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2008年3月

2008年3月30日 (日)

ガーシュイン!!

今日は、ブルーノート東京へ"No Name Horses" directed by Makoto Ozone 最終日を聴きにいってきます。水曜日も行きましたから、今回の公演は二度目になりますが、毎日聴きにいきたいくらいの完璧なそして美しいアンサンブルが展開されています。今夜もすばらしい夜になることでしょう。ガーシュインの美しいバラード"Someone to Watch Over Me"が今夜も聴けるでしょうか。

少し前ですが、2月にサントリーホールで行われた大フィル定期演奏会のレポートを掲せておきます。これもまた実にすばらしいガーシュインでした。

大阪フィルハーモニー交響楽団 45回東京定期演奏会

2008217日(日) 14:00

東京 サントリーホール 大ホール

ラヴェル 『道化師の朝の歌』

ガーシュウィン 『ラブソディ・イン・ブルー』

アンコール 小曽根真 『ワイルド・グース・チェイス』

ベルリオーズ 『幻想交響曲 作品14

アンコール エルガー 『エニグマ変奏曲』よりアダージオ「ニムロッド」

指揮 大植英次

独奏 小曽根真(ピアノ)

コンサートマスター 長原幸太

管弦楽 大阪フィルハーモニー交響楽団

最近は、仕事に追われ、小曽根さんの出演されるコンサートやライブに行ってもレポートが書けない自分に歯がゆい思いをしています。しかし昨年は、コンサートやライブに出かけることさえ出来ない状況でしたから、年末のオーチャードホール、先月の紀尾井ホール、そして今回のサントリーホールと、たてつづけにすばらしい演奏を聴くことができただけでも幸せというべきでしょう。この三回の公演を通じて、小曽根さんが、より加速度を増すようにして、音楽と戯れつつも格闘し、新しい境地に導かれつつあることを確信しました。

つい先日のことになりますが、長く壊れていた我が家のHDDプレイヤーが修理されてきて、ハードディスクの中に、思いがけず、大植英次さんの『情熱大陸』が残されていたことに気づきました。確かこの番組は、20057月に東洋人指揮者としてはじめてバイロイト音楽祭でワーグナーを指揮される直前のオンエアでしたが、音楽への限りない愛と尊敬を情熱的に体現したその生き生きとした姿に、僕はいちどきにこの音楽家の魅力にとりつかれてしまいました。そう、小曽根さんのときと同じように…。携帯電話に流れるニュースで、大植さんがバイロイトで指揮をしたという記事を読んだことも、非常に鮮明に覚えています。ですから、昨年、大植さんの指揮する大フィルと小曽根さんの公演が決まったと聞いたとき、ほんとうにうれしく(まさに狂喜乱舞というやつです!)思いましたし、その後、東京の定期公演でも同じプログラムで演奏されると聞き、ほんとうにこの日を待っていたのです。いや、僕だけではない、ほんとうに皆が待ち焦がれた公演でした。二人の将来を嘱望される音楽家が、若き日にアメリカで出会い、20年越しの夢を実現した共演であるとは知るよしもありませんでしたが、今その話を伺ってさらに感動を深めています。

しかし、それにしても、凄まじいほどに深く美しい演奏でした。小曽根さんのラブソディ・イン・ブルーは、もう数度聞いていますけれど、今回の演奏は、今までの中で、もっともリリカルでスピリチュアルなそれではなかったかと思うのです。小曽根さん自身が語っておられるように、アメリカでの経験が長いマエストロ大植の、深いガーシュインへの理解、ジャズへの畏敬の念が触発したものなのでしょうが、小曽根さんのソロのパートは、驚くべき広さと深み、そして美しさを持つインプロヴィゼーションでした。それは、ガーシュインが譜面に書いたメロディとリズムそしてコード進行に導かれた緊張感のある対話であり、小曽根さん自身の内なる魂の吐露であったと思います。鋭角的な大植さんのコンダクトを受けて、最初にピアノがグッとためるようにして静かに鳴り始めたとき、これは何かが起こるという予感はしましたが、クラシカルな語法を持つブルースとでも言ったらよいのか、バロック風のラグタイムとでも言うべきか、それは、クラシックとジャズの領域を越えるというような図式ではなく、音楽を通じて20世紀そして21世紀に生きる人間の憂愁や喜びを創造し表現してゆくような壮大な奥行きを、僕は実感したのでした。それでも、途中で、この曲は正直どこまでいってしまうのか、僕はドキドキせずにはいられませんでした。僕は、小学四年生の息子とこの演奏会に来たのですが、お隣がドイツ語を話すカップル(たぶんご夫婦なのでしょう)で、このいかにもクラシック好きのヨーロッパ人が今日のガーシュインをどう聞いているのか少しだけ気になったのです。でも、それはおせっかいな僕の関心でした。女性は少し驚いた笑顔で、男性は脚でリズムをとりながら、身体ごとスイングしているではありませんか。むしろ僕のほうが、先入観にとらわれていたのでしょう。僕は自分の愚かさを戒めるようにして、再び小曽根さんとオーケストラの緻密な対話に身をゆだねたのです。サントリーホールに集うすべての聴衆が、今生まれたばかりのガーシュインに酔いしれたのでした。そして感動的なフィニッシュを迎えたのはいうまでもありません。

