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2012年10月

2012年10月23日 (火)

エンリッチ講座 東浩紀さん「人間と動物とのあいだで引き裂かれる『人間』」のご報告

中西の総括的報告(フェイスブック)


昨日の東浩紀(@hazuma)さんの講義(河合塾エンリッチ講座)はすばらしいものでした。

聴衆の大半は河合塾の大学受験科生(浪人生)でしたが、グリーン生(現役生)もちらほら。職員・講師の他、東大の院生、社会人の方などの多彩な聴衆に、東さんは真摯に対峙し、自らの思考を雄弁に語ってくださいました。

まずは受験エリートであった自身の来歴(河合塾との関わりを含めて)と東大入学前のオリエンテーション合宿で感じた大きな失望(受験ってゲームでしかないんだ!)とそれによってもたらされた転機。なぜ文Ⅰに入ったのに、法学部にすすまず教養学部にすすみ思想・哲学の研究に向かったか。などなど、大学受験を控えた生徒に向けて、丁寧な導入をしてくださいました。

東さんの研究の出発点であるデリダの紹介に入ってからは、明晰な哲学的分析が展開され、ラカンを対置することでデリダ理解が深まることを前提に、西洋哲学では人間と物(魂の有無によって区別される)だけを対象とし、中間的な存在である「動物」が扱われてこなかったことを指摘。人間はいつも精神の明晰さを保っているわけではなく、ふだんはぼんやりしており、それはまさに「動物」に近い存在であるが、西洋哲学ではそれを意図的に扱ってこなかったことを明らかにされました。東さん自身は、今後社会思想が「動物」を扱わなければ、グローバル化した消費社会の分析と理論化はできず、自身がそれをやってゆきたいということを明言されたわけです。「動物」は不完全な人間という意味で「こども」に通じており、さらに社会的弱者の問題にも展開するはずだという目論見も示されたわけです。ハイデガー・ヘーゲル・コジェイヴ・ラカンなどを俎上にあげての講義でしたが、東さんの丁寧な説明で、聴衆も思考に誘われていったのでした。

(私のとった講義ノートはTwitter@mitsuo1960)で発信しています。不十分きわまりないものですがご参照ください。)

講義後の質問は、約1時間続きました。受験勉強に身が入らないという具体的な悩み相談、東さんは生まれ変わったらもう一度東大に行きますかという問いかけ、東さんの今後の研究の方向性、村上春樹、「おおかみこどもの雨と雪」と日本のアニメーション、「動物化」論の教育学への展開について、などなどたくさんの質問が飛び交いました。そろそろ最後に…と私が行った瞬間、5人が挙手し、しかし東さんはそれにひとつひとつ丁寧に応えてくださいました。思想家が真剣に思考し言葉を紡ぎ出す現場を目の当たりにすることは、聴衆である生徒たちにとってどれほどの僥倖であったかと思います。さらに東さんは、この質問の中で、今まで公にしてこなかった、社会思想の本質を「べき乗分布」と「正規分布」の二極線の相克と調和で理解し、暗い現在情勢と将来展望の中で、一筋の希望を示すという話をしてくださいました。これは今後本にまとめられるそうです。(こちらは東さんがご自身のTwitter(

