コミュニケーションとしてのテスト
授業前に、生徒が予習で作成してきた全文解釈の添削をしていることはすでに書いた。校舎によって温度差はあるが、朝早くから競うようにして全文解釈を持参する生徒が日々多くなっている。とてもよい傾向だと思う。ただし、僕の負担は極端に増えた。恐らく、朝八時から九時までの一時間で余裕をもって見ることが出来る量は、七、八人分だろうと思う。しかし、ここ数週間は二十人以上の生徒が持ってくるようになった。眠気を払い、ほんとうに集中してやっとこなせるかこなせないかの量で、僕は危ない綱渡りを日々続けている。二学期になると、例年参加人数が増えるものだが、今年は一学期から異常な盛り上がりを見せ、とりわけ成績がやや低いクラスの頑張りが目立つ。彼らにはスロースターターが多いのだが、添削を通じて教師がコミュニケーションをとることにより、彼らをCheer up !することができているとすれば、もうそれ自体すてきなことだと思いたい。なにしろ彼らにとって勉強の習慣をつけることがいちばん大切なことだからだ。
僕は、事前に、テキストを拡大コピーした添削用のプリントを配布している。なにもそこまでしやらなくても…そればかりか、そこまでしたら生徒の自主性を損なう…という批判の声も聞こえてきそうだ。だが考えてみたら、全文解釈は、生徒にとっては最もいやなことのひとつなだから、最初のハードルをなるべく低くしてやる工夫は必要なのだと僕は考えている。学習支援のために、こちらがひとてまかけると生徒にもその思いが伝わって、無理難題に挑戦しようとする。そしてさらに、二回目以降の継続率が格段に高くなるのである。受験勉強もスポーツと同じで、たった一回の挑戦ではほとんと効果がない。三ヶ月間継続してやっと力がついてきたと実感できるはずなのである。だから、的確な評価コメントで小さな感動を味わせ、また次週やってみようと思わせなければ、教師たる僕自身の負けなのだ。それに、同じ答案用紙を用いなければ、大量の添削を短時間ですませることはできない。目が慣れないと一枚一枚にとても時間がかかるからだ。古文を、一語一語的確に現代語に置き換える「逐語訳(ちくごやく)」を奨励している以上、本文の横に訳をつけてゆくやり方はゆずれない。そうした勉強法を徹底して教えるのも、僕たちの仕事だと思っている。
しかし、添削というパーソナルサービスはほんの一握りの生徒だけを対象としているのも事実。僕は、より多くの生徒たちとのコミュニケーションを目指して、全クラスで今年から新しい試みを始めた。なんということはない。授業内での小テストの実施である。しかし、90分の授業時間の最初の10分を小テストに割くいうのは、授業運営上簡単なことではない。とりわけ、文法などの知識をまとめて教えなければならない一学期においては、至難のわざである。しかし、僕はあえてその実施に踏み切ったのだ。理由は簡単である。去年、僕の授業はとても難しい…と何人かの生徒が言っていたと聞いたからである。直接言ってくるものもいたし、同じ生徒を担当する他教科の講師が教えてくれたこともあった。なによりも、授業アンケートがその沈黙するマジョリティの本心を伝えていたのである。僕は、教えるべきことを教えていたつもりだった。ここまでこないとこの大学へは入れない…予備校講師はそう教えなければならないと信じていた。経験をつんで、文法にしても単語にしてもあらゆる知識が重厚になっていた。繊細に知識と知識を組み合わせなければ本文を誤読してしまうということの怖さもわかってきていた。だから、ひとりでに、僕自身についてこない生徒はダメだというメッセージを発していたのかもしれい。つまり、僕は完全に閉じていたのである。教師が閉じていては生徒はとりつく島もない。それでは教師としての自分が終わっている、このままではだめだと思ったのである。まず、自分自身が開かなくては…。
だから、一学期の最初の授業に「僕に君たちのことを教えてほしい」といっていきなりテストをした。そして、これからも毎回テストを続けると伝えた。僕の所属する予備校では、毎講のプリントはB4両面一枚と制限されている。また、僕自身が全員の採点をすることは事実上不可能である。ましてや、答案の返却ができない。そこで、毎回10~15問のテストは、配布プリントの最後部にすり込み、すべての設問にチェックボックスをつけた。生徒は、僕の解説を聞きながら自己採点をする。そして、間違えた問題だけにチェックをつけ、解答用紙として準備したB5番の紙だけを僕に提出させるようにした。そうすれば、お互いに記録が残る。そして、記憶にも残る。
