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2008年3月19日 (水)

研究ノート「蛍の光」

 明治十五(一八八二)年に発行された『小学唱歌集 初編』に掲載された「蛍(蛍の光)」の作詞者は、稲垣千穎(いながきちかい)である。堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には、「歌詞の作詞者は、当時音楽取調掛と関係のあった稲垣千穎、加部厳夫、里見義のうちの誰かであろうが、記録がない」とあり、この説が今日まで広く一般に信じられてきた。このため、現在出版されている唱歌集や楽譜、音楽史研究書で、作詞家として稲垣千穎を明示するものは極めて少数である。しかし、この歌は第二次世界大戦後、小学五年生用の文部省検定教科書に掲載されており、昭和三十七(一九六二)年度版から各社一斉に作詞家として稲垣千穎の名が明記されてきたのであった。もともと著作権者が明らかにされなかった文部省唱歌であったにせよ、調査の結果、教科書に作詞家名が明記されながら、それが一般はおろか専門家にまでも認知されなかったということが、このあまりにも有名な歌の特殊な命運を物語っていよう。 

東京師範学校校長で、音楽取調掛の任にあった伊澤修二は、明治十四(一八八一)年五月二十四日東京女子師範学校に皇后が行啓した折、次のような「唱歌略説」を書いている。「此歌は稲垣千穎の作にして学生等が数年間勤学し蛍雪の功をつみ業成り事遂げて学校を去るに当り別れを同窓の友につげ将来国家の為に協力戮力せん事を誓う有様を述べたるものにて卒業の時に歌うべき歌なり。」稲垣を「蛍の光」の作詞者として特定するこの記事は、同時にこの歌と卒業式とを分かちがたく結びつけたマニュフェストともなった。

 伊澤修二は、明治四十四(一九一一)年自らの還暦を記念して『楽石自伝教界周遊前記』を口述し、翌年五月に出版した。その中で、音楽取調掛時代を次のように回想している。「右の如くにして言葉も大概は出来、かつ取調べた曲もようやく増加したからして、今度はこれに日本国語の唱歌を附することとしたが、これは非常な大問題であって、単に歌を作るといふことさへ容易では無いのに、取調掛の要求では、なお又曲意に合した歌を作るといふのみならず、句数字数が合はなければ、折角作歌者がいかなる名歌を作つても何の役にも立たぬ。その最得意とする好所をも改作しなければならぬのである。そこで歌も作る曲意も解る、句数字数も自在に変化し得るという作歌者を得る必要が起こった。しかして最初に盡力してくれた人は稲垣千穎氏である。此人は惜しいことに最早故人となってしまつたが、歌が上手で随分多くの氏の作にかかる歌がある。」

 かつて音楽取調掛として労苦を共にした稲垣に対する敬意と哀惜に満ちた言葉である(実はこの時稲垣はまだ存命中であったのではあるが…)。音楽取調掛で作詩をもっぱら担当した稲垣千穎は、当時東京師範学校の和文学・史学の助教諭でもあった。現在鎌倉に住む曾孫鎌田昶壽氏によれば、稲垣家は武州川越藩右筆(書記役)の家柄であり、千穎は和漢の教養を持つ正統派の歌人・国学者であった。音楽取調掛に任命されるまで、西洋の学問やキリスト教に触れた形跡はない。同じ初期の唱歌作者の里見義が、九州小倉(豊津)藩の国学者でありながら、大橋洋学校で洋学者とともに教え、築地居留地でキリスト教に触れる経歴を持っているのとは対照的である。(稲垣千穎の経歴については、CD『螢の光のすべて』キングレコード、2002の解説を参照していただきたい。) ここで「蛍(蛍の光)」の歌詞を確認しておこう。