クラシックコンサートのオベーションは終わりがないものです。小曽根さんもマエストロも何度も舞台袖にひっこみ、そして何度も歓喜と称賛の声で迎えられました。ブラボー!やがて、大植さんに肩を押さえつけられるようにして小曽根さんがピアノの前に座りました。すると小曽根さん、お客さんに向かって「なに弾きましょうか?」と問いかけます。「にぎやかな曲?それとも静かな曲?」。すかさず大植さんが、「どっちも!」。このかけあいで、ホールが大きな笑い声に包まれました。小曽根さんが弾いたのは、「ワイルド・グース・チェイス」。僕たちにファンにとってはおなじみの曲ですが、このアンコールはオーディエンスに対してばかりではなく、マエストロやオーケストラのメンバーにも献げられるべきものですから、小曽根さんは渾身のフルスピードで愛を歌い上げたのです。サントリーホールは、この日たった一曲だけ演奏されたピアノソロ曲に集中したのです。クラシックホールが、スイングしていました。みなさんからのレポートによると、今回アンコール曲として小曽根さんは、初日に「シー」、二日目に「ビエンヴェニドス・アル・ムンド」を演奏されたそうです。さてさて、呉と岩国の公演ではどうなるのでしょう?きっとオーケストラのみなさんも楽しみにされていることだと思います。

今回のコンサートは、前から二列目の右側の席で聞きました。小曽根さんの指使いは全く見えませんでしたが、小曽根さんと大植さんの濃密なアイコンタクトを目の当たりにしました。そして、実に情熱的で繊細な大植さんのタクトさばきと豊かな表情やジェスチャーに酔いしれました。マエストロ大植の指先は震えるのです。音楽に酔いしれて心から震えるのです。僕にとって、ベルリオーズは初体験で、第五楽章まである大曲ですが、マエストロの情熱にオーケストラがインスパイアされて、実に緊密で色彩豊かな演奏で感動しました。実は僕は、小曽根さんの出演するクラシックのコンサートでは、小曽根さんの演奏以外にはブラボーを叫んだことはなかったのですが、今回ばかりはもう我慢ができませんでした。あの大きな目を見開いて、ホールのすみずみまで見つめ、聴衆の拍手を受ける大植さん。マエストロ大植と大フィルのみなさんに栄光あれ!二階席では、小曽根さんと美鈴さんがスタンディングオベーションをされていましたが、マエストロがそれに気づき手を振る。その愛にあふれた姿に、この日のコンサートの成功がすべて象徴されているかのようでした。ほんとうにすばらしいコンサートに感謝するほかはありません。

そうそう、僕の目の前のステージ上にはコントラバスのパートの方が座られていました。ジャズの世界でも、ベーシストには哲学者の風貌をした方が多いのですが、大フィルの主席奏者新真二(あたらししんじ)さんもインテリジェンスにあふれる長身でハンサムな方でした。さきほどインターネットで調べてみたのですが、新さんはこどものころからジャズが好きで、ビッグバンドに入ることを目指して、ベースを始めたそうです。そこから音楽家としてのキャリアが始まったらしい。大フィルには、こんなメンバーもおられるのですね。きっと小曽根さんとの出会いを、オーケストラのメンバーのみなさんも楽しんでおられることと思います。あと二回のコンサート、呉と岩国は、広島市生まれの大植さんにはいわば地元。きっとすばらしいコンサートになるでしょう。これからのコンサートに行かれるかたは、どうぞ存分に楽しんできてください。

小曽根さん、大植さん、大阪フィルハーモニー交響楽団のみなさん、すばらしいコンサートをほんとうにありがとうございました。また、同じメンバーで、ツアーをされるよう念願しています。そして、小曽根さん、七月のオーチャードホール、井上道義さん指揮NHK交響楽団との共演も楽しみにしています。またまた、ガーシュインがびっくりして冥界から聴きにくると思います。

2008年3月28日 (金)

勉強を休まない

いよいよというか、ついにというか、本格的に新年度の仕事が始まりました。春期講習会において国語科は、現代文と古文、あるいは古文と漢文というようなセット授業が主流です。新しい生徒たちに、わずか2コマの授業で何が伝わるか、一年後の入試の現場に連れていってあげられるか、なかなか難しいのですが、しかし予備校講師の腕の見せ所でもあります。花粉症に悩まされながら、毎日全速力で頑張っています。

昨日、おとといは、津田沼→横浜の移動でした。横浜の自宅を出て、まず津田沼に向かい1コマ、そして横浜の自宅に戻って予習とプリント作成。夕方横浜の校舎で1コマ。いまや予備校業界ではあたりまえの校舎移動ですが、身体が慣れていないこともあって、さすがに疲れました。

今日はまったくの疲労困憊状態です。しかし、こんなときこそ勉強をしなくてはなりません。僕はふたりの尊敬する先生たちからこのように言われました。「私は一日も勉強を休んだことがない。たとえ仕事は休んだとしても…。」なまけものの僕には、厳しい言葉です。が、もちろん励まし以外のなにものでもない。

