最近のトラックバック

« 「仰げば尊し」を歌う:とくダネ! | トップページ | 「あふげば尊し」(第三編)の成立過程 »

2010年3月25日 (木)

沖縄と「蛍の光」

千島のおくも、おきなわも、

やしまのうちの、まもりなり。

いたらんくにに、いさおしく。

つとめよ、わがせ、つヽがなく。

【通釈】

千島の最北端も、沖縄の地も、

大八州日本のうちの、領域である。

派遣された地で、勇気を持って、

国のためにつくしておくれ、わが夫よ、どうぞご無事で。

【語釈】

「千島のおく」…一八五五(安政元)年の日露和親条約で、日露国境は千島の得慰撫島と択捉島の間とされていたが、一八七五(明治八)年の樺太・千島交換条約によって、樺太の放棄を条件に、日本が占守島までの北千島全域の領有することとなった。ここで「千島のおく」とわざわざ表現されていることには、領有権をめぐる政治的な意味があることに注目したい。

「おきなわ」…一八七九(明治十二)年、琉球王国が日本政府によって強引に編入される、いわゆる「琉球処分」が行われた。この曲が作曲されるわずか二年前のことであった。

「やしま」…日本国の別名。「大八州・八州国」ともいう。新しく領土に編入された北千島と沖縄を、あえて「やしまのうち」と呼ぶことで、国家意識を称揚しようとする意図が見え隠れしている。

「いたらんくに」…中央から見た辺境の地。明らかに、中央政府から派遣される国境警備の軍人たちのことを意識した表現。

「いさおしく」…形容詞「いさをし」。「勇ましい・功績がある」の意。軍人の志気を鼓舞する言葉。

「わがせ」…主として女性が、夫・恋人・兄弟を親しんでいう語。万葉集で好んで用いられた。このあたりの表現は、明らかに防人歌を下敷きにしている。軍人を辺境の地に送り出した女性の立場からの呼びかけという形式をとる。

「つつがなく」…形容詞。「無事だ。障りがない」の意。


沖縄に来ています。

戦後歌われなくなった「蛍の光」の四番には、千島と沖縄の地名が歌い込まれています。

注釈でも指摘したのですが、明治政府が琉球王国を強引に日本に編入したのは、1979(明治12)年のことでした。いわゆる「琉球処分」です。

記録によれば、「蛍の光」が最初に歌われたのは、1981(明治14)年、皇后が東京女子師範学校に行啓したおりの、附属小学校の生徒たちによるものでしたから、「琉球処分」のわずか二年後のことになります。

徳性の涵養を目指し、また素材として伝統的な花鳥風月を歌う唱歌がほとんどである中で、きわめて政治的な歌詞だといえます。

1879(明治12)年は、また東京師範学校が設立された年でもありました。「蛍の光」が、師範学校の卒業式のために作曲されたと考えるなら、きわめて重要な年です。

沖縄では、知事が中央政府から送り込まれ、政治制度も教育制度も、かなり強引に日本流にリフォームされていた時期でした。

琉球では、国学という独自の教育制度が発達していましたが、各地に小学校が作られ、まずは標準語教育がなされたといいます。明治政府の小学校は、沖縄の人々には「大和屋(やまとや)」と呼ばれており、学校の中で琉球・沖縄語(うちなーぐち)を用いると、「方言札」を首からかけられて、処罰されました。きわめて差別的な植民地政策といってよいでしょう。

沖縄にも師範学校が設立され、1982(明治15)に東京師範学校の卒業生がひとり教諭として着任したと記録にあります。

当時の東京師範学校の卒業生は、そのほとんどが、全国各地に設立されつつある師範学校の教師になったのです。現在なら大学院を卒業して、大学に教育研究職として就職するようなものです。

記録こそありませんが、その東京師範学校卒業の沖縄師範学校の教師は、卒業式で「蛍の光」を聞いて、赴任してきた可能性が高いのです。

数年後、沖縄県からの初の県費留学生(派出生徒)が二人、東京師範学校に派遣されています。彼らは、この「蛍の光」をどのように聞いたのでしょうか。

日経の記事にもありましたが、当時の師範学校の生徒はスーパーエリートで、一学年30名程度。すべて各県から派遣され、俸給を受領しながら学生として学んでいたのです。今でいうと、防衛大学校のイメージが最も近いでしょう。帝国大学設立以前ですから、どれほど優秀な生徒たちばかりであったか想像に難くありません。しかし、記録を見ると、そのスーパーエリートにしてからが、退学・原級留置することも多かったのです。それほど、西洋流の学問の習得は大変であったのです。

その学生たちが、卒業し、全国に派遣される際には、天皇や皇族が臨席し、うやうやしく卒業証書を受領したのです。そこで歌われる歌が「蛍の光」でした。

師範学校の卒業生は、近代国家のための教師を養成するための学校でした。教育制度も西洋にならい、設立当初から教育課程がきちんと定められていました。

だからこそ、卒業式の歌が、きわめて政治的であったのです。

私は、稲垣の人生を見渡して、彼が政治的な人間であった痕跡はほとんどないと思っています。彼が政治的な人間であったら、こんなに忘れ去られることはなかったはずです。もちろん、平田派の国学者は、その多くが政治的であったのですが、稲垣はむしろ学者肌で、考証派あるいは和歌派とでもいう国学の伝統を継いでいる人物です。

その彼が、唯一残した政治的な痕跡が、「蛍の光」の四番だと思っています。それは、一国学者が、近代学校の教師となるときに巡り会った、特殊な体験であったはずです。

私は、昨年の秋にはじめて沖縄の地に来ました。生まれて49年目のことでした。以来、今日まですでに数度沖縄を訪れています。

はじめて沖縄を訪れた時に、南部の戦跡をめぐりました。ひめゆりの塔のあまりに悲惨さに震撼しながら、沖縄県平和祈念資料館に行くと、その展示の冒頭に「蛍の光」が展示されていました。その後に続く、沖縄の地上戦の凄惨な展示の冒頭に「蛍の光」の歌詞がある。そのことに、しばらくたちつくしてしまったのです。

沖縄の人々にもきちんと理解していただける「蛍の光」論を書かねばと思っています。

沖縄の高校生たちが使う副読本にも「蛍の光」は掲載されており、沖縄では「蛍の光」が、ネガティヴな意味でではありますが、命を継いでおります。

だから、私は沖縄に来ると、たいへん燃えたぎるような気持ちになります。

稲垣は、奥州棚倉で生まれ、日光で学び、さらに京都に留学して、川越で教師になりました。いわば、山の人。海を身近に感じたことはなかったでしょう。その稲垣が、千島と沖縄、島のことを歌詞にした。その可能性と限界とについて、考察をすすめてゆきたいと思っています。

まもなく沖縄を離れます。

« 「仰げば尊し」を歌う:とくダネ! | トップページ | 「あふげば尊し」(第三編)の成立過程 »

唱歌・讃美歌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/174509/47903600

この記事へのトラックバック一覧です: 沖縄と「蛍の光」:

« 「仰げば尊し」を歌う:とくダネ! | トップページ | 「あふげば尊し」(第三編)の成立過程 »

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

twitter