蛍の光 窓の雪 書よむ月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を 明けてぞ今朝は 別れゆく

とまるも行くも 限りとて かたみに思う ちよろづの 心のはしを 一言に さきくとばかり 歌うなり

筑紫のきわみ みちのおく 海山とおく へだつとも その真心は へだてなく ひとつに尽くせ 国のため 

千島のおくも 沖縄も 八洲のうちの 守りなり 至らんくにに いさおしく つとめよわがせ つつがなく

  学校の卒業式と分かち難いイメージの「蛍(蛍の光)」の歌詞を正確に理解するためには、当時の学校と卒業式についていくつかの前提を押さえておく必用がある。教育史の研究者によれば、我々の知る近代小学校のイメージが成立したのは、おおむね明治二五(一八九二)四月の第二次小学校令施行以後だといわれる。それ以前は、学年は四月始まりではなく、九月に開始、翌七月に終了することが多く、一年を前期・後期の二つに区分することが普通だった。また同一学齢の児童が一定期間を同じ学級で学ぶという年限主義のシステムではなく、小学生ですら学期末毎に厳しい試験があり、それに合格した者のみが進級・卒業するという課程主義がとられていたのである。したがって、当時は卒業証書も三か月から半年の一課程修了毎に授与されていたのであった。とはいえ、当時学校儀式としての入学式、卒業証書授与式(卒業式)は、まだ多くの学校で定着しておらず、明確な学年暦すらもなかった。(寺崎昌男他『学校観の史的研究』野間教育研究所、1972)つまり、「蛍の光」を歌うべき卒業式自体が、未発達だったのである。

 では、伊澤修二が「唱歌略説」でその意義を説き、稲垣千穎が明確な方法意識を持って作詞をした「蛍(蛍の光)」という楽曲は、どのような卒業式のために書かれたのであろうか。とりもなおさずそれは、第一義的に、伊澤がかつて校長をし、稲垣が教鞭をとっていた東京師範学校、ならびに東京女子師範学校の卒業式のためのものであった。当時の官立の師範学校は、小学校教諭の養成のためのものというより、むしろ地方にどんどん設立されつつあった公立の師範学校の教員を養成する機関であって、多くの学生は地方から派遣された(派出生徒と言う)エリート集団であった。しかし、在学中は給与が支給され、将来が約束されたそのエリート集団を持ってしても、なお西洋流の学問の修得は困難を極め、原級留置者、退学者が後をたななかったといわれる。めでたくその師範学校での課程を終了し、国家から教師としての資格を付与されて日本の隅々に散ってゆく若き教師達のために、国家は卒業式に天皇・皇后臨席の栄誉を与えたのである。つまり、卒業式の儀式化は、まず師範学校ではじまり、その後、華族女学校など都市部の上層階級師弟の学校に急速に拡がっていったのであった。

 稲垣が、音楽取調掛で唱歌を作詩していた明治十三(一八八〇)年、東京師範学校は、九月十一日に前学期がはじまり、二十五名の新入生を迎えた。翌二月二十三日から始まる後学期で新たに十三名の新入生を迎え、そして後学期が終了した七月十五日、卒業証書授与式が執り行われ二十名の生徒が卒業したと記録にある。(筑波大学図書館蔵『自明治十三年九月至明治十四年九月 東京師範学校一覧』)当時は、前学期終了時にも卒業が出来るシステムであったが、多くの生徒たちは、夏に卒業するものであったのである。

 ここで改めて、後に「蛍の光」と知られるこの歌のタイトルが、『小学唱歌集 初編』に掲載されたときは「蛍」であったことに注目したい。『唱歌掛図』と並行して作成された『小学唱歌集 初編』は、まず楽曲ができて、数次の編纂の過程でタイトルが付けられたのだが、「蛍の光」が歌い出しの一節による命名であるのに対し、「蛍」は和歌の季題(歌題)に準じた命名なのである。夏の卒業式だから、夏の季題「蛍」という曲名なのである。一方、歌い出しの一節を曲名とするのは、明らかに賛美歌の影響だろう。稲垣が歌人・国学者であったことを考えると、自ら作詞した歌に季題風のタイトルをつけるのは当然のような気もするが、唱歌成立の最初期から、賛美歌風のタイトルと季題風のタイトルが混在していたことはもっと注目されてもよい。このような現象は『小学唱歌集 第三編』に掲載された里見義作詞の「菊」が、のちに歌い出しの「庭の千草」と呼ばれるようになったこととも呼応する。私たちは、楽曲のタイトルからも、和歌から唱歌への変化、あるいは唱歌の伝統的和歌世界からの自立のありようを読みとることができるのである。

 ところで、花鳥風月を主な題材として、「徳性の涵養」(伊澤修二による「緒言」)を目指した唱歌であったが、「蛍(蛍の光)」はその枠内に踏みとどまりながらも、学校儀式を強く意識することが運命づけられていたため、他の歌には全く見られないいくつかの特徴が見られる。以下にそれを列挙してみたい。