今夜も書物を開こうと思います。

小さな資料室

先日、このサイトにご質問を寄せていただいたM.asamoriさんが、ご自身の主宰されるホームページ『小さな資料室』の資料254「蛍の光」と「あおげば尊し」に、小論をご紹介くださり、さらにリンクを張ってくださいました。

ありがとうございます。

丹念な資料探索に基づきご自身の考察を加えておられるすばらしいサイトです。

http://www.geocities.jp/sybrma/254hotaru.aogebatoutoshi.html

2008年3月22日 (土)

国語史グループ

Hatena(はてな)というオンラインコミュニティで、「国語史グループ」を運営されている大阪大学大学院の岡島昭浩先生に、「稲垣千頴」の項の記述内容についてご連絡を差し上げたところ、さっそくリンクをはってくださいました。基本的な知識が共有化されてこその研究ですから、大変うれしいことです。ありがとうございました。

「国語史グループ」は、非常に広範な「国語史」のデータベース構築を目指しておられる志高いグループです。是非訪れてみてください。

http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/keyword/%e7%a8%b2%e5%9e%a3%e5%8d%83%e7%a9%8e

2008年3月21日 (金)

I'm home

Im_home 弟の中西圭三がひさしぶりにミニアルバムをリリースしました。

日本テレビの「ぶらり途中下車の旅」のエンディングテーマ曲を中心としたアルバムです。

圭三のパートナーである田角有里も作詞家として参加しており(「ぼよよん行進曲」のチームです!)、タイトルどおりハートウォーミングな作品にしあがっています。

みなさん、是非聴いてください。(あいかわらず兄バカです)

http://www.amazon.co.jp/I%E2%80%99m-home-%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%9C%AD%E4%B8%89/dp/B00139ZKIY/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=music&qid=1206058009&sr=1-2

稲垣千穎の表記について

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とても細かい話題をひとつ。

「蛍の光」の作詞者稲垣千穎(いながきちかい)の表記についてである。

「穎」(ヒの下はのぎ)は「頴」(ヒの下はしめす)という異体字を持つ。

「穎」が正字、「頴」が俗字で、人名では正字を使うことが多かったようだ。

「穎」も「頴」も、音読みにすると「えい」である。これは、イネ科植物の小穂にみられる鱗片(りんぺん)状の包葉を指す言葉。「千穎」という名前は、元服後の改名だろう。

異体字による人名表記の異同は、どちらが正しいという問題ではないのだが、谷中墓地にある稲垣の墓碑銘や、稲垣の自筆稿本と見られる「稲垣千穎詠草」(筑波大学中央図書館蔵)を見たところでは、「稲垣千穎」と表記するのが正確なようだ。

「蛍の光のすべて」でも私以外の解説者は「稲垣千頴」と表記しているし、山東功著『唱歌と国語』でも「稲垣千頴」としている。

以前、恵泉女学園大学平和研究所の公開講座でお話しさせていただいたときに、ご一緒した大塚野百合先生に「あなたは身体は大きいのに、ほ んとうに細かいのねえ」と笑われたこと思い出す。でも歴史研究者としては、こうした言葉は勲章である。

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2008年3月20日 (木)

CD「螢の光のすべて」

Photo_5 昨日アップした「研究ノート 蛍の光」よりも前に発表した小論も掲げておきます。 これは、2002年にキングレコードからリリースされたCD「螢の光のすべて」の解説です。このCDが今入手可能かどうかよくわからないのですが(アマゾンでは購入可能のようです。下にリンクをはっておきます。)、「蛍の光」の歴史的音源ばかりを集めたもので、もちろんマニアックなものですが楽しめます。 私は、このCDに、この「蛍の光の作者 稲垣千頴」を寄稿し、共同作業ですが年譜を作らせていただきました。もしご興味があれば、こちらもご参照ください。

このCDがリリースされたとき、日本テレビの朝の番組で紹介されて、スタッフの方が稲垣のご子孫鎌田さんをを捜し出してくださいました。そして、鎌田さんからお聞きした内容を反映させた「研究ノート 蛍の光」を書いたわけです。

http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_gw?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%8Cu%82%CC%8C%F5%82%CC%82%B7%82%D7%82%C4

蛍の光の作詞者 稲垣千穎

「蛍の光の作詞者 稲垣千穎」

中西光雄

文部省唱歌「蛍の光」の作詞者は、稲垣千穎である。岩波文庫版『日本唱歌集』では、確かな記録がないことを根拠に作詞者を特定しておらず、この説が今日まで広く受け入れられてきた。これは、音楽取調掛長伊澤修二自筆の「唱歌略説」(明治十五年一月「音楽取調掛成績報告演奏会」)の「蛍の光」の項に、作詞者についての言及がなかったためである。(遠藤宏『明治音楽史考』一九四八年)しかし、この演奏会での「蛍の光」が歌曲演奏ではなく器楽合奏であったことを考えると当然のことであり、伊澤は歌詞の説明を伴う別版を前年すでに発表していた。明治十四年五月、東京女子師範学校行啓の折の「唱歌略説」は、「此歌は稲垣千穎の作にして」と作詞者を名指ししている。また同様の記事が、同年七月十五日付け東京日日新聞にも掲載されているから、蛍の光」の歌詞原案が稲垣によるものであることは間違いない。

