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2010年10月

2010年10月18日 (月)

私の講演会を棚倉町ホームページで紹介していただきました。

11月6日にせまった私の講演会(歴史講座)を

棚倉町HPのトップページ info-now のコーナーで紹介いただきました。

下のリンク先からどうぞ!

また、かわいらしいイラスト入りフライヤーも作っていただきましたので、

よろしければダウンロードしてください。

棚倉町文化センターでお目にかかりましょう!

「flyer.pdf」をダウンロード

2010年10月 7日 (木)

『棚倉は唱歌「蛍の光」のふるさと 国学者稲垣千頴をめぐって』

11月6日の、棚倉文化センターにおける講演の演題が正式に決まりました。

『棚倉は唱歌「蛍の光」のふるさと 国学者稲垣千頴をめぐって』

広報「たなぐら」に寄稿した文章のタイトルにそったものですが、

おはなしの内容は、より詳細で豊かなものにしたいと思っています。

詳細は、ひとつ前の記事をごらんください。

2010年10月 5日 (火)

棚倉町 第33回 秋の文化祭 記念講演のおしらせ

唱歌「蛍の光」の作詞者稲垣千穎(いながきちかい)の生地、福島県東白川郡棚倉町で、

私の講演会を開いていただくことになりました。

棚倉町の第33回秋の文化祭の記念講演として行われるものです。

稲垣千穎の生涯について、はじめて全貌を明らかにいたします。

歴史に関心を持つ棚倉町のみなさま、近隣のみなさま、是非お越し下さい。

新しい出会いへの期待に胸をときめかせております。

日時 11月6日(土) 13:30〜15:00

場所 棚倉町 文化センター 「倉美館」

    福島県東白川郡棚倉町大字関口字一本松58

主催 第33回秋の文化祭実行委員会

共催 棚倉町教育委員会

問い合わせ 棚倉町 生涯学習課 0247(33)0111 棚倉町文化センター内      




2010年10月 3日 (日)

ジュニア科分級案「聖書の古文 主の祈り」(2)

 

御国を 来たらせたまえ。

 

「御国」とは「あなたの国」のこと。ここでは、父なる神(あなた)の意志が実現した国ということになるでしょう。


*「来らせたまえ(へ)」の「来る」はラ行四段活用動詞。「来」という動詞は、和文脈ではふつうカ行変格活用(カ変)動詞「来(く)」と読みますが、漢文訓読の際には「来(きた)る」と読むのがルールです。ここでは、そのルールをきちんと守っています。「せたまえ(へ)」は、ここまでと同じく、使役の助動詞+尊敬の補助動詞の命令形です。「あなたの意志が実現した国をこの地上に来させてください」と願うのです。

 

みこころの 天に なるごとく、

地にも なさせたまえ。

 

実はこの一文には、大きな問題があるように、私には思えます。

 「みこころの」の「の」は、主格を表す格助詞です。「みこころ」が、「なる」という述語動詞の主語になっているのです。日本語では、英語のように主語の意識が明確ではないので、主格を表す格助詞も省略されやすいことは、みなさんもご存じでしょう。現代の口語で「私、もう行くわ」という表現があるとしますね。この一文には主格の格助詞は用いられていません。これを、「私が、もう行くわ」とすると、とてもおかしな表現になります。つまり、現代語でも主格の格助詞は必要ないのです。省略されているわけではない。文語文は、現代語の会話に構造が似ていますから、やはり主格の格助詞は必要ありません。もう一つ口語で考えてみましょう。「私、三年前にこの学校に入学した時に、…」。みなさんは、友だちとのくだけた会話なら、こんな表現をするかもしれません。しかし、「私が、三年前にこの学校に入学した時に、…」と表現したほうがずっと意味が通じやすいでしょう。つまり、主格の格助詞は、文が述語動詞で終わらないで、以下に続いてゆくときに、表示されるものだったのです。文語でも同じです。「みこころ 天になるごとく」だと、讃美歌のようでリズムはよいのですが、正書法からは離れてしまいます。つまり、極めて正しく格助詞「の」は用いられているのです。

 

「みこころの天になるごとく」の「ごとく」は、同一・比況の意味を表す助動詞「ごとし」の連用形。全体として「父なる神(あなた)の心が天に実現されているのと同じように、地上にも実現してください」という祈りです。この「ごとし」という助動詞も、漢文訓読文に使われた助動詞です。

 