1 この歌では、一番と三番を卒業生、二番と四番を在校生が歌うという応唱性(劇的構成)が意識されている。こうした応唱性は、同じく卒業式の歌「仰げば尊し」(『小学唱歌集 第二編』)に引き継がれた。この応唱の形式は、学校生活という新しいライフスタイルを表現するために考案されたものであろうが、音楽取調掛のお雇い外国人教師ルーサー・ホワイティング・メーソンが稲垣たちに教えたのか、稲垣の創意なのかは不明である。

2 四番に顕著なように、この歌は女性が学窓を巣立つ男性を送りだすという独自の視点で描かれている。最初期の演奏記録を見ると、唱歌は女子師範学校の生徒や附属小学校の児童が歌っていることが多いことに気付く。当時の時代状況なら「唱歌は女性と子供が歌うものだ。男性が歌うものではない」という偏見があってもおかしくはないだろうが、一面で学校生活における女性のまなざしを歌詞に具象化したという点では大変意義深い。師範学校と女子師範学校という双子の教育機関が設置されて、はじめてなりたつ歌詞ということができよう。しかし、この四番の歌詞は、明らかに『万葉集』の防人歌を下敷きにしており、前線に立つ夫、銃後の妻という単純な図式が見え隠れしている点に、表現の限界を感じざるをえない。

3 この歌では、琉球処分、樺太千島交換条約など、同時代的・政治的な話題を踏まえている。近代国家において、軍人と警察官、そして教師はもっとも重要な国家意志の具現者であった。とりわけ、官立師範学校の卒業生には高いモラールが要求されたのであろう。この歌は、近代教育が、政治の現実からは独立しえないということを決定的に表現している。また、明治日本が帝国主義への道をつきすすむ胎動を感じさせるのである。しかし、ここで一点だけ指摘しておきたいことがある。『小学唱歌集 初編』は、音楽取調掛が作成した原案を文部省に提出し、文部省側が修正意見を付けて回付、再度取調掛が歌詞を練り直して提出するという複雑な作業を数次に渡って行った成果なのだが、その稟議書類が東京芸術大学に保存されている。四番の歌い出し「千島のおくも 沖縄も」は、三番の歌い出し「筑紫のきわみ みちのおく」と明らかに対照させた表現であるが、この構成には、三番で旧来の日本の版図を、四番で最近植民地化した地域を含む帝国日本の版図を遠近法で示そうという意図が見える。千島樺太交換条約によって、北千島全域が日本の領土になったのは、明治八(一九七五)年のこと。また、いわゆる琉球処分によって、琉球王国を日本に強引に編入したのは明治十二(一八七九)年のことであった。稲垣が、音楽取調掛に任命され唱歌の作詞に着手したのは明治十三年のことだから、実に血なまぐさい政治的ニュースを歌に読み込んだことになるのである。このことをふまえた上で、わたしたちが再度四番の歌詞「千島のおくも 沖縄も 八洲のうちの 守りなり」を読むとき、この一節が表現として矛盾を含んで実にわかりにくいことに気づくのである。「千島のおく」と「沖縄」とが「八洲(=日本)のうち」であるという表現ならばわかる。しかし、「千島のおく」と「沖縄」とが「八洲のうちのまもり」であるというのはどういう意味なのか。おそらくは、外敵から「八洲」の内部を守るための前線警護地なのだろうと推察できる。しかし、そうだとしたら、「八洲のうちのまもり」という表現ではとうてい言い表せない概念と内実とを含んでいよう。実はそれにはわけがあった。音楽取調掛が当初文部省に提出した草稿では、この部分は「八洲のそとのまもりなり」となっていたのである。これに対して、文部省の編書課員佐藤誠実(のち『古事類苑』の編纂に携わった国学者)は次のような修正意見をつけている。「『八洲のそとのまもり』という事を、八洲はもともと防衛の拠点であって、蝦夷地と沖縄とは八洲以外の防衛の拠点であるという意味と誤解してしまうために『八洲のほかの』と改めたく思うのである。あなたの説に従うなら『国のとのへのまもりなり』とも『わが大君のまもりなり』としてもよいだろう。そうではあるけれど、あなたの説によれば『内外』を『うちそ』と読むことができることもあるそうなので、もとのままでもよいだろう」。これに対する稲垣の反論は次のようであった「『そ』はもともと『背面』の意味があるのはもちろんであるけれど、『内外』を『うちと』とも『うちそと』とも読むことができる。あなたが非難なさったように『ほか』としては、外国・他国のための守りのように聞こえてよくない。『ほか』と読んでしまうと意味が違ってくるのである。「そと」といっても「中外(うちとそと)」の「外」のことであって、内面に対して『外面』の意味であるから、「そと」でよい。無理に『背面(そとも)』の意味だと考えるのは、少し上代の表現に偏った見方であろう。しかし、無理に『背面』としたとしても『ほか』として「千島」や「沖縄」を自らに関係ないもののようにするよりはよいだろう」。(東京芸術大学蔵『回議書類』通釈:中西)わかりにくい議論を長々と紹介したが、ここで議論されているのは、「国境」の認識と表現をめぐる議論である。当時の音楽取調掛と文部省との応酬は、しばしば現在の教科書検定制度と相似形で語られるが、少なくともこの議論を見る限り、文部省側が高圧的かつ一方的に歌詞の改訂を求めているようには思えない。ありていに言って、双方とも「国境」をきちんと認識できていないから、「うち」か「そと」か、表現が固まらないのであった。最終的に「八洲のうちの」という表現に落ち着いた過程については、残念ながら史料として残されていないが、当時の国学者たち、つまりインテリ層にしてからが、共通認識としての「国家」「国境」を持ち得ていなかったことが、「蛍(蛍の光)」の歌詞からわかるのである。結局、『小学唱歌集 初編』の出版から八年後、明治二十三(一八九〇)年に開設された帝国議会の第一回施政方針演説で、山県有朋首相が、「主権線」「利益線」という政治的言語で「国境」を定義するまで、認識論的混乱は続いたものと考えてよさそうである。明治国家において、政治的現実は、言語による認識にしばしば先行していたわけだが、「蛍(蛍の光)」がその端的な証拠であることを知る人は少ないのではないだろうか。四番の歌詞を見ると、私たちは稲垣千穎を単純なウルトラナショナリストだと判断しかねないが、作詩の現場に立ち戻ってみれば、むしろ非政治的な一国学者の姿が見えてくるのである。

