ジュニア科分級案「聖書の古文 主の祈り」(1)
ジュニア科分級案「聖書の古文 主の祈り」(1)
明治時代のはじめ、日本にプロテスタントの信仰が伝えられた時、外国人宣教師たちが最初にしたことは、聖書の翻訳でした。当時は、話言葉(口語)と書き言葉(文語)が分離していた時代でしたから、聖書はまず文語で翻訳されました。また、教会で歌われる讃美歌も、文語の歌詞がつけられていました。その後、聖書も讃美歌もわかりやすい口語となり、私たちが文語で神の言葉に触れる機会は、ほとんどなくなりましたが、礼拝で唱える「主の祈り」だけは、文語のそれであることが多いようです。今日は、文語の「主の祈り」の言葉を、みなさんと一緒に分析してみたいと思います。
主の祈り
天に まします 我らの 父よ。
*「まします」は尊敬語の動詞です。尊敬語は、動作の主体(主語)に対する敬意を示します。私たちが高等学校で学ぶ古文は、平安時代の女性の文章(和文)が中心になりますが、和文ではこの言葉はあまり用いず「おはす」「おはします」を用いました。「まします」は、漢文訓読調の文に用いられたのですが、これはつまり、男の人の言葉で書かれているということです。「まします」は、高い敬意を表す言葉で、平安時代は、天皇や皇族の動作に使われました。聖書の原語ギリシア語には敬語はありませんでしたから、日本語の、高貴な人に対して敬意を表す言葉(敬語)を、キリスト教の神にそのまま用いたことになります。
*「我ら」は「我」の複数形。「私たち」の父よと、神に呼びかけます。平安時代からある言葉ですが、人称代名詞をあまり使わない日本語では、そう多くは使われませんでした。
ねがわくは 御名を あがめさせたまえ。
*「ねがはくは」の「く」はク語法といいます。動詞を名詞化するときに用いる方法です。漢文で「いはく」という時の「く」と同じものです。「願うことには」とか「望むことには」という意味で、願望や意志の表現と呼応して、ひたすら願う意味を表します。これも男言葉、漢文訓読調の表現です。
*「ねがはくは」と呼応する表現が、「あがめさせたまえ(へ)」という表現。「あがめ(あがむ)」は、「尊敬する」「敬う」の意。「させ(さす)」は使役の助動詞。「たまえ・へ(たまう・ふ)」は尊敬語の補助動詞の命令形。全体としては、お願いだから「(あなたを)尊敬させてください!」という切なる願いの表現になっています。私は、この祈りの中で何度も用いられる、「す・さす」という使役の助動詞こそが、文語の「主の祈り」の基調になっていると考えます。神に祈ろうとして祈れないからこそ、「祈らせてください」と告白するのです。祈ることさえままならない身を投げ出して、「祈らせてください」と懇願するのです。この「使役」の表現は、対応する語がギリシア語にはないはずですから、日本語への翻訳の問題になるでしょう。しかし、そのことは逆に、日本の初期のキリスト者が、どれほど真剣に祈ったか、祈らざるをえなかったかということの、証拠になると思うのです。
*「御名」の「御」は、名詞の前につく尊敬の接頭語。現代語の「お」はほとんどが丁寧語ですから、同じものだと思わないでください。会話・二人称の文章で「御」は、「あなた」のというほどの意味だと思えばよいでしょう。だから「御名」は、「あなたの名前」という意味。英語の二人称”YOU”にあたる適当な言葉が、日本語にないために、「あなた」という呼びかけを回避した表現です。日本語では、現代語においても、「あなた」という言葉を目上の人に用いることは、失礼にあたります。つまり、対等な二人称の関係そのものがないということでしょう。「あなたの名」という代わりに「御名」と婉曲に表現するのは、ある意味で当然のことでした。「かけまくもかしこき」という表現をご存じでしょうか?「言葉にするのもはばかられる」という意味で、太平洋戦争の敗戦以前は「神」や「帝」など高貴な人を表す言葉の前に、枕詞のようについていた表現でした。日本では、高貴な人は名指してはいけないのです。現代でも、「失礼ですが、御名前なんとおっしゃるのですか?」と言ったりします。名前を問うのは、本質的に失礼な行為なのです。言うまでもなく、古代から、日本人は、自分の名前を他人に知られることを忌み嫌ってきました。男性が女性に求婚するときは、女性の名前を問うのです。女性が自分の名前を言えば、結婚が成立する。名前には、その人の魂や命が込められていると信じてきたのでした。江戸時代の武士には、本名の他に諱名(いみな)という通称がありました。これも、本名を隠して、自分の魂や命を守るためでした。なのに、「主の祈り」では、信仰を持つ者たちが、神の名を呼ばせてくださいと祈るのです。名前を呼んで、「あなた」を崇めさせてくださいと祈ります。つまりこのことは、キリスト教の信仰が、日本人の古くの信仰とは、全く異質なものであることを、宣言しているに等しいといってよいでしょう。
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