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2010年3月

2010年3月31日 (水)

FM東京「クロノス」で紹介していただきました。

3月31日(水)の午前6時15分から、FM東京系列(JFN)の「中西哲生のクロノス」という番組で、私の「蛍の光」についての研究を紹介していただきました。

”クロノペディア”というキーワード解説のコーナー。四月の番組改編でなくなってしまうコーナーで、最終回での登場でした。キーワードは「卒業ソング」。

日経の記事なども参考にして、私への電話インタビューを編集し、全体をきちんと構成してくださっていました。

とてもわかりやすいプログラムになっていたと思います。プロの編集の技に脱帽です。

キャスターの中西哲生さん、柴田幸子さん、そしてスタッフのみなさま、ありがとうございました。

オンエアの途中で地震があって、どうなってしまうのかとも思いましたが、地震も大きな被害がなかったようで、安心しました。

この日、キャスターの柴田幸子さんが番組から卒業で、最後は涙…涙…の感動的なエンディングでしたが、このような記念すべき日に番組に出演させていただき、光栄だと思っています。

早朝から聴いていただいた方々、ほんとうにありがとうございました。

いよいよ三月も終わり。卒業シーズンも終了です。

2010年3月28日 (日)

「あふげば尊し」(第三編)の成立過程

前々回の記事で、「仰げば尊し」の作詞家が誰か不明であり、資料もないと書いてしまいましたが、完全に誤認でした。

訂正させていただきます。


あふげばたふとし、わが師の恩
教の庭にも はやいくとせ
おもへばいと疾し、このとし月
今こそわかれめ、いざゝらば

互にむつみし、日ごろの恩
わかるゝ後にも、やよわするな
身をたて名をあげ、やよはげめよ
今こそわかれめ、いざゝらば

朝ゆふなれにし、まなびの窓
ほたるのともし火、つむ白雪
わするゝまぞなき、ゆくとし月
今こそわかれめ、いざゝらば

この歌は、1884(明治17)年に出版された『小学唱歌集』三編に掲載されています。

作詞者は里見義・加部厳夫・大槻文彦で、作詞の過程が記録に残されています。

この三人の中では、大槻文彦が最も有名で、『言海』(のちの『大言海』)の編集を行った学者でした。里見義・加部厳夫は、初編からの音楽取調掛で稲垣の同僚でした。

この歌は、歌のタイトルも幾度もかわっています。

「あふげば尊し」→「師の恩」→「告別歌」→「あふげば尊し」

結局、讃美歌の要領で、歌い出しの初行(ファーストライン)のタイトルがつけられたのですが、作詞の過程では、歌の内容に準じたタイトルも検討されたようです。

この歌の原案が残されています。


あふげばたふとし、わが師の恩
学べるうちにも はやいくとせ
おもへばいと疾し、このとし月
今こそわかれめ、いざゝらば

2行目
「学べるうちにも、はやいくとせ」には、加部が「学びの窓」にもと修正意見をつけました。
また、里見が「教の庭にも、いく文月」と修正意見をつけました。
そして最終的に「教の庭にも」となったのです。

4行目
「今こそわかれめ、いざゝらば」には、いずれかが「いまこそいとまを」と修正案をつけましたが、大槻が原案に戻しました。


互にむつみし、日ごろの恩
わかるゝ後にも、やよわするな
身をたて名をたて、やよはげめよ
今こそわかれめ、いざゝらば

2行目
「わかるゝ後にも、やよわするな」には、いずれかが「など忘れめや」と修正案をつけましたが、採用されませんでした。

3行目
「身をたて名をたて、やよはげめよ」には、里見がわざわざ『孝経』を典拠とした表現であることを、明記しています。

これらの編集過程は、
伊澤修二著 山住正己校注 『洋楽事始 音楽取調成績申報書』平凡社(東洋文庫)1971年6月28日刊 に書かれています。

三番にはコメントがつけられていませんが、2行目「ほたるのともし火、つむ白雪」は、明らかに「蛍の光」の引用です。

大槻文彦は、仙台藩出身。祖父に蘭学者の大槻玄沢、父に漢学者の大槻磐渓を持つ学者一族でした。

昨年、慶應義塾が主催した「福澤諭吉展」に、『言海』の出版記念会の招待状が展示されていました。首相の伊藤博文ほかそうそうたる名士が招待されましたが、福澤は自分の名の前に伊藤の名前があったことを理由に、出席を断っています。いかにも福澤らしい態度でした。

