蛍の光の作詞者 稲垣千穎
「蛍の光の作詞者 稲垣千穎」
中西光雄
文部省唱歌「蛍の光」の作詞者は、稲垣千穎である。岩波文庫版『日本唱歌集』では、確かな記録がないことを根拠に作詞者を特定しておらず、この説が今日まで広く受け入れられてきた。これは、音楽取調掛長伊澤修二自筆の「唱歌略説」(明治十五年一月「音楽取調掛成績報告演奏会」)の「蛍の光」の項に、作詞者についての言及がなかったためである。(遠藤宏『明治音楽史考』一九四八年)しかし、この演奏会での「蛍の光」が歌曲演奏ではなく器楽合奏であったことを考えると当然のことであり、伊澤は歌詞の説明を伴う別版を前年すでに発表していた。明治十四年五月、東京女子師範学校行啓の折の「唱歌略説」は、「此歌は稲垣千穎の作にして」と作詞者を名指ししている。また同様の記事が、同年七月十五日付け東京日日新聞にも掲載されているから、「蛍の光」の歌詞原案が稲垣によるものであることは間違いない。
稲垣はこの「蛍の光」以外に、今日私たちが「むすんでひらいて」として知るルソーの曲に歌詞をつけた「見わたせば」の二番、さらにスコットランド民謡やアメリカの讃美歌、宮中伶人芝葛鎭作曲の曲など多数に歌詞をつけている。また、唱歌版「君が代」は、現行の歌詞(「古今集」詠み人知らず)を一番、源頼政の和歌を二番にしているが、この一番・二番の補作をしたのも稲垣であった。(『君が代のすべて』参照)稲垣千穎にとって、彼の作詞したおびただしい作品の中で、後世最も親しまれた「蛍の光」が自作として認定されなかったことは、残念なことであったが、まさにその無名性・匿名性こそが彼の生涯の持ち味であったのである。
稲垣千穎の経歴はこれまでほとんど明らかになっていない。彼は埼玉県士族で、明治の初期から下谷区仲徒町二丁目に住み、生涯をその地で暮らした。当時この地域には、明治維新以後、中央政府での職を求める上京知識人が多く住んでいたが、彼もまたそのひとりであろう。明治七年十月、開設間もない東京師範学校の「雇」教師として公職についた彼は、主に日本の古典文学を講じる一方、国文・国史の教科書を次々と出版。また、教師としても確実にキャリアを積み、明治十四年七月助教諭、さらに明治十六年七月教諭に昇進した。その傍らで明治十三年六月、東京師範学校長伊澤修二の要請により、柴田清煕・内田彌一らと音楽取調掛に就任した稲垣は、翌明治十四年に加わる里見義・加部厳夫とともに、最初期の唱歌作詞者となった。しかし、明治十七年四月、稲垣は突然東京師範学校を辞職し、その後ついに一度も公職に就かなかったのである。後に下谷区の教師親睦団体「下谷教育会」の会長に就任したという記録があるが、彼が元師範学校教諭として地域で尊敬を集めていたことを示すエピソードであろうか。稲垣を音楽取調掛に抜擢した理由を、晩年の伊澤修二は「(和)歌が上手」だったからと述懐するが、その指摘どおり、稲垣は生涯歌を読みつづけた歌人であった。歌集としては明治十七年の『詠草(稲垣千穎詠草)』(筑波大学中央図書館蔵)を残しているだけだが、後年雑誌『教育』(茗渓会事務所)に紀行・歌文集を寄稿している。これらの作品を概観してみると、彼が江戸以来の精神的伝統を受け継ぎ、典雅な古今調を好み花鳥風月を詠む題詠歌人であって、実生活を伺わせる歌など一首も詠まなかったということがわかる。ここにポエタドクトゥス(詩人学者)稲垣千穎の和歌への姿勢を見ることができよう。稲垣が亡くなったのは、大正二年二月九日。谷中霊園に祀られた彼の墓石には「稲垣千穎 妻島田氏之墓」とのみある。
さて、生活詠どころか、日記や備忘録さえ残さなかった稲垣ではあるが、彼の個性らしきものがただ一度だけあらわになったことがある。『小学唱歌集』初編、および『唱歌掛図』初編は、その作成の過程で、文部省と音楽取調掛とが意見交換をし、修正を加えたことが知られているが、稲垣千穎は音楽取調掛側の歌詞選定委員として、文部省側委員の佐藤誠實や島田三郎書記官らに対峙した。稲垣の意見の大半は、修正意見の付された語句の読みや解釈について、さまざまな古典籍から典拠をあげて論証したり、歌詞の音調や言い回しを吟味したりという、いかにも国学者・師範学校教諭らしい、冷静で端正なものいいである。このなかにあって、『唱歌掛図』初編第九図第二曲の修正意見に対する稲垣からの反論からは、彼の肉声が聞こえくる。もともとこの歌の原案は「春もなかばを、すぎのとを・・・」であったが、これに対して島田三郎書記官は、「を」の音が重なって聞き苦しいので「春もなかばの、すぎのとを・・・」と修正するように要求、佐藤誠實もこの意見に従った。しかし、これに対して稲垣は激しく反発する。「を」を「の」に変えることで「すぎのと」が「いひかけ(掛詞)」であることの効果がなくなってしまう。もし、この一節が掛詞でないのなら、戸は杉でなくても、栗でも榧でも漆喰ペンキ塗でもなんでもいいのだと。このいくぶん冷静さを欠いた、ぶっきらぼうな言葉で稲垣が守ったのは、唱歌に和歌修辞を導入しようという自らの強い意志であった。結局、この歌詞は編集の段階で削除され公にされなかったのだが、掛詞は「閨の板戸」と「蛍の光」の二曲の唱歌の中に残された。『小学唱歌集』二編以降、唱歌に掛詞が全く用いられていないことを考えてみるとき、「蛍の光」の一番「いつしか時もすぎのとを、あけてぞ今朝は」というフレーズは、稲垣が後世の我々に残したメッセージのように思えてならない。詩人学者の面目は、歌詞の細部にこそ宿っているのである。
稲垣千穎の生涯を振り返るとき、私たちは、江戸以来の国学の伝統が、市井の知識人によって明治という時代を生き抜いたことを知る。天皇自らが人知れず十万首を越える和歌を詠んだという明治の時代精神を「歌の時代」と呼ぶとするなら、稲垣のような日々歌を詠む無名の知識人たちこそが、天皇とともに、その時代を担っていたことは確実である。そして、その最も保守的な歌人のひとりが、西洋音楽の最初の作詞者として活躍しえたことこそ、まさに明治という新しい時代のダイナミズムなのである。
近代日本に新しく花開いた学校文化の象徴的な存在として「蛍の光」は誕生し、今日まで歌い継がれてきた。その出発点に、渾身の力でかかわったひとりの国学者稲垣千穎の生き方は、たしかにひとつの明治の精神であった。
キングレコード『螢の光のすべて』(2002)解説
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