「ごとく」の前には「なる」というラ行四段活用動詞が用いられています。既に、天では神の意志は実現しているのだから、存在を表すラ行変格活用動詞「あり」が用いられてもよいはずですが、ここでは「神の意志の実現」を強調するために、動作性のある「なる」を用いたのだと思います。しかし、続く「地にもなさせたまえ(へ)」には、自動詞「なる」ではなく、他動詞「なす」が用いられていることに注意せざるをえません。自ら「なる」のではなく、他からの力が加わって何事かを「なす」のです。みなさんは、神が地上にその意志を「なす」のだから、それで正しいのでは?と思うかもしれませんね。でも、よく考えてみてください。「なす」のあとには、使役の助動詞「す」の連用形「せ」が続くのです。文字通りの意味で理解すると、「神がその意志を私たちに命じて実現させなさってください」という意味になってしまいます。もちろん、そのような聖書解釈も可能なのかもしれません。しかし、ギリシャ語聖書の原文では、「神の意志が、天と同じように地でも実現する」ための祈りとなっていますから、やはりこれは誤訳で、自動詞を用いて「地にも ならせたまえ(へ)」とするか、他動詞を用いるなら使役の助動詞を取り去って「地にも なしたまえ(え)」とあるべきだと、私は思います。プロテスタント教会で、百年以上にわたって祈られてきた重要な祈りの表現を、文法的に誤りがあると断じるについては、私自身ためらいもありますが、やはりここははっきりさせておかなければなりません。実は、平安時代から「せたまう(ふ)」という表現には、文法的誤りがたくさん存在するのです。それは、「す・さす」という助動詞に、使役と尊敬のふたつの意味があるからなのでした。「せ・させ+たまう(ふ)」という表現には、尊敬語を重ねて一段高い敬意を表す二重尊敬の用法があります。「たまう(ふ)」だけを単独で使うより、敬う気持ちが高く、平安時代の和文では、主に、帝・皇后・女院・皇太子などの皇族、あるいは摂政・関白などの動作だけについて、いわゆる「最高敬語」として使われていました。そして、「尊敬+尊敬」の用例のほうが、「使役+尊敬」の用例より、圧倒的に多かったことが知られています。この「主の祈り」では、ここまで三回の「せ・させ+たまえ(へ)」が用いられていますが、最初の二つはあきらかに「使役」の意味です。父なる神に対して、いわゆる「最高敬語」を用いていないことは、ここに続く「与えたまえ(へ)」「ゆるしたまえ(へ)」「救いいただしたまえ(へ)」から明らかです。神に対しては「たまう」という通常の敬意の尊敬語を用いることで統一されているのです。だからこそ、「地にも なさせたまえ」という表現を、おかしいと指摘せざるをえません。日本語はリズムを大切にする言語です。特に、声をそろえて祈る場面では、「せたまう(へ)」の繰り返しという心地よいリズムが大切にされたのでしょう。もとより、文語を書くことが日常的だった明治前期の人々には、どこまで明確な文法意識があったかどうかも疑問です。自然に書いて、自然に唱えていたのでしょう。あの敬語の使い方に厳密であった『枕草子』の清少納言でさえ、「せ・させ+たまう(ふ)」の使い方では、矛盾・間違いと思われる箇所が指摘できます。私たちも、「主の祈り」の翻訳の問題点を正しく認識しておくべきだと思うのです。

 

私が古文の教師として、ひとつ不思議に思うのは、全体的に漢文訓読調の言葉を用いて聖書を翻訳したこの翻訳者が、なぜ助動詞「す・さす」に代わって、「しむ」という助動詞を使わなかったか?ということです。もともと、漢文訓読文では「る・らる」という助動詞を用いないことを、みなさんはご存じでしょう。使役の意味しかない「しむ」という助動詞を用いれば、意味はきちんと固定できたはずです。「御名をあがめしめたまえ」「御国を来らしめたまえ」「地にもならしめたまえ」。ますます固い表現にはなりますが、これはこれでしっかりとした文語文です。なぜ翻訳者が、「しむ」を用いなかったのかは、当時の聖書の他の部分や、明治期の文語の正書法について検討を加えなければならないと思っています。これは、私の研究課題です。

2010年10月 2日 (土)

ジュニア科分級案「聖書の古文 主の祈り」(1)

ジュニア科分級案「聖書の古文 主の祈り」(1)

 