@hazuma)でまとめ、公にしていらっしゃいます。私もリツイートしましたからご参照ください。)東さんは、河合塾に到着時に「河合塾なう。聴衆は浪人生がおもだということ。新しい! なんかわくわくするな。この講演はw 」とツイート。さらに帰宅後、「今日の河合塾講義は新鮮でした。質問で「現国伸び悩んでいるけどどうすればいいですか」とかあったり。(ぼくの答えは「消去法で選択肢を選べ」w) 某誌より「バブルを知らない世代」としての対談依頼が来た。先日プレイボーイでは「U-40」の取材も受けた。なんか誤解がありそうなのであらためて強調 しておくけど、ぼくは1971年生まれの41歳、バブル期は高校生〜大学生で、みなさんが思うほど若くないですぜ!! いまやもう圧倒的ロートル感ですよ。 小学生女子を見ても、萌え〜とかではなく、娘の同級生としてしか見られなくなってしまった終わった年齢ですよ。 若くなりたい……もういちど……若くなって……アキバ行くんだ…… 1998年から2001年にかけて、ポスドクで学振もらって無職ながら快調に生活していたとき(学振は意外と給料いいのです)、ぼくは延々とミステリ読ん でゲームやってた。その成果は動ポモに活かされているので無駄ではなかったのだけど、あんな夏休みみたいな時間をもういちど過ごしたい。 昼夜逆転するの関係なく、1週間ぶっとおしでゲームとかやりたいなー。あの頃は平気で、アドベンチャーゲームの一画面突破するのに3時間とかかけてた (行き詰まっても攻略サイト見なかった)。夫婦でやってたし、めっちゃ楽しかった。 でも、このあいだ妻と話したのだけど、かりにいま暇ができてもたぶんあの頃には戻れない。時間が貴重であることを知ってしまったから。一晩時間があるな ら、いまは妻もぼくも別のことに時間を使う。若いというのは、時間の貴重さを知らないということ。それが眩しくてしかたないよ、いまのぼくは。 とか後ろ向きのことを書いているのは、今日、20年ぶりに河合塾横浜校を訪れたからだと思います。なにもかも懐かしい。」とツイートしてくださっています。東さんにこうした思いを記していただけたことを、司会としてよろこばしくまた誇りに思っています。是非来年以降も河合塾での講義をお願いしたいと念願しています。実は東さんと私が出会ったのは、出口汪先生のパーティでのことでした。このことは、東さんの紹介のときに生徒たちにも言ったのですが、ソーシャルネットワークのいわば明るさの部分で、出口先生、東さんとの出会いがあり、今回の講義が実現したことは明記しておきたいと思います。もちろんSNSには負の部分も多いのだけれど、すでにこれは私たちの社会にとっての与件で、無視することはできない。現にこの文章もSNS上で公開されるのです。だからこそこの時代の社会思想を形成する必要があるのです。東さんのお仕事は常に現在の分析から未来を指向しており、今回その一端に触れられたことは、私にとっても、多くの聴衆にとってもきわめて貴重な経験でした。講義に来て下さった東浩紀さんに改めて感謝申しあげます。そして出会いのきっかけとなった出口汪先生にも。ありがとうございました。

 

 

 

Twitterのまとめ 東さん&中西


(おおかみこども絶賛中) @hazuma (東さんのツイート)

河合塾なう。聴衆は浪人生がおもだということ。新しい!

なんかわくわくするな。この講演はw

中西 光雄 @mitsuo1960 (中西による講義中の連続ツイート)

東浩紀さんの講演がはじまりました。まずは、東さんの受験生活の話から。

東大入学時の違和感。 東大入学前のオリエンテション合宿が折り返し点。受はゲムだった。自分のやりたいことを考えたことはなかった。

エリトからのドロップアウト、哲学思想に向かう。ただそれはしいことを簡単明するという受験産業的な欲望に打ちされていた。しかしそれは大学では通用しなかった。

デリダを理解するには対抗者ラカンとの比較が有効だと気づく。ヨーロッパ思想では魂の有無によって世界を分けてきた。人間と物。では、動物はどうなるのか?