稲垣はこの「蛍の光」以外に、今日私たちが「むすんでひらいて」として知るルソーの曲に歌詞をつけた「見わたせば」の二番、さらにスコットランド民謡やアメリカの讃美歌、宮中伶人芝葛鎭作曲の曲など多数に歌詞をつけている。また、唱歌版「君が代」は、現行の歌詞(「古今集」詠み人知らず)を一番、源頼政の和歌を二番にしているが、この一番・二番の補作をしたのも稲垣であった。(『君が代のすべて』参照)稲垣千穎にとって、彼の作詞したおびただしい作品の中で、後世最も親しまれた「蛍の光」が自作として認定されなかったことは、残念なことであったが、まさにその無名性・匿名性こそが彼の生涯の持ち味であったのである。

 稲垣千穎の経歴はこれまでほとんど明らかになっていない。彼は埼玉県士族で、明治の初期から下谷区仲徒町二丁目に住み、生涯をその地で暮らした。当時この地域には、明治維新以後、中央政府での職を求める上京知識人が多く住んでいたが、彼もまたそのひとりであろう。明治七年十月、開設間もない東京師範学校の「雇」教師として公職についた彼は、主に日本の古典文学を講じる一方、国文・国史の教科書を次々と出版。また、教師としても確実にキャリアを積み、明治十四年七月助教諭、さらに明治十六年七月教諭に昇進した。その傍らで明治十三年六月、東京師範学校長伊澤修二の要請により、柴田清煕・内田彌一らと音楽取調掛に就任した稲垣は、翌明治十四年に加わる里見義・加部厳夫とともに、最初期の唱歌作詞者となった。しかし、明治十七年四月、稲垣は突然東京師範学校を辞職し、その後ついに一度も公職に就かなかったのである。後に下谷区の教師親睦団体「下谷教育会」の会長に就任したという記録があるが、彼が元師範学校教諭として地域で尊敬を集めていたことを示すエピソードであろうか。稲垣を音楽取調掛に抜擢した理由を、晩年の伊澤修二は「(和)歌が上手」だったからと述懐するが、その指摘どおり、稲垣は生涯歌を読みつづけた歌人であった。歌集としては明治十七年の『詠草(稲垣千穎詠草)』(筑波大学中央図書館蔵)を残しているだけだが、後年雑誌『教育』(茗渓会事務所)に紀行・歌文集を寄稿している。これらの作品を概観してみると、彼が江戸以来の精神的伝統を受け継ぎ、典雅な古今調を好み花鳥風月を詠む題詠歌人であって、実生活を伺わせる歌など一首も詠まなかったということがわかる。ここにポエタドクトゥス(詩人学者)稲垣千穎の和歌への姿勢を見ることができよう。稲垣が亡くなったのは、大正二年二月九日。谷中霊園に祀られた彼の墓石には「稲垣千穎 妻島田氏之墓」とのみある。

 さて、生活詠どころか、日記や備忘録さえ残さなかった稲垣ではあるが、彼の個性らしきものがただ一度だけあらわになったことがある。『小学唱歌集』初編、および『唱歌掛図』初編は、その作成の過程で、文部省と音楽取調掛とが意見交換をし、修正を加えたことが知られているが、稲垣千穎は音楽取調掛側の歌詞選定委員として、文部省側委員の佐藤誠實や島田三郎書記官らに対峙した。稲垣の意見の大半は、修正意見の付された語句の読みや解釈について、さまざまな古典籍から典拠をあげて論証したり、歌詞の音調や言い回しを吟味したりという、いかにも国学者・師範学校教諭らしい、冷静で端正なものいいである。このなかにあって、『唱歌掛図』初編第九図第二曲の修正意見に対する稲垣からの反論からは、彼の肉声が聞こえくる。もともとこの歌の原案は「春もなかばを、すぎのとを・・・」であったが、これに対して島田三郎書記官は、「を」の音が重なって聞き苦しいので「春もなかばの、すぎのとを・・・」と修正するように要求、佐藤誠實もこの意見に従った。しかし、これに対して稲垣は激しく反発する。「を」を「の」に変えることで「すぎのと」が「いひかけ(掛詞)」であることの効果がなくなってしまう。もし、この一節が掛詞でないのなら、戸は杉でなくても、栗でも榧でも漆喰ペンキ塗でもなんでもいいのだと。このいくぶん冷静さを欠いた、ぶっきらぼうな言葉で稲垣が守ったのは、唱歌に和歌修辞を導入しようという自らの強い意志であった。結局、この歌詞は編集の段階で削除され公にされなかったのだが、掛詞は「閨の板戸」と「蛍の光」の二曲の唱歌の中に残された。『小学唱歌集』二編以降、唱歌に掛詞が全く用いられていないことを考えてみるとき、「蛍の光」の一番「いつしか時もすぎのとを、あけてぞ今朝は」というフレーズは、稲垣が後世の我々に残したメッセージのように思えてならない。詩人学者の面目は、歌詞の細部にこそ宿っているのである。

 稲垣千穎の生涯を振り返るとき、私たちは、江戸以来の国学の伝統が、市井の知識人によって明治という時代を生き抜いたことを知る。天皇自らが人知れず十万首を越える和歌を詠んだという明治の時代精神を「歌の時代」と呼ぶとするなら、稲垣のような日々歌を詠む無名の知識人たちこそが、天皇とともに、その時代を担っていたことは確実である。そして、その最も保守的な歌人のひとりが、西洋音楽の最初の作詞者として活躍しえたことこそ、まさに明治という新しい時代のダイナミズムなのである。