明治時代のはじめ、日本にプロテスタントの信仰が伝えられた時、外国人宣教師たちが最初にしたことは、聖書の翻訳でした。当時は、話言葉(口語)と書き言葉(文語)が分離していた時代でしたから、聖書はまず文語で翻訳されました。また、教会で歌われる讃美歌も、文語の歌詞がつけられていました。その後、聖書も讃美歌もわかりやすい口語となり、私たちが文語で神の言葉に触れる機会は、ほとんどなくなりましたが、礼拝で唱える「主の祈り」だけは、文語のそれであることが多いようです。今日は、文語の「主の祈り」の言葉を、みなさんと一緒に分析してみたいと思います。

 

主の祈り

 

天に まします 我らの 父よ。


*「まします」は尊敬語の動詞です。尊敬語は、動作の主体(主語)に対する敬意を示します。私たちが高等学校で学ぶ古文は、平安時代の女性の文章(和文)が中心になりますが、和文ではこの言葉はあまり用いず「おはす」「おはします」を用いました。「まします」は、漢文訓読調の文に用いられたのですが、これはつまり、男の人の言葉で書かれているということです。「まします」は、高い敬意を表す言葉で、平安時代は、天皇や皇族の動作に使われました。聖書の原語ギリシア語には敬語はありませんでしたから、日本語の、高貴な人に対して敬意を表す言葉(敬語)を、キリスト教の神にそのまま用いたことになります。


*「我ら」は「我」の複数形。「私たち」の父よと、神に呼びかけます。平安時代からある言葉ですが、人称代名詞をあまり使わない日本語では、そう多くは使われませんでした。


 

ねがわくは 御名を あがめさせたまえ。


*「ねがはくは」の「く」はク語法といいます。動詞を名詞化するときに用いる方法です。漢文で「いはく」という時の「く」と同じものです。「願うことには」とか「望むことには」という意味で、願望や意志の表現と呼応して、ひたすら願う意味を表します。これも男言葉、漢文訓読調の表現です。


*「ねがはくは」と呼応する表現が、「あがめさせたまえ(へ)」という表現。「あがめ(あがむ)」は、「尊敬する」「敬う」の意。「させ(さす)」は使役の助動詞。「たまえ・へ(たまう・ふ)」は尊敬語の補助動詞の命令形。全体としては、お願いだから「(あなたを)尊敬させてください!」という切なる願いの表現になっています。私は、この祈りの中で何度も用いられる、「す・さす」という使役の助動詞こそが、文語の「主の祈り」の基調になっていると考えます。神に祈ろうとして祈れないからこそ、「祈らせてください」と告白するのです。祈ることさえままならない身を投げ出して、「祈らせてください」と懇願するのです。この「使役」の表現は、対応する語がギリシア語にはないはずですから、日本語への翻訳の問題になるでしょう。しかし、そのことは逆に、日本の初期のキリスト者が、どれほど真剣に祈ったか、祈らざるをえなかったかということの、証拠になると思うのです。


*「御名」の「御」は、名詞の前につく尊敬の接頭語。現代語の「お」はほとんどが丁寧語ですから、同じものだと思わないでください。会話・二人称の文章で「御」は、「あなた」のというほどの意味だと思えばよいでしょう。だから「御名」は、「あなたの名前」という意味。英語の二人称”YOU”にあたる適当な言葉が、日本語にないために、「あなた」という呼びかけを回避した表現です。日本語では、現代語においても、「あなた」という言葉を目上の人に用いることは、失礼にあたります。つまり、対等な二人称の関係そのものがないということでしょう。「あなたの名」という代わりに「御名」と婉曲に表現するのは、ある意味で当然のことでした。「かけまくもかしこき」という表現をご存じでしょうか?「言葉にするのもはばかられる」という意味で、太平洋戦争の敗戦以前は「神」や「帝」など高貴な人を表す言葉の前に、枕詞のようについていた表現でした。日本では、高貴な人は名指してはいけないのです。現代でも、「失礼ですが、御名前なんとおっしゃるのですか?」と言ったりします。名前を問うのは、本質的に失礼な行為なのです。言うまでもなく、古代から、日本人は、自分の名前を他人に知られることを忌み嫌ってきました。男性が女性に求婚するときは、女性の名前を問うのです。女性が自分の名前を言えば、結婚が成立する。名前には、その人の魂や命が込められていると信じてきたのでした。江戸時代の武士には、本名の他に諱名(いみな)という通称がありました。これも、本名を隠して、自分の魂や命を守るためでした。なのに、「主の祈り」では、信仰を持つ者たちが、神の名を呼ばせてくださいと祈るのです。名前を呼んで、「あなた」を崇めさせてくださいと祈ります。つまりこのことは、キリスト教の信仰が、日本人の古くの信仰とは、全く異質なものであることを、宣言しているに等しいといってよいでしょう。

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