ハイデガーのDasein(現存在)。人間は世界を形成できる。魂がある。石は無世界的。魂がはない。では動物はどうなるのか。動物は世界貧困的。ハイデガーの区別のは論理の区別で神学的にうつくしい。だが動物はこの議論に入らない。

ハイデガは西洋哲学の象物排除、子供排除、障がい者排除、械的知性の排除につながる。めて式的だが。大学では判がかった。

 

コジェイヴ「ヘーゲル精神現象学読解」。ヘーゲルが哲学が難しくなった原因。神秘主義が入っているからだ。ヘーゲルが「世界史」を作った。ヘーゲルは世界 史の終わりをかんがえた。ヘーゲルはナポレオン、コジェイヴは第二次世界大戦で終わり。歴史の終わりは人間の終わりでもある。

 

コジェイヴは二つの道を示す。アメリカ化と日本化。日本化はスノビズム、形式化。アメリカ化は物化。ニズが即刻たされる。なる欲求属。消社会の暴走。ヨロッパの哲学が物をえない。社会思想、政治思想は消者、消社会をえない。

ヨーロッパ思想は人間に強い規定しかしていない。主体的な意識のある人間像しか扱わない。しかし、頭ぼんやりな人間を扱わないと、世の中はよくならない。頭ぼんやりとした人間は動物化。

こどもの問題はラカンは無視。教育のことをどう考えるかを問題化したい。自己決定をどうかんがえるか。消費社会論では人間になりきっていない人間=子どもをどう扱うのか。考えてゆきたい。

 

 

(おおかみこども絶賛中) @hazuma (東さんの連続ツイート)

酒飲んで電車で帰るの久しぶりー

今日の河合塾講義は新鮮でした。質問で「現国伸び悩んでいるけどどうすればいいですか」とかあったり。(ぼくの答えは「消去法で選択肢を選べ」w)

そして明日は、某日吉で朝から講義かー

某誌より「バブルを知らない世代」としての対談依頼が来た。先日プレイボーイでは「U-40」の取材も受けた。なんか誤解がありそうなのであらためて強調 しておくけど、ぼくは1971年生まれの41歳、バブル期は高校生〜大学生で、みなさんが思うほど若くないですぜ!!

いまやもう圧倒的ロートル感ですよ。

小学生女子を見ても、萌え〜とかではなく、娘の同級生としてしか見られなくなってしまった終わった年齢ですよ。

若くなりたい……もういちど……若くなって……アキバ行くんだ……

 

1998年から2001年にかけて、ポスドクで学振もらって無職ながら快調に生活していたとき(学振は意外と給料いいのです)、ぼくは延々とミステリ読ん でゲームやってた。その成果は動ポモに活かされているので無駄ではなかったのだけど、あんな夏休みみたいな時間をもういちど過ごしたい。

 

昼夜逆転するの関係なく、1週間ぶっとおしでゲームとかやりたいなー。。あの頃は平気で、アドベンチャーゲームの一画面突破するのに3時間とかかけてた (行き詰まっても攻略サイト見なかった)。夫婦でやってたし、めっちゃ楽しかった。

 

でも、このあいだ妻と話したのだけど、かりにいま暇ができてもたぶんあの頃には戻れない。時間が貴重であることを知ってしまったから。一晩時間があるな ら、いまは妻もぼくも別のことに時間を使う。若いというのは、時間の貴重さを知らないということ。それが眩しくてしかたないよ、いまのぼくは。

とか後ろ向きのことを書いているのは、今日、20年ぶりに河合塾横浜校を訪れたからだと思います。なにもかも懐かしい。。

 

(おおかみこども絶賛中) @hazuma  (東さんの連続ツイート)

そういえば今日の河合塾講義ではじめて公に話したのだけど。

ぼくは実は社会思想の本質は「べき乗分布」と「正規分布」の二極線で理解できるのではないかと思っていて、いつかそれで本書こうと思っている。人間は身体 的には正規分布。身体能力が100倍高いとかありえない。けど記号操作を介すると資産や影響力はべき乗分布する。影響力100倍とか普通。

人間社会はその二原理をどう調停するかで作られている。共産主義はぜんぶ正規分布にしたいと思っていた。逆に新自由主義はすべてべき乗分布にするのが合理 的だと考えている。でも本当は人間はその両者の調停で社会作っていくしかない。