 近代日本に新しく花開いた学校文化の象徴的な存在として「蛍の光」は誕生し、今日まで歌い継がれてきた。その出発点に、渾身の力でかかわったひとりの国学者稲垣千穎の生き方は、たしかにひとつの明治の精神であった。

キングレコード『螢の光のすべて』(2002)解説

『唱歌と国語 明治近代化の装置』

先月のことになりますが、山東功さん(大阪府立大学専任講師)の『唱歌と国語 明治近代化の装置』(講談社メチエ406)が出版されました。

帯に「日本の近代化は歌と文法を必要としていた!」とあるように、唱歌と文法の成立を明治国家形成の装置として位置づけ、丹念な資料探索によって実証的に論じたすぐれた書物です。とりわけ、唱歌を日本語学の観点から分析したアプローチは斬新です。また、稲垣千頴については教科書編集者・文法学者としてとらえ、音楽取調掛における彼の格闘を活写しておられます。私の研究とも大いに重なるところがあり、現在再読しているところです。ひとつだけ残念なのは、稲垣千頴について非常に詳細に調査されながら、そのひととなりの全体像について、あるいはその生涯について憶測で書かれているところでしょうか。山東さんの研究の枠組みとその価値についていささかも疑問をはさむものではなく、また非常にすぐれた研究だと思いながら、その点だけは惜しまれてなりません。つまりは、それほどまでにこの分野の研究は、いまだ知識が共有化されていないのです。そこをなんとかしないといけないと思います。私も、山東さんのお仕事に励まされながら、私なりの研究をすすめていきたいと思っています。

この分野に興味があるかたは、是非山東さんの書物を手にとっていただきたいと念願してやみません。今後、この書物がひとつのスタンダードになることは間違いありません。

Photo

http://www.amazon.co.jp/%E5%94%B1%E6%AD%8C%E3%81%A8%E5%9B%BD%E8%AA%9E-%E6%98%8E%E6%B2%BB%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96%E3%81%AE%E8%A3%85%E7%BD%AE-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-406-%E5%B1%B1%E6%9D%B1/dp/4062584069/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1206005013&sr=8-1

2008年3月19日 (水)

お久しぶりです!

ブログをほぼ二年間も休んでしまいました。もし待っていてくれた方がいたとしたら、本当に申し訳なく思います。ごめんなささい。この二年間、休んでいる…というか放置しておいたにもかかわらず、ときどきコメントをくださる方がありました。ありがたいことです。

今日はM..asamoriさんがコメントをくださいました。僕の研究内容に対するご質問でしたので、お応えする義務があると思いレスをつけさせていただきました。また、関連の小論を新規の記事としてアップしました。ご興味があればごらんください。

それにあわせて、プロフィールに実名を公開しました。論文を掲載する以上、ハンドルネームではいけないと思います。

「研究ノート 蛍の光」は、2002年に、僕の所属する日本リードオルガン協会の研究誌に掲載していただいたものです。

今後もあまり頻繁には更新できないと思いますが、どうぞよろしくお願いします。

研究ノート「蛍の光」

 明治十五(一八八二)年に発行された『小学唱歌集 初編』に掲載された「蛍(蛍の光)」の作詞者は、稲垣千穎(いながきちかい)である。堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には、「歌詞の作詞者は、当時音楽取調掛と関係のあった稲垣千穎、加部厳夫、里見義のうちの誰かであろうが、記録がない」とあり、この説が今日まで広く一般に信じられてきた。このため、現在出版されている唱歌集や楽譜、音楽史研究書で、作詞家として稲垣千穎を明示するものは極めて少数である。しかし、この歌は第二次世界大戦後、小学五年生用の文部省検定教科書に掲載されており、昭和三十七(一九六二)年度版から各社一斉に作詞家として稲垣千穎の名が明記されてきたのであった。もともと著作権者が明らかにされなかった文部省唱歌であったにせよ、調査の結果、教科書に作詞家名が明記されながら、それが一般はおろか専門家にまでも認知されなかったということが、このあまりにも有名な歌の特殊な命運を物語っていよう。 

東京師範学校校長で、音楽取調掛の任にあった伊澤修二は、明治十四(一八八一)年五月二十四日東京女子師範学校に皇后が行啓した折、次のような「唱歌略説」を書いている。「此歌は稲垣千穎の作にして学生等が数年間勤学し蛍雪の功をつみ業成り事遂げて学校を去るに当り別れを同窓の友につげ将来国家の為に協力戮力せん事を誓う有様を述べたるものにて卒業の時に歌うべき歌なり。」稲垣を「蛍の光」の作詞者として特定するこの記事は、同時にこの歌と卒業式とを分かちがたく結びつけたマニュフェストともなった。