僕は毎週生徒たちにこう言ってきた。「このテストは、君たちが高校時代にやってきた…ほら、朝テストってあるでしょ…あれとは根本的に違うテストだから…。先生が参考書の何ページから何ページまでって決めて、君らがそれを一生懸命覚えて、そして終わったらほとんど忘れてしまう。あれは、お互いに自己満足なんです。なにかやってないと心配でたまらない、そういう不安感の裏返しです。でも不思議なほど役にたたない。今年は気休めはやめましょう。僕は、この小テストも、大学入試も、結局コミュニケーションだと思っているんです。出題者には出題の意図がある。君たちになにを学んでなにを覚えておいてほしいか明確なメッセージを送ってきています。その問いかけに君たちは応えてゆけばいい。問いかけのない問題はつまらない。そんなのはほっておけばいい。まず、君たちが、問いかけに対し感じ理解する力をつけなければなりません。そして、自分がどれほどそれについて理解しているか、答案で精一杯アピールしなければならないんです。それが理想の入試です。出題者と受験生の間でコミュニケーションが成り立つ。そうすれば、絶対に君たちは合格できるんです。僕の小テストは、その練習の意味もある。だから、ひとつひとつの問題について、出題の意図を話してゆきます。なぜ10問をこう配置し、なぜこの選択肢をここに置いたのか説明します。君たちは、そこをこそよく聞いていてください。そして、解答があったからといって喜んではいけない。人は間違いからしか学ばないものです。間違いをよろこびなさい。間違いが見つかってよかったと思いなさい。そして、二度と同じ間違いをしないようにしようと誓いなさい。そして、今週の君たちの勉強がどこまでできているか、僕たち教師の教えてください。君たちがあまりにもできないことには、はやめに何か対策をとります。では、頑張ってください」。僕は首からかけたストップウォッチを押し、時間を計測する。あと何分…もうすぐだよ…と追い込む。スポーツと同じようなタイムトライアルの感覚を匂わせるのはただの演出だが、生徒たちが非常に真剣にテストに取り組む様子を見ていたら、これも彼らにとっては楽しみなのだと思えるようになった。イチローも言っている。小さな目標を達成したら喜ぶ…その喜びがモチベーションとなって次の目標に立ち向かう。それは受験勉強にも通じることだ。ひとつできるようになったら、もうひとつハードルを加える。少しずつだが、確実に学習は進んでゆくのである。
驚いたことに、今の生徒たちはテストが大好きだ。テストを受けるために遅刻がなくなった。受けるときの顔つきがいい。間違えたときくやしそうにする表情がもっといい。授業のときにもこの緊張感を保ってくれ…と思うような生徒さえいる。これは僕にとってほんとうに意外なことだった。僕はかつて小テスト否定派だった。いまでも必ずしもベストな道だとは考えていない。しかし、彼らがそれほどまでに好きなのなら、テストのありかた、質をかえてゆくことで、実質的な効果をあげてゆくことができるのも事実である。同じことをやっていたのに、去年と今年ではまったく効果が違う。そう彼らの思わせることができたら、僕の努力も甲斐があったというべきだろう。それは十分におもしろい挑戦なのである。
僕は彼らの答案をチェックして、大多数が間違えたテーマについては「サプリ」という補助プリントを出してフォローアップをしている。なかなかひとりで質問にこられないシャイな生徒は、補助プリントのドリルと解答で、少しだけ余分に苦手なポイントの演習をする。それで、少しでも自信をつけてくれればよいと思っている。
僕自身、こうしたビジネス(=エデュケーショナル)モデルはすぐに陳腐化すると思っている。もともと、添削にしても小テストにしても存在したものだし、その運用の仕方を考えただけでは、実効性において限界を感じること日も近いに違いない。ただ、今年の僕にとってよかったことは、生徒とのよりよいコミュニケーションをとる方策を真剣に考えたことで、自分が開いていけたこと。自分の教え方をかえることにためらいを覚えなくなったこと。そして、これからは不断にかわりつつけなければならないと知ったこと、これは大きな財産となり自信となった。考えたらビジネスの世界ではあたりまえのこと…つまりイノベーションに取り組んでいるだけなのだが、教育の世界では古い価値あるインターフェイスを再評価することもイノベーションにつながるのだと理解しつつある僕だ。やはりこの仕事はおもしろい。
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