たとえば、倫理学でいうカント主義は正規分布の倫理、功利主義はべき乗分布の倫理とか、整理できると思うんだよね。

とかいう感じで「だれでもわかる哲学」的なものを考えているんだけど、この二曲線のアイデア、あとでパクられると嫌なので、ここで今日そういうことを言ったよーというのを公知の事実にしておきます。ほら、ぼくって心狭いからさ。。

人間は平等ではない。でも平等を求めてしまうのは、要は人間の身体がみなだいたい同じ大きさだからにほかならない。裏返せば、人間の身体がみなだいたい同 じ大きさということこそ、カント主義とかマルクス主義とかの平等の理念の根拠なのだと思う。みな、このことを過小評価している。

これって超わかりやすい話でもあって、たとえば、男女の仲って階級超えるじゃん。それはどういうことかというと、べき乗分布で秩序化されている世界(所得 格差)に、正規分布の世界(結局男と女でしょ)が入り込んでいるという話だと思うんだよね。裸になると資産関係なしっていうか。

いくら資産の格差があっても(そしてこれからそれがどれだけ強くなっても)、人間はおたがいが同じような身体をもっているというかぎりにおいて、絶対に平等の理念を失わないでいられる。ぼくはこれこそが希望だと思うんだな。

左翼的な議論がだめなのは、べき乗分布を消し去れると思っていること。べき乗分布は、正規分布と同じくらい「自然」な原理であって、格差社会は絶対に解消 できない。格差の再生産は資本主義の原理そのもの。しかしそれはすべてがべき乗になるべきだということも意味しない。

べき乗分布の世界と正規分布の世界をどう腑分けし、繋げていくかが、21世紀の思想の課題だと思うんだ。

というわけで、ぼくは今後リアルの可能性は正規分布にこそあると思っている。資産が1万倍だろうと、フォロワーの数が1万倍だろうと、リアルに会うと身体 の大きさは(そして身体的能力も知的能力も)大して変わらない。ここにこそ平等の理念の根拠があるし、またリアルに会うことの意味もあると思う。

ネットは記号操作の世界だから、どうしてもべき乗分布になる(スケールフリーになる)。強い奴はどんどん強くなる。でも、100万フォロワーのひとでも、 オフ会で摑まれば100フォロワーのひとの話を聞かざるを得ない。この単純な事実に、人類の希望があるんだと真剣に思ってる。

とかいうかんじ。そのうち、ちゃんと本にします。きっとこれは、ぼくの哲学の中心の問題なので。

ではおやすみ〜

 

Twitter上での反応

(おおかみこども絶賛中) @hazuma 

東先生@hazumaへの中西先生@mitsuo1960のツイートを読んでいると、従来の哲学というのがいかに窮屈なものだったか、が伺える。確かに各時代の選りすぐりの賢い人間が哲学を担って来たのだろうし、参考にしなければいけないとは思うが、やはりあまりに窮屈だ。強烈な印象

(おおかみこども絶賛中) @hazuma 

"@mminami1: @hazuma 現役生が僕だけで驚きましたが、実は予習していったので内容はバッチリでした!!"受験もがんばれー

(おおかみこども絶賛中) @hazuma 

まさにそういう話です。RT @herobridge なるほど。確かに金持ちが身長5mあったら打ちのめされるな。でも人間は多かれ少なかれ似たような姿形だ。そこの部分で格差を乗り越えられるって事か。

2012年10月14日 (日)

小曽根真 featuring No Name Houses ライブレポート 2012.10.13

 あの感動のトリオの公演から一月もたたないというのに、小曽根真はアメイジングなビックバンドを引き連れて僕たちのところへ帰って来た。小曽根真 featuring No Name Houses ”Road” ツアー最終公演を、グリーンホール相模大野で聴く。

