされるのです。

 

主イエスは、何も持たない、何もできない私を受け入れてくださり祝福してくださいました。そして、私たちの罪を負って、十字架にかかられたのです。私たちが、子どもを守るのではない。主イエスのなさったことは、私たちすべてを子どもとして、神の国に招いてくださったということなのです。

 

ひるがえって、今の日本ではめぐって何が起きているのでしょうか。インターネット上のソーシャルネットワークの世界で最近しばしば話題になるのは、幼い子どもやお母さんたちへの非寛容な発言です。最近も、新幹線や飛行機の中で泣きじゃくる幼い子どもに対して、泣き止まないのは親の責任だと言った漫画家の発言が話題になりました。また、満員電車にベビーカーを持ち込むことに対して、いかにも迷惑だから、そうした時間帯は電車での外出を控えるべきだという発言があり、その意見を支持する人と反対する人とで激論となりました。この世田谷区でも、幼稚園や保育園の周辺に住む人々の一部が、騒音の被害をことさらに言い立てる状況があると報道されています。私の子どもが幼児だったとき、もうそれは十数年前のことですが、新幹線で家族旅行をしました。彼が身じろぎをするごとに、小さな声をたてるごとに、執拗に怒りの視線を向け、人差し指を立ててアピールしてくるビジネスマンに対して、恐怖と悲しみの気持ちを抱いたことがありました。子どもは元気に外で遊ぶもの、突然歌い出したり泣いたりするもの、笑いながら泣きながら感情を豊かに育ててゆくもの、という共通感覚がどんどん薄れていっています。少子化した現在では、むしろ、子どもは社会の中でじゃまな存在で、静寂な大人の時間と空間をと乱す「異質なもの」としか感じられない人が多くいるのです。とても悲しいことです。

 

自分が子どもだったときのことを思い返すことさえできない、大人が増えてしまったのでしょうか。やがて年老いてゆき、自分がまた「子ども」のような存在になること、経済活動をする社会の中で「異質なもの」となることを想像できない、大人が増えてしまったのでしょうか。また、私たちも、ふとした日常の中で、子どもたちへの非寛容の思いが兆していないか、検証してみることが必要でしょう。

 

「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」

 

この主イエスの言葉に、私たちは心を開き、耳を傾けなければなりません。

 

お祈りをします。

 

 

祈り


ご在天の主なる神さま

寒さが日々増してゆき、秋から冬への季節の移り変わりを知るこの一週間でした。

この主日に、健康を与えられまして、この礼拝に集い得たことを、心から感謝いたします。

あなたの子どもを祝福する呼びかけから、私たちはあなたのおおきな愛と希望をいただきました。

私たちがあなたの「子どものようになれ」という命令に従い、あなたを受け入れて、地の塩としての活動ができますように。

私たちの行いをとうして、あなたのみわざが、この地に述べ伝えられますように。

まもなくアドベントを迎えます。

あなたの深い愛に触れ、あなたを日々思い起こして、一日一日を過ごせますように。

ここに集い得なかった友人をかえりみてください。

この拙き祈り、私たちの主イエス・キリストを通して、御前にお捧げいたします。

アーメン

 

Jyuniakareihai

 

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