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2010年3月28日 (日)

「あふげば尊し」(第三編)の成立過程

前々回の記事で、「仰げば尊し」の作詞家が誰か不明であり、資料もないと書いてしまいましたが、完全に誤認でした。

訂正させていただきます。


あふげばたふとし、わが師の恩
教の庭にも はやいくとせ
おもへばいと疾し、このとし月
今こそわかれめ、いざゝらば

互にむつみし、日ごろの恩
わかるゝ後にも、やよわするな
身をたて名をあげ、やよはげめよ
今こそわかれめ、いざゝらば

朝ゆふなれにし、まなびの窓
ほたるのともし火、つむ白雪
わするゝまぞなき、ゆくとし月
今こそわかれめ、いざゝらば

この歌は、1884(明治17)年に出版された『小学唱歌集』三編に掲載されています。

作詞者は里見義・加部厳夫・大槻文彦で、作詞の過程が記録に残されています。

この三人の中では、大槻文彦が最も有名で、『言海』(のちの『大言海』)の編集を行った学者でした。里見義・加部厳夫は、初編からの音楽取調掛で稲垣の同僚でした。

この歌は、歌のタイトルも幾度もかわっています。

「あふげば尊し」→「師の恩」→「告別歌」→「あふげば尊し」

結局、讃美歌の要領で、歌い出しの初行(ファーストライン)のタイトルがつけられたのですが、作詞の過程では、歌の内容に準じたタイトルも検討されたようです。

この歌の原案が残されています。


あふげばたふとし、わが師の恩
学べるうちにも はやいくとせ
おもへばいと疾し、このとし月
今こそわかれめ、いざゝらば

2行目
「学べるうちにも、はやいくとせ」には、加部が「学びの窓」にもと修正意見をつけました。
また、里見が「教の庭にも、いく文月」と修正意見をつけました。
そして最終的に「教の庭にも」となったのです。

4行目
「今こそわかれめ、いざゝらば」には、いずれかが「いまこそいとまを」と修正案をつけましたが、大槻が原案に戻しました。


互にむつみし、日ごろの恩
わかるゝ後にも、やよわするな
身をたて名をたて、やよはげめよ
今こそわかれめ、いざゝらば

2行目
「わかるゝ後にも、やよわするな」には、いずれかが「など忘れめや」と修正案をつけましたが、採用されませんでした。

3行目
「身をたて名をたて、やよはげめよ」には、里見がわざわざ『孝経』を典拠とした表現であることを、明記しています。

これらの編集過程は、
伊澤修二著 山住正己校注 『洋楽事始 音楽取調成績申報書』平凡社(東洋文庫)1971年6月28日刊 に書かれています。

三番にはコメントがつけられていませんが、2行目「ほたるのともし火、つむ白雪」は、明らかに「蛍の光」の引用です。

大槻文彦は、仙台藩出身。祖父に蘭学者の大槻玄沢、父に漢学者の大槻磐渓を持つ学者一族でした。

昨年、慶應義塾が主催した「福澤諭吉展」に、『言海』の出版記念会の招待状が展示されていました。首相の伊藤博文ほかそうそうたる名士が招待されましたが、福澤は自分の名の前に伊藤の名前があったことを理由に、出席を断っています。いかにも福澤らしい態度でした。

稲垣と大槻は、ご近所どおしでした。「下谷」。「上野」に対して「下谷」です。
今でこそ、御徒町駅を中心とした商業都市ですが、鉄道がひかれる以前は、上京した知識人たちが居住する学芸都市でありました。

時代は少し違いますが、樋口一葉もこの町で暮らしたのです。

稲垣と大槻とのさらに深い関係については、別の機会に紹介します。

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