 20043月にリリースされた伊藤君子のアルバム『Once You’ve Been In Love 一度恋をしたら』の発売記念ライブが、赤坂B♭で行われてからはやくも8年半の年月が過ぎた。あの左右に広がる赤坂B♭のステージに重なるように座り、ボーカルの伊藤君子・ドラムの海老澤一博夫妻を祝福すべく集まったこのメンバーたちの暖かい思いと限りない音楽への情熱は、千数百人の聴衆を迎える大ホールにおいても少しも変わることはない。むしろ公演を重ねれば重ねるほどタイトになってゆくバンドの一体感に、ジャズミュージック特有の親密さと微笑みが加わって、聴衆はファーストコンタクトで彼らに魅了された。

 一曲目はオスカー・ピーターソン作曲の”Noreen’s Nocturne”(未録音)だが、闇の中でひとりベースが歌いはじめ、続いてドラムが、そしてピアノが加わってリムズセクションがそろう。そこに、強力なホーンセクションが呼び入れられて演奏が一気に高みに登りつめるという、胸の高鳴る演出が準備されていた。これは、ストーリーテリングを意図する”Road”ツアーならではの趣向で、繊細な照明のワークに象徴されるステージングのすばらしさも、あわせて彼らの新境地と言ってよい。

 第一部では、小曽根をはじめとするメンバーのオリジナル楽曲が次々に演奏されたが、これはいわばこれまでの回顧。オリジナル楽曲でビックバンドジャズの最先端を切り開いてきた彼らのプライドであり、アンサンブルで対話するだけでなく、作品の読解を通じてお互いを音楽家として深く理解しレスペクトしてきたNo Name Houses たちの自画像である。もちろん、演奏は常にギリギリを攻めるチャレンジングなもので、僕たち聴衆に息をつく間も与えてくれない。最高峰のテクニックを誇るミュージシャンたちの稜線上のプレイを、心ゆくまで堪能することになった。特筆すべきは、トリオで演奏された”My Witch’s Blue” で、このビックバンドを支えるリズムセクションの強力さに改めて感動した。小曽根、中村の息のあった熟達のプレイは言うまでもないが、高橋信之助のドラミングが生み出すばらしいグルーブ感は、この小曽根作曲のユニークな楽曲をさらに新たな高みに誘っているかのようだった。もちろん、彼の音楽的進化は彼自身の才能によるものだが、No Name Houses での豊かな対話の経験が、彼を育ててきたことは間違いない事実でもある。僕は、彼がNo Name Housesに加入した最初のツアーから聴き続けているが、彼の成長はまことに凄まじいもので、それだけ内面的な葛藤も多かったのではなかったかと想像する。しかし、そうしたメンバーひとりひとりの歴史を抱え込みながら、そしてそのことをお互いに理解し尊敬しながら、今の時を迎えているNo Name Houses である。おそらくこれは、ひとり高橋だけに起きたことではない。

 第二部は、小曽根の新曲 “Road” (未録音)が演奏されたが、こうしたメンバーたちの思いをつぶさに表現し、さらにNo Name Houses の将来を指し示す特別な思いが込められた大曲であった。発足当時のNo Name Houses は、メンバーのひとりひとりが、小曽根とひとときでも長く一緒にいたい、演奏していたい、音楽の話をしていたいという思いが横溢したバンドだと、僕には見えた。演奏から、その喜びのパワーが溢れ出ていた。そして、それは八年の時を経た今でも少しも変わっていないように思われる。だがこの間、日本の政治経済は混迷を深め、そのうえに東日本大震災という未曾有の災害を経験することとなった。そして音楽の世界も激変した。現在がプロフェッショナルな音楽家にとって必ずしも幸せな時代でないことも事実なのである。結婚する、こどもが生まれる、こどもが成長する、ときには病魔にも襲われる。ひとりひとりに人生があって、かけがえのない家族もいる。人生は苦悩と葛藤だらけだ。しかし、その中にあって、小曽根真とNo Name Houses たちは、ミューズの顔を望み見て、自らの作り出す音楽の前にすっくと立とうとしていた。僕には、この46分にも及ぶ楽曲が、その宣言のように思われたのである。ひとりひとりが音楽の神に選ばれた高度なテクニックを持ち、それをプロフェッションとすることを許された幸せを、かみしめるように演奏する。15人のメンバーひとりひとりが、ソロパートを担当し、それを14人の仲間たちが豊かな対話の中で支えてゆくという構成は、一見派手ではないが豊穣な世界の開示であり、喜びのシェアなのであった。やがて、メンバーの思いはひとつとなって、すさまじいグルーブ感に導かれてゆく。最終ステージで、これでツアーが終わりこの愛すべきメンバーたちとしばし別れなければならないという愛惜の情も加わって、すばらしい演奏であった。その静謐なエンディングは、彼らの将来を十分に予感させるものであったと報告しておきたい。No Name Houses はまたすぐに僕たちのもとに戻ってくるであろう。