 唱歌「蛍の光」は、このように成立した後、凄まじい速度で全国の学校に拡がっていった。師範学校・女子師範学校、さらに音楽取調掛を卒業した教師達が、目新しい卒業式という儀式とともにこの歌を普及させていったのである。早くも明治二十年代には、新聞の投書で「蛍の光」が巷で歌われていることがとりあげられているし(明治二十年八月二十八日付『読売新聞』)、男子校である第一高等中学校の唱歌演奏会で同校教諭による戯作が発表されていることからも、そのことがわかる。明治日本の急速な近代化の一表象として、社会全体の学校化が進展したのだが、立身出世という実利的目標が、学校儀式と唱歌といういわば新来の都市ファッションにくるまれて植民地を含む日本全土に伝播していったことには注意を払わなければならないだろう。

 第二次世界大戦後、国家主義的な三番・四番の歌詞を捨て、小学五年生の検定教科書に掲載されるようになってからも、この曲が文部省学習指導要領の共通教材(各社の教科書が必ず取り上げなければならない楽曲)に指定されたことは一度もない。小学五年生の教科書の最終ページに、「君が代」とともに、あくまでもさりげなくこの歌が掲載されていたことを記憶されている方も多いはずである。にもかかわらず、卒業式と結びついて「蛍の光」は、万人の歌いうる特別な歌という位置を占めることとなった。その意味で、伊澤修二の目論見、稲垣千穎の方法意識は、彼らの意図をはるかに越えて成就したと言ってよかろう。 数年前に亡くなった稲垣のただひとりの孫鎌田史江氏は、しばしば自らの子供たちに「蛍の光」を四番まで歌って聞かせていたと言う。稲垣千穎の孫であることに誇りを持ち、教師の妻として七人の子供を育てた彼女が、しかし「蛍の光」の作詞家として稲垣の名を声高に主張したことはなかったようだ。このことも、「蛍の光」の裏面史として記憶されてしかるべきだし、まただからこそ歌い継がれる唱歌の力を強く感じるのでもある。 以上、唱歌・賛美歌の歌詞研究の立場から「蛍の光」について若干の考察をしてみた。作詞家稲垣千穎に寄り添い、作詞の現場に近づくことで、この曲を歴史の中で定位しなおしてみるという試みである。楽曲“Auld Lang Syne”と賛美歌との関係について、本稿では全くふれることが出来なかったが、安田寛・手代木俊一・大塚野百合氏らの優れた先行研究をふまえつつ、他日を期したいと思うものである。

『REED ORGAN RESERCH』No.3 日本リードオルガン協会 2002

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