稲垣と大槻は、ご近所どおしでした。「下谷」。「上野」に対して「下谷」です。
今でこそ、御徒町駅を中心とした商業都市ですが、鉄道がひかれる以前は、上京した知識人たちが居住する学芸都市でありました。

時代は少し違いますが、樋口一葉もこの町で暮らしたのです。

稲垣と大槻とのさらに深い関係については、別の機会に紹介します。

2010年3月25日 (木)

沖縄と「蛍の光」

千島のおくも、おきなわも、

やしまのうちの、まもりなり。

いたらんくにに、いさおしく。

つとめよ、わがせ、つヽがなく。

【通釈】

千島の最北端も、沖縄の地も、

大八州日本のうちの、領域である。

派遣された地で、勇気を持って、

国のためにつくしておくれ、わが夫よ、どうぞご無事で。

【語釈】

「千島のおく」…一八五五(安政元)年の日露和親条約で、日露国境は千島の得慰撫島と択捉島の間とされていたが、一八七五(明治八)年の樺太・千島交換条約によって、樺太の放棄を条件に、日本が占守島までの北千島全域の領有することとなった。ここで「千島のおく」とわざわざ表現されていることには、領有権をめぐる政治的な意味があることに注目したい。

「おきなわ」…一八七九(明治十二)年、琉球王国が日本政府によって強引に編入される、いわゆる「琉球処分」が行われた。この曲が作曲されるわずか二年前のことであった。

「やしま」…日本国の別名。「大八州・八州国」ともいう。新しく領土に編入された北千島と沖縄を、あえて「やしまのうち」と呼ぶことで、国家意識を称揚しようとする意図が見え隠れしている。

「いたらんくに」…中央から見た辺境の地。明らかに、中央政府から派遣される国境警備の軍人たちのことを意識した表現。

「いさおしく」…形容詞「いさをし」。「勇ましい・功績がある」の意。軍人の志気を鼓舞する言葉。

「わがせ」…主として女性が、夫・恋人・兄弟を親しんでいう語。万葉集で好んで用いられた。このあたりの表現は、明らかに防人歌を下敷きにしている。軍人を辺境の地に送り出した女性の立場からの呼びかけという形式をとる。

「つつがなく」…形容詞。「無事だ。障りがない」の意。


沖縄に来ています。

戦後歌われなくなった「蛍の光」の四番には、千島と沖縄の地名が歌い込まれています。

注釈でも指摘したのですが、明治政府が琉球王国を強引に日本に編入したのは、1979(明治12)年のことでした。いわゆる「琉球処分」です。

記録によれば、「蛍の光」が最初に歌われたのは、1981(明治14)年、皇后が東京女子師範学校に行啓したおりの、附属小学校の生徒たちによるものでしたから、「琉球処分」のわずか二年後のことになります。

徳性の涵養を目指し、また素材として伝統的な花鳥風月を歌う唱歌がほとんどである中で、きわめて政治的な歌詞だといえます。

1879(明治12)年は、また東京師範学校が設立された年でもありました。「蛍の光」が、師範学校の卒業式のために作曲されたと考えるなら、きわめて重要な年です。

沖縄では、知事が中央政府から送り込まれ、政治制度も教育制度も、かなり強引に日本流にリフォームされていた時期でした。

琉球では、国学という独自の教育制度が発達していましたが、各地に小学校が作られ、まずは標準語教育がなされたといいます。明治政府の小学校は、沖縄の人々には「大和屋(やまとや)」と呼ばれており、学校の中で琉球・沖縄語(うちなーぐち)を用いると、「方言札」を首からかけられて、処罰されました。きわめて差別的な植民地政策といってよいでしょう。

沖縄にも師範学校が設立され、1982(明治15)に東京師範学校の卒業生がひとり教諭として着任したと記録にあります。

当時の東京師範学校の卒業生は、そのほとんどが、全国各地に設立されつつある師範学校の教師になったのです。現在なら大学院を卒業して、大学に教育研究職として就職するようなものです。

記録こそありませんが、その東京師範学校卒業の沖縄師範学校の教師は、卒業式で「蛍の光」を聞いて、赴任してきた可能性が高いのです。

数年後、沖縄県からの初の県費留学生(派出生徒)が二人、東京師範学校に派遣されています。彼らは、この「蛍の光」をどのように聞いたのでしょうか。

日経の記事にもありましたが、当時の師範学校の生徒はスーパーエリートで、一学年30名程度。すべて各県から派遣され、俸給を受領しながら学生として学んでいたのです。今でいうと、防衛大学校のイメージが最も近いでしょう。帝国大学設立以前ですから、どれほど優秀な生徒たちばかりであったか想像に難くありません。しかし、記録を見ると、そのスーパーエリートにしてからが、退学・原級留置することも多かったのです。それほど、西洋流の学問の習得は大変であったのです。

その学生たちが、卒業し、全国に派遣される際には、天皇や皇族が臨席し、うやうやしく卒業証書を受領したのです。そこで歌われる歌が「蛍の光」でした。

師範学校の卒業生は、近代国家のための教師を養成するための学校でした。教育制度も西洋にならい、設立当初から教育課程がきちんと定められていました。

だからこそ、卒業式の歌が、きわめて政治的であったのです。

私は、稲垣の人生を見渡して、彼が政治的な人間であった痕跡はほとんどないと思っています。彼が政治的な人間であったら、こんなに忘れ去られることはなかったはずです。もちろん、平田派の国学者は、その多くが政治的であったのですが、稲垣はむしろ学者肌で、考証派あるいは和歌派とでもいう国学の伝統を継いでいる人物です。

その彼が、唯一残した政治的な痕跡が、「蛍の光」の四番だと思っています。それは、一国学者が、近代学校の教師となるときに巡り会った、特殊な体験であったはずです。

私は、昨年の秋にはじめて沖縄の地に来ました。生まれて49年目のことでした。以来、今日まですでに数度沖縄を訪れています。

はじめて沖縄を訪れた時に、南部の戦跡をめぐりました。ひめゆりの塔のあまりに悲惨さに震撼しながら、沖縄県平和祈念資料館に行くと、その展示の冒頭に「蛍の光」が展示されていました。その後に続く、沖縄の地上戦の凄惨な展示の冒頭に「蛍の光」の歌詞がある。そのことに、しばらくたちつくしてしまったのです。

沖縄の人々にもきちんと理解していただける「蛍の光」論を書かねばと思っています。

沖縄の高校生たちが使う副読本にも「蛍の光」は掲載されており、沖縄では「蛍の光」が、ネガティヴな意味でではありますが、命を継いでおります。

だから、私は沖縄に来ると、たいへん燃えたぎるような気持ちになります。

稲垣は、奥州棚倉で生まれ、日光で学び、さらに京都に留学して、川越で教師になりました。いわば、山の人。海を身近に感じたことはなかったでしょう。その稲垣が、千島と沖縄、島のことを歌詞にした。その可能性と限界とについて、考察をすすめてゆきたいと思っています。

まもなく沖縄を離れます。

2010年3月23日 (火)

「仰げば尊し」を歌う:とくダネ!

今朝のフジテレビ「とくダネ!」の特集で、卒業式に「仰げば尊し」を歌う中学校が紹介されました。

卒業ソングとして、ほとんど歌われなくなった「仰げば尊し」を、復活し、あるいは新たに卒業式で歌う千葉・埼玉・東京の三つの中学校を、
取材したものでした。

川越のある私立中学校では、文語の歌詞をプリントで配布し、生徒に意味をきちんと教えてから歌唱指導をしており、
先生方の十分な工夫と努力があってのことだとわかりました。

「仰げば尊し」には「蛍の光」同様係り結びの構文が用いられています。
私たちが小中学生だった数十年前でさえ、「今こそわかれめ」の「わかれめ」を「分かれ目」と思っているこどもたちが普通でした。
もちろん「わかれめ」の「め」は、係助詞「こそ」を受けた意志の助動詞「む」の已然形で、「わかれよう」という意味になります。
係り結びは、国語の授業できちんと教えなければならないことですが、この中学校では、歌を通じてそれを教えておられるようでした。
すばらしいことだと思います。

私が調べたところ、文部省唱歌の中で、係り結びが用いられているのは、「蛍の光」の「あけてぞけさはわかれゆく」とともに、
たった二例だけです。初期の唱歌にわずかに残った文語らしい構文なのです。

ちなみに、「あけてぞけさは」については、元東大総長だった蓮見重彦氏が、少年のころ、佐渡おけさからの連想で、
佐渡島のようなかたちのアメーバ「ゾケサ」を夢想して、ひとり恐怖していた体験を、名著『反日本語論』の中で書かれています。
歌が歌われなくということは、このような言語体験も失われるということです。

「仰げば尊し」は、1884(明治17)年に出版された『小學唱歌集』三編に掲載された歌です。作曲者・作詞者ともに、わかっていません。
初編の作成過程がわかる音楽取調掛の稟議書類のような一級資料が、まったく残されていないからです。
今後も、大発見でもない限り、特定は不可能でしょう。
楽曲も「蛍の光」のように讃美歌集に由来するものではありませんから、日本人が作曲した可能性もあります。
私は、とても美しい曲だと思っています。
明治の末年に、文部省は唱歌の中から外国曲を排除しました。「蛍の光」は、そのこともあって、教科書から消えたのです。
「仰げば尊し」などは、作曲者未詳であるがゆえに、歌い継がれたということかもしれません。

もう一点。「仰げば尊し」は、現在小学校6年生の教科書に掲載されています。ただ、今年横浜の公立小学校を卒業した次男は、まったく授業では触れられなかったと言っていました。教科書に掲載されているから残るというわけではないでしょうが、「蛍の光」より、やや有利な状況にあると言えるかもしれません。

ともあれ、「仰げば尊し」にあらわれる卒業式と在校生との掛け合いは、明らかに「蛍の光」のそれを踏襲したものであり、
日本の学校文化の中での卒業式の役割を、形成することに寄与しました。
そのことを忘れてはいけないと思います。

番組では、「仰げば尊し」の教師への尊敬を強調した歌詞に抵抗を覚え、とまどう中学生たちの、卒業式へ至る心の変化を追ってゆきました。
教師も保護者も生徒たちも、ひとつの歌を歌うことで、共通のエトスを見いだしえるのだということがメッセージとして伝わり、
たいへんすばらしい特集になっていたと思います。

卒業式のあるこの時期だけでなく、一年中、唱歌についてみんなが思い、考えてくださるとよいと念願します。

小倉智明さんがメインキャスターをつとめる「とくダネ!」には、弟も何度か出演させていただいており、私も休日にはよく見ています。

熾烈な視聴率争いのなかで、極めて良心的な番組作りに、心から敬意を表します。










2010年3月22日 (月)

日本経済新聞電子版

明日23日に創刊される日本経済新聞電子版(有料)で、3月16日からの紙面を読むことができることがわかりました。
私の記事も読めます。
今後、より遡って過去の紙面が読めるようになるかもしれませんが、とりあえず今日のところは最も古い紙面です。
登録をしなければなりませんし、一ヶ月後から完全に有料になるようですが、記事をクリッピングできたり、印刷できたりして、
かなり便利な機能もついています。
既に登録された方は、是非一度ご覧下さい。
今ちょうど、NHK総合で、メディアの現在と将来についての討論番組が放送されています。
インターネットの登場で、マスメディアもドラスティックな変化が求められています。
私の仕事は、まことにマイナーな歴史研究ですが、それが最先端のメディアのコンテンツととしてとりあげられていることに、感動をおぼえました。
変わることと変わらないこと。
それをきちんと見据えてゆきたいと思います。

日本経済新聞電子版
http://www.nikkei.com/



2010年3月18日 (木)

仰げば尊し「蛍の光」作詞者

みなさまご無沙汰しております。

3月16日(火)日本経済新聞文化面で、
私の「稲垣千穎」の研究が紹介されました。

卒業式シーズンにふさわしい話題とはいえ、
きわめてマイナーな研究を紹介してくださった
日本経済新聞に心から感謝いたします。

日本各地、そして海外からも、記事を読んだよという
メールをいただきました。

ありがたいことだと思います。

川越市立博物館にも問い合わせがあったと、
館長の大野先生からご連絡がありました。

これをきっかけに稲垣が世に知られることを
切に望みます。

残念なのは、稲垣のひ孫にあたる鎌倉の鎌田昶壽さんが
二年前に亡くなっていたことです。

私の研究がもう少しはやく進展していれば、
喜んでいただけたろうと思います。

鎌田さんから教えていただいた情報をもとに
これからも研究をすすめてゆきたいと思います。

近々書物にまとめるつもりでいます。

新聞記事をきっかけにこのブログを訪れてくださったかたは、
記事に先行する論文をお読みください。

唱歌・讃美歌カテゴリーにあります。

稲垣の前半生に関する知見は、この二年でわかってきたことで
まだ論文にはしておりません。

このブログでも、概要をお知らせすることにします。

ありがとうございました。

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