 アンコールでは、会場に聴きに来ていたピアニスト塩谷哲をステージに呼び入れての連弾、”Toil & Moil”。これはもう喜びがはじけたお祭り騒ぎで、セカンドアンコールの”Corner Pocket”とともに、聴衆を熱狂させた。前夜の伊藤君子に続いて会場に姿を現した海老澤一博の胸にも、こみあげてくるものがあったに違いない。

 小曽根真とNo Name Houses の冒険はこれからも続いてゆく。僕たちは、目を離すわけにはいかない。彼らと同じ時代を生きていることが、僕たちの誇りであり、ささえでもあるのだから。

20121013nnh

 

2012年10月 3日 (水)

河合塾エンリッチ講座 東浩紀さん講演 人間と動物のあいだで引き裂かれる「人間」

河合塾エンリッチ講座2012

 

東浩紀(早稲田大学教授) 

人間と動物のあいだで引き裂かれる「人間」

 

20121022日(月) 17:3019:00 

河合塾横浜校3N教室

入場無料・申込不要

 

 例えば、ジュリアード音楽院出身の演奏家について「彼はジュリアード・メイドのチェリストで…」と表現することがある。それにならえば、東浩紀さんは「河合塾メイドの思想家・批評家」である。

 

 中学生の ころから、今はなき駒場校に通い始めた彼は、高等学校卒業までの数年間を河合塾で過ごした。彼のフットワークは軽く、時に他校舎の単科講座にも足を伸ばし たこともあるそうだ。そればかりか、大学入学後にはグリーンコースのチューターまで経験している。僕が東さんとはじめて会ったときにも、彼は河合塾への愛 を存分に語ってくれて、むしろ僕のほうが面はゆかったほどだ。彼がこれほどまでに河合塾をなつかしがるのは、単なる多感な思春期の時代へのノスタルジーで はなく、明らかに、彼の思想家・批評家としての基盤が、この河合塾での数年間に形づくられたことを物語っている。今回の講座では、そんな彼の自己形成史に まで踏み込んだお話が聴けるはずである。

 

 東さんの 問題関心の領域は極めて広い。はじめ、フランスの思想家ジャック・デリダの研究から出発したが、日本のアニメや現代美術への批評、オタク文化を分析したポ ストモダン論、そして政治の問題まで、現代に切り結ぶあらゆる事象を俎上に載せる。そして彼自身SF作家でもある。書籍や新聞、「朝まで生テレビ」などマ スメディアによる発言も極めて多い東さんだが、Twitterで思いを常に発信し続けており、時に過激に自己をさらすことを厭わない。3.11の大震災とそれに続く原子力事故の際には、思想家・批評家として、また幼いこどもを持つ親として、苦悩し行動する様がつぶさに語られたことは記憶に新しい。

 

 大学での教育活動を行う一方で、仲間たちと会社を立ち上げ『思想地図β』をいう雑誌を発刊している東さんは、言論アカデミズムや権威から自由になる闘争を続けており、今最も注目すべき人物のひとりである。

 その東さんが、最先端の問題意識を「コウハイ」である君たちに語ってくれるのが、今回の講座である。従順である必要はない。「コウハイ」たちと論争が起きることを東さんは望んでいるに違いないのだから。(司会 中西光雄)


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