 伊澤修二は、明治四十四(一九一一)年自らの還暦を記念して『楽石自伝教界周遊前記』を口述し、翌年五月に出版した。その中で、音楽取調掛時代を次のように回想している。「右の如くにして言葉も大概は出来、かつ取調べた曲もようやく増加したからして、今度はこれに日本国語の唱歌を附することとしたが、これは非常な大問題であって、単に歌を作るといふことさへ容易では無いのに、取調掛の要求では、なお又曲意に合した歌を作るといふのみならず、句数字数が合はなければ、折角作歌者がいかなる名歌を作つても何の役にも立たぬ。その最得意とする好所をも改作しなければならぬのである。そこで歌も作る曲意も解る、句数字数も自在に変化し得るという作歌者を得る必要が起こった。しかして最初に盡力してくれた人は稲垣千穎氏である。此人は惜しいことに最早故人となってしまつたが、歌が上手で随分多くの氏の作にかかる歌がある。」

 かつて音楽取調掛として労苦を共にした稲垣に対する敬意と哀惜に満ちた言葉である(実はこの時稲垣はまだ存命中であったのではあるが…)。音楽取調掛で作詩をもっぱら担当した稲垣千穎は、当時東京師範学校の和文学・史学の助教諭でもあった。現在鎌倉に住む曾孫鎌田昶壽氏によれば、稲垣家は武州川越藩右筆(書記役)の家柄であり、千穎は和漢の教養を持つ正統派の歌人・国学者であった。音楽取調掛に任命されるまで、西洋の学問やキリスト教に触れた形跡はない。同じ初期の唱歌作者の里見義が、九州小倉(豊津)藩の国学者でありながら、大橋洋学校で洋学者とともに教え、築地居留地でキリスト教に触れる経歴を持っているのとは対照的である。(稲垣千穎の経歴については、CD『螢の光のすべて』キングレコード、2002の解説を参照していただきたい。) ここで「蛍(蛍の光)」の歌詞を確認しておこう。

蛍の光 窓の雪 書よむ月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を 明けてぞ今朝は 別れゆく

とまるも行くも 限りとて かたみに思う ちよろづの 心のはしを 一言に さきくとばかり 歌うなり

筑紫のきわみ みちのおく 海山とおく へだつとも その真心は へだてなく ひとつに尽くせ 国のため 

千島のおくも 沖縄も 八洲のうちの 守りなり 至らんくにに いさおしく つとめよわがせ つつがなく

  学校の卒業式と分かち難いイメージの「蛍(蛍の光)」の歌詞を正確に理解するためには、当時の学校と卒業式についていくつかの前提を押さえておく必用がある。教育史の研究者によれば、我々の知る近代小学校のイメージが成立したのは、おおむね明治二五(一八九二)四月の第二次小学校令施行以後だといわれる。それ以前は、学年は四月始まりではなく、九月に開始、翌七月に終了することが多く、一年を前期・後期の二つに区分することが普通だった。また同一学齢の児童が一定期間を同じ学級で学ぶという年限主義のシステムではなく、小学生ですら学期末毎に厳しい試験があり、それに合格した者のみが進級・卒業するという課程主義がとられていたのである。したがって、当時は卒業証書も三か月から半年の一課程修了毎に授与されていたのであった。とはいえ、当時学校儀式としての入学式、卒業証書授与式(卒業式)は、まだ多くの学校で定着しておらず、明確な学年暦すらもなかった。(寺崎昌男他『学校観の史的研究』野間教育研究所、1972)つまり、「蛍の光」を歌うべき卒業式自体が、未発達だったのである。

 では、伊澤修二が「唱歌略説」でその意義を説き、稲垣千穎が明確な方法意識を持って作詞をした「蛍(蛍の光)」という楽曲は、どのような卒業式のために書かれたのであろうか。とりもなおさずそれは、第一義的に、伊澤がかつて校長をし、稲垣が教鞭をとっていた東京師範学校、ならびに東京女子師範学校の卒業式のためのものであった。当時の官立の師範学校は、小学校教諭の養成のためのものというより、むしろ地方にどんどん設立されつつあった公立の師範学校の教員を養成する機関であって、多くの学生は地方から派遣された(派出生徒と言う)エリート集団であった。しかし、在学中は給与が支給され、将来が約束されたそのエリート集団を持ってしても、なお西洋流の学問の修得は困難を極め、原級留置者、退学者が後をたななかったといわれる。めでたくその師範学校での課程を終了し、国家から教師としての資格を付与されて日本の隅々に散ってゆく若き教師達のために、国家は卒業式に天皇・皇后臨席の栄誉を与えたのである。つまり、卒業式の儀式化は、まず師範学校ではじまり、その後、華族女学校など都市部の上層階級師弟の学校に急速に拡がっていったのであった。

 稲垣が、音楽取調掛で唱歌を作詩していた明治十三(一八八〇)年、東京師範学校は、九月十一日に前学期がはじまり、二十五名の新入生を迎えた。翌二月二十三日から始まる後学期で新たに十三名の新入生を迎え、そして後学期が終了した七月十五日、卒業証書授与式が執り行われ二十名の生徒が卒業したと記録にある。(筑波大学図書館蔵『自明治十三年九月至明治十四年九月 東京師範学校一覧』)当時は、前学期終了時にも卒業が出来るシステムであったが、多くの生徒たちは、夏に卒業するものであったのである。

 ここで改めて、後に「蛍の光」と知られるこの歌のタイトルが、『小学唱歌集 初編』に掲載されたときは「蛍」であったことに注目したい。『唱歌掛図』と並行して作成された『小学唱歌集 初編』は、まず楽曲ができて、数次の編纂の過程でタイトルが付けられたのだが、「蛍の光」が歌い出しの一節による命名であるのに対し、「蛍」は和歌の季題(歌題)に準じた命名なのである。夏の卒業式だから、夏の季題「蛍」という曲名なのである。一方、歌い出しの一節を曲名とするのは、明らかに賛美歌の影響だろう。稲垣が歌人・国学者であったことを考えると、自ら作詞した歌に季題風のタイトルをつけるのは当然のような気もするが、唱歌成立の最初期から、賛美歌風のタイトルと季題風のタイトルが混在していたことはもっと注目されてもよい。このような現象は『小学唱歌集 第三編』に掲載された里見義作詞の「菊」が、のちに歌い出しの「庭の千草」と呼ばれるようになったこととも呼応する。私たちは、楽曲のタイトルからも、和歌から唱歌への変化、あるいは唱歌の伝統的和歌世界からの自立のありようを読みとることができるのである。

 ところで、花鳥風月を主な題材として、「徳性の涵養」(伊澤修二による「緒言」)を目指した唱歌であったが、「蛍(蛍の光)」はその枠内に踏みとどまりながらも、学校儀式を強く意識することが運命づけられていたため、他の歌には全く見られないいくつかの特徴が見られる。以下にそれを列挙してみたい。

1 この歌では、一番と三番を卒業生、二番と四番を在校生が歌うという応唱性(劇的構成)が意識されている。こうした応唱性は、同じく卒業式の歌「仰げば尊し」(『小学唱歌集 第二編』)に引き継がれた。この応唱の形式は、学校生活という新しいライフスタイルを表現するために考案されたものであろうが、音楽取調掛のお雇い外国人教師ルーサー・ホワイティング・メーソンが稲垣たちに教えたのか、稲垣の創意なのかは不明である。

2 四番に顕著なように、この歌は女性が学窓を巣立つ男性を送りだすという独自の視点で描かれている。最初期の演奏記録を見ると、唱歌は女子師範学校の生徒や附属小学校の児童が歌っていることが多いことに気付く。当時の時代状況なら「唱歌は女性と子供が歌うものだ。男性が歌うものではない」という偏見があってもおかしくはないだろうが、一面で学校生活における女性のまなざしを歌詞に具象化したという点では大変意義深い。師範学校と女子師範学校という双子の教育機関が設置されて、はじめてなりたつ歌詞ということができよう。しかし、この四番の歌詞は、明らかに『万葉集』の防人歌を下敷きにしており、前線に立つ夫、銃後の妻という単純な図式が見え隠れしている点に、表現の限界を感じざるをえない。

3 この歌では、琉球処分、樺太千島交換条約など、同時代的・政治的な話題を踏まえている。近代国家において、軍人と警察官、そして教師はもっとも重要な国家意志の具現者であった。とりわけ、官立師範学校の卒業生には高いモラールが要求されたのであろう。この歌は、近代教育が、政治の現実からは独立しえないということを決定的に表現している。また、明治日本が帝国主義への道をつきすすむ胎動を感じさせるのである。しかし、ここで一点だけ指摘しておきたいことがある。『小学唱歌集 初編』は、音楽取調掛が作成した原案を文部省に提出し、文部省側が修正意見を付けて回付、再度取調掛が歌詞を練り直して提出するという複雑な作業を数次に渡って行った成果なのだが、その稟議書類が東京芸術大学に保存されている。四番の歌い出し「千島のおくも 沖縄も」は、三番の歌い出し「筑紫のきわみ みちのおく」と明らかに対照させた表現であるが、この構成には、三番で旧来の日本の版図を、四番で最近植民地化した地域を含む帝国日本の版図を遠近法で示そうという意図が見える。千島樺太交換条約によって、北千島全域が日本の領土になったのは、明治八(一九七五)年のこと。また、いわゆる琉球処分によって、琉球王国を日本に強引に編入したのは明治十二(一八七九)年のことであった。稲垣が、音楽取調掛に任命され唱歌の作詞に着手したのは明治十三年のことだから、実に血なまぐさい政治的ニュースを歌に読み込んだことになるのである。このことをふまえた上で、わたしたちが再度四番の歌詞「千島のおくも 沖縄も 八洲のうちの 守りなり」を読むとき、この一節が表現として矛盾を含んで実にわかりにくいことに気づくのである。「千島のおく」と「沖縄」とが「八洲(=日本)のうち」であるという表現ならばわかる。しかし、「千島のおく」と「沖縄」とが「八洲のうちのまもり」であるというのはどういう意味なのか。おそらくは、外敵から「八洲」の内部を守るための前線警護地なのだろうと推察できる。しかし、そうだとしたら、「八洲のうちのまもり」という表現ではとうてい言い表せない概念と内実とを含んでいよう。実はそれにはわけがあった。音楽取調掛が当初文部省に提出した草稿では、この部分は「八洲のそとのまもりなり」となっていたのである。これに対して、文部省の編書課員佐藤誠実(のち『古事類苑』の編纂に携わった国学者)は次のような修正意見をつけている。「『八洲のそとのまもり』という事を、八洲はもともと防衛の拠点であって、蝦夷地と沖縄とは八洲以外の防衛の拠点であるという意味と誤解してしまうために『八洲のほかの』と改めたく思うのである。あなたの説に従うなら『国のとのへのまもりなり』とも『わが大君のまもりなり』としてもよいだろう。そうではあるけれど、あなたの説によれば『内外』を『うちそ』と読むことができることもあるそうなので、もとのままでもよいだろう」。これに対する稲垣の反論は次のようであった「『そ』はもともと『背面』の意味があるのはもちろんであるけれど、『内外』を『うちと』とも『うちそと』とも読むことができる。あなたが非難なさったように『ほか』としては、外国・他国のための守りのように聞こえてよくない。『ほか』と読んでしまうと意味が違ってくるのである。「そと」といっても「中外(うちとそと)」の「外」のことであって、内面に対して『外面』の意味であるから、「そと」でよい。無理に『背面(そとも)』の意味だと考えるのは、少し上代の表現に偏った見方であろう。しかし、無理に『背面』としたとしても『ほか』として「千島」や「沖縄」を自らに関係ないもののようにするよりはよいだろう」。(東京芸術大学蔵『回議書類』通釈:中西)わかりにくい議論を長々と紹介したが、ここで議論されているのは、「国境」の認識と表現をめぐる議論である。当時の音楽取調掛と文部省との応酬は、しばしば現在の教科書検定制度と相似形で語られるが、少なくともこの議論を見る限り、文部省側が高圧的かつ一方的に歌詞の改訂を求めているようには思えない。ありていに言って、双方とも「国境」をきちんと認識できていないから、「うち」か「そと」か、表現が固まらないのであった。最終的に「八洲のうちの」という表現に落ち着いた過程については、残念ながら史料として残されていないが、当時の国学者たち、つまりインテリ層にしてからが、共通認識としての「国家」「国境」を持ち得ていなかったことが、「蛍(蛍の光)」の歌詞からわかるのである。結局、『小学唱歌集 初編』の出版から八年後、明治二十三(一八九〇)年に開設された帝国議会の第一回施政方針演説で、山県有朋首相が、「主権線」「利益線」という政治的言語で「国境」を定義するまで、認識論的混乱は続いたものと考えてよさそうである。明治国家において、政治的現実は、言語による認識にしばしば先行していたわけだが、「蛍(蛍の光)」がその端的な証拠であることを知る人は少ないのではないだろうか。四番の歌詞を見ると、私たちは稲垣千穎を単純なウルトラナショナリストだと判断しかねないが、作詩の現場に立ち戻ってみれば、むしろ非政治的な一国学者の姿が見えてくるのである。

 唱歌「蛍の光」は、このように成立した後、凄まじい速度で全国の学校に拡がっていった。師範学校・女子師範学校、さらに音楽取調掛を卒業した教師達が、目新しい卒業式という儀式とともにこの歌を普及させていったのである。早くも明治二十年代には、新聞の投書で「蛍の光」が巷で歌われていることがとりあげられているし(明治二十年八月二十八日付『読売新聞』)、男子校である第一高等中学校の唱歌演奏会で同校教諭による戯作が発表されていることからも、そのことがわかる。明治日本の急速な近代化の一表象として、社会全体の学校化が進展したのだが、立身出世という実利的目標が、学校儀式と唱歌といういわば新来の都市ファッションにくるまれて植民地を含む日本全土に伝播していったことには注意を払わなければならないだろう。

 第二次世界大戦後、国家主義的な三番・四番の歌詞を捨て、小学五年生の検定教科書に掲載されるようになってからも、この曲が文部省学習指導要領の共通教材(各社の教科書が必ず取り上げなければならない楽曲)に指定されたことは一度もない。小学五年生の教科書の最終ページに、「君が代」とともに、あくまでもさりげなくこの歌が掲載されていたことを記憶されている方も多いはずである。にもかかわらず、卒業式と結びついて「蛍の光」は、万人の歌いうる特別な歌という位置を占めることとなった。その意味で、伊澤修二の目論見、稲垣千穎の方法意識は、彼らの意図をはるかに越えて成就したと言ってよかろう。 数年前に亡くなった稲垣のただひとりの孫鎌田史江氏は、しばしば自らの子供たちに「蛍の光」を四番まで歌って聞かせていたと言う。稲垣千穎の孫であることに誇りを持ち、教師の妻として七人の子供を育てた彼女が、しかし「蛍の光」の作詞家として稲垣の名を声高に主張したことはなかったようだ。このことも、「蛍の光」の裏面史として記憶されてしかるべきだし、まただからこそ歌い継がれる唱歌の力を強く感じるのでもある。 以上、唱歌・賛美歌の歌詞研究の立場から「蛍の光」について若干の考察をしてみた。作詞家稲垣千穎に寄り添い、作詞の現場に近づくことで、この曲を歴史の中で定位しなおしてみるという試みである。楽曲“Auld Lang Syne”と賛美歌との関係について、本稿では全くふれることが出来なかったが、安田寛・手代木俊一・大塚野百合氏らの優れた先行研究をふまえつつ、他日を期したいと思うものである。

『REED ORGAN RESERCH』No.3 日本リードオルガン協会 2002

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