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2010年9月26日 (日)

ジュニア科(CS)説教原案「イエスは命のパン」

まことに稚拙ではありますが、私の所属する日本キリスト教団代田教会のジュニア科(CS)で行った説教の原案を示しておきます。実際の説教では、この原案に肉付けしてお話しました。


聖書;ヨハネによる福音書 6章22節〜40節


その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけがでかけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうをティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がペンを食べた場所に近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして。湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、こきにおいでになったのですか」と言った。イエスは応えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいのでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしか天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」               

 


説教原案


 教会の暦は、イエスの短い生涯を辿る一年です。生誕のクリスマスから、復活のイースターまで。今年は4月4日がイースターでしたから、ちょうど半年がたとうとしています。クリスマスを待ち望むアドベントにはまだ遠く、夏の諸行事も終わって、教会全体が、ほっとしているころかもしれません。とりわけ、今年は酷暑で、先週の日曜日までは、確かに真夏のようなお天気でしから、今日の涼しさは、誰にとっても、望まれた秋の到来です。


 しかし、今日読まれたヨハネによる福音書の中で、イエスは、厳しい言葉を私たちに投げかけてきます。あなたにとって「永遠の命」とは何か?そして、終末の日と復活とを信じるのか?と。ヨハネによる福音書の主イエスは、終末論の観点にたって、私たちに「信仰」とは何かということを問うてきます。


「わたしが命のパンである。わたしのもとに来者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない。」

イエスはこう言われました。6章26節からの

「はっきり言っておく。あなたがたはわたしを捜しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物ために働きなさい。」

イエスは、自分が命のパンであると言明しています。しかし、同時に、人々の多くがそれを受け入れず、パンとは腹を満たすもの、食物としてのパンを求めて、集まって来ていることも明らかにする。イエスの比喩はわかりやすく、日常の言葉や生活感覚から離れず、しかも直接的に言葉が届けられるがゆえに、当時の人々に、またわたしたちに、大きな、そして明確な、価値間の変革を迫るのです。非常に激しい問い詰めであったことは、間違いないことでしょう。 イエスが問いかける相手は、宗教的なエリートではありません。宗教には、しばしば、宗教的なエリートにしかわかりえない言説があるものです。しかし、イエスのしたことは、ひとりひとりの人々に、民衆に問いかけたのです。自らのすべてを無防備にさらして。


 イエスの言いたかったのは、こういうことかもしれません。イエスはパンを食べなくていいと言ったわけではない。あなたは、日常の糧パンの向こうに、永遠の命につながる「信仰」を見ていますか?朽ちる食べ物の向こうに、命のパンがあることを信じますか?日々の食時のたびに、「信仰」を確かめ、新たなものにしていますか?そのように、繰り返し、繰り返し、問い直すのです。やさしいイエスではない。厳しい方です。とことん問い詰める。だから、逃げ出す人が続出したのです。


 わたしたちには信仰の先達がいます。例えばアッシジのフランチェスコ。彼は、特別な信仰のアンテナを持っていましたが、一度世を捨てたあと、再度、イエスの相似形になろうとして、すべてを捨て、山の中に籠もりました。例えばマザーテレサ。修道女であり、学校の教師をしていた彼女は、あるときインスピレーションを得て、コルカタの最も貧しい人の救済のために身を投じました。「信仰」は、おそらく、強い宗教的な感性を持った人々にとっても、不断に、日々書き換えていかなければ、すぐに腐ってしまうものだったのでしょう。それほど、「信仰」とはもろく腐りやすいものなのです。われわれ凡人なら、なおさらのことでしょう。


 聖書のあふれるような言葉に聞き、礼拝を守る。これが、命のパンに繋がるということ。来週は、月初めの、聖餐式があります。それは、イエスさまの言った「命のパン」を具現化したものです。わたしたちが信仰への感性を磨き、不断に新たにされることの感動を、味わいたいと思います。祈ります。           

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