最近のトラックバック

« 中村哲さんのこと | トップページ | コミュニケーションとしてのテスト »

2006年6月30日 (金)

「蛍の光」と岩波文庫の権威

前回の更新からあっというまに一月が過ぎてしまった。一学期も中盤に入り、ますます授業の準備に追われるようになったこと、健康を維持しているとはいえ疲労が蓄積してきて集中力が落ちてきたことなどが、更新をさぼった原因だが、僕自身、自らと向き合い、心のなかを整理するために「書く」という行為の大切さを知っているだけに、この長いブランクは反省に値する。つまりは、この一月、生活に追われ、何事もきちんと考えてこなかったということなのだ。読書の量も極端に減ってしまっている。僕にとって、はき出すだけの生活は非常に危険なのだ。昨日から一週間、定期試験対策のため高校生のクラスが休講となり、日の高いうちに家に帰ってくることができるようになった。昨日はさすがに夕食前から眠りこけていたのだけれど、この週末をこのまま無為に過ごすことはできない。ひさしぶりに部屋の掃除をして、また古典を読み直そう。

岩波書店から刊行されている「新日本古典文学大系《明治編》」の11巻『教科書 啓蒙文集』が昨日出版され、今日横浜の有隣堂で受け取ってきた。サービスコーナーで本を手に取るや、ひらいたページがある。この『教科書 啓蒙文集』には、明治期の「小学唱歌集」の注釈が収められているのだが、僕は迷わず、日本で最初の音楽(唱歌)の教科書「小学唱歌集 初編」の中にある「蛍」(=「蛍の光」)のページを探し当てた。そう、あの卒業式で歌われる「蛍の光」である。文部省唱歌であるこの曲が、御雇い外国人教師メイソンがもたらしたスコットランド民謡であることはよく知られているが、その歌詞の作者は誰か長い間不明であった。教科書の編集にあたった音楽取調掛の誰かであろうと推察されていたのである。最近も雑誌「サライ」(小学館)6月15日号に、CDつきの唱歌の特集があり、「蛍の光」が収められているが、解説には作詞者不詳と書かれている。しかし、それは実は音楽取調掛のひとり、東京師範学校教諭の稲垣千穎(いながきちかい)だと明瞭にわかっていたのである。わかっているのに、なぜ今日まで作詞者不詳となっているかといえば、それは岩波文庫『日本唱歌集』にそう書いてあるからに他ならない。いまだにその注があるために「作詞者不詳」とする書籍・雑誌があとをたたない。古典のかけがえのない恩恵を手軽に僕たちに与えてくれる岩波文庫だが、一面これほど権威となってしまった書物もないといえる。たいていの編集者も研究者もそこで知識を得た気になる。それが習慣化し通念となっててやがて誰も疑いをはさまなくなってしまったのである。

数年前、僕はCD「『蛍の光』のすべて」(キングレコード)の制作に参加させてもらった。そこに稲垣千穎の略歴を書き年譜を作成した。このCDを番組で紹介してくれた日本テレビのスタッフが鎌倉に住む子孫の方を捜してくださり、僕はすぐに鎌倉に会いにいった。子孫の方々は、稲垣千穎が「蛍の光」の作詞者であることを知っており、母がいつも歌を歌っていたと教えてくれた。功名心の少しもないつつましい教師の家系の一族であった。

僕はなんとかしてこの事実を多くの方に知ってもらいたいと思い、岩波書店に手紙を書いた。CDと資料を同封し、岩波文庫の注を改訂してくださいとお願いしたのである。しばらくして返事をくださったのは、「新日本古典文学大系《明治編》」担当の編集者の方だった。この書物に「蛍の光」の注釈が入るから、そこで検討させていただきたい。ついては、担当の先生に資料をお渡しするから…そう丁寧に書かれていた。結論をいえば、今回の注釈ではじめて。「蛍(=蛍の光)」の作詞者として稲垣千穎の名前が明記されることとなった。僕はほんとうにうれしかった。これで変わるかもしれない…と思う。いやらしい話だが、岩波書店の本はそれほどに権威があるのである。でも…岩波文庫が改訂されるまでは、大きな変化はないかもしれない。編者がなくなった今、容易に改訂できないのかもしれないが、なんとか訂正を働きかけてみたい。そう誓う僕なのだ。つまらないことと思われるかもしれない。しかし、ほとんどすべての日本人が知っている歌の作詞家なのである。僕はこのひとりの市井の学者を歴史から抹殺するわけにはいかないのだ。今回、注釈に明記してくださった倉田善弘先生に心からの敬意を表するものである。

遠藤宏著『明治