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2010年10月 3日 (日)

ジュニア科分級案「聖書の古文 主の祈り」(2)

 

御国を 来たらせたまえ。

 

「御国」とは「あなたの国」のこと。ここでは、父なる神(あなた)の意志が実現した国ということになるでしょう。


*「来らせたまえ(へ)」の「来る」はラ行四段活用動詞。「来」という動詞は、和文脈ではふつうカ行変格活用(カ変)動詞「来(く)」と読みますが、漢文訓読の際には「来(きた)る」と読むのがルールです。ここでは、そのルールをきちんと守っています。「せたまえ(へ)」は、ここまでと同じく、使役の助動詞+尊敬の補助動詞の命令形です。「あなたの意志が実現した国をこの地上に来させてください」と願うのです。

 

みこころの 天に なるごとく、

地にも なさせたまえ。

 

実はこの一文には、大きな問題があるように、私には思えます。

 「みこころの」の「の」は、主格を表す格助詞です。「みこころ」が、「なる」という述語動詞の主語になっているのです。日本語では、英語のように主語の意識が明確ではないので、主格を表す格助詞も省略されやすいことは、みなさんもご存じでしょう。現代の口語で「私、もう行くわ」という表現があるとしますね。この一文には主格の格助詞は用いられていません。これを、「私が、もう行くわ」とすると、とてもおかしな表現になります。つまり、現代語でも主格の格助詞は必要ないのです。省略されているわけではない。文語文は、現代語の会話に構造が似ていますから、やはり主格の格助詞は必要ありません。もう一つ口語で考えてみましょう。「私、三年前にこの学校に入学した時に、…」。みなさんは、友だちとのくだけた会話なら、こんな表現をするかもしれません。しかし、「私が、三年前にこの学校に入学した時に、…」と表現したほうがずっと意味が通じやすいでしょう。つまり、主格の格助詞は、文が述語動詞で終わらないで、以下に続いてゆくときに、表示されるものだったのです。文語でも同じです。「みこころ 天になるごとく」だと、讃美歌のようでリズムはよいのですが、正書法からは離れてしまいます。つまり、極めて正しく格助詞「の」は用いられているのです。

 

「みこころの天になるごとく」の「ごとく」は、同一・比況の意味を表す助動詞「ごとし」の連用形。全体として「父なる神(あなた)の心が天に実現されているのと同じように、地上にも実現してください」という祈りです。この「ごとし」という助動詞も、漢文訓読文に使われた助動詞です。

 

「ごとく」の前には「なる」というラ行四段活用動詞が用いられています。既に、天では神の意志は実現しているのだから、存在を表すラ行変格活用動詞「あり」が用いられてもよいはずですが、ここでは「神の意志の実現」を強調するために、動作性のある「なる」を用いたのだと思います。しかし、続く「地にもなさせたまえ(へ)」には、自動詞「なる」ではなく、他動詞「なす」が用いられていることに注意せざるをえません。自ら「なる」のではなく、他からの力が加わって何事かを「なす」のです。みなさんは、神が地上にその意志を「なす」のだから、それで正しいのでは?と思うかもしれませんね。でも、よく考えてみてください。「なす」のあとには、使役の助動詞「す」の連用形「せ」が続くのです。文字通りの意味で理解すると、「神がその意志を私たちに命じて実現させなさってください」という意味になってしまいます。もちろん、そのような聖書解釈も可能なのかもしれません。しかし、ギリシャ語聖書の原文では、「神の意志が、天と同じように地でも実現する」ための祈りとなっていますから、やはりこれは誤訳で、自動詞を用いて「地にも ならせたまえ(へ)」とするか、他動詞を用いるなら使役の助動詞を取り去って「地にも なしたまえ(え)」とあるべきだと、私は思います。プロテスタント教会で、百年以上にわたって祈られてきた重要な祈りの表現を、文法的に誤りがあると断じるについては、私自身ためらいもありますが、やはりここははっきりさせておかなければなりません。実は、平安時代から「せたまう(ふ)」という表現には、文法的誤りがたくさん存在するのです。それは、「す・さす」という助動詞に、使役と尊敬のふたつの意味があるからなのでした。「せ・させ+たまう(ふ)」という表現には、尊敬語を重ねて一段高い敬意を表す二重尊敬の用法があります。「たまう(ふ)」だけを単独で使うより、敬う気持ちが高く、平安時代の和文では、主に、帝・皇后・女院・皇太子などの皇族、あるいは摂政・関白などの動作だけについて、いわゆる「最高敬語」として使われていました。そして、「尊敬+尊敬」の用例のほうが、「使役+尊敬」の用例より、圧倒的に多かったことが知られています。この「主の祈り」では、ここまで三回の「せ・させ+たまえ(へ)」が用いられていますが、最初の二つはあきらかに「使役」の意味です。父なる神に対して、いわゆる「最高敬語」を用いていないことは、ここに続く「与えたまえ(へ)」「ゆるしたまえ(へ)」「救いいただしたまえ(へ)」から明らかです。神に対しては「たまう」という通常の敬意の尊敬語を用いることで統一されているのです。だからこそ、「地にも なさせたまえ」という表現を、おかしいと指摘せざるをえません。日本語はリズムを大切にする言語です。特に、声をそろえて祈る場面では、「せたまう(へ)」の繰り返しという心地よいリズムが大切にされたのでしょう。もとより、文語を書くことが日常的だった明治前期の人々には、どこまで明確な文法意識があったかどうかも疑問です。自然に書いて、自然に唱えていたのでしょう。あの敬語の使い方に厳密であった『枕草子』の清少納言でさえ、「せ・させ+たまう(ふ)」の使い方では、矛盾・間違いと思われる箇所が指摘できます。私たちも、「主の祈り」の翻訳の問題点を正しく認識しておくべきだと思うのです。

 

私が古文の教師として、ひとつ不思議に思うのは、全体的に漢文訓読調の言葉を用いて聖書を翻訳したこの翻訳者が、なぜ助動詞「す・さす」に代わって、「しむ」という助動詞を使わなかったか?ということです。もともと、漢文訓読文では「る・らる」という助動詞を用いないことを、みなさんはご存じでしょう。使役の意味しかない「しむ」という助動詞を用いれば、意味はきちんと固定できたはずです。「御名をあがめしめたまえ」「御国を来らしめたまえ」「地にもならしめたまえ」。ますます固い表現にはなりますが、これはこれでしっかりとした文語文です。なぜ翻訳者が、「しむ」を用いなかったのかは、当時の聖書の他の部分や、明治期の文語の正書法について検討を加えなければならないと思っています。これは、私の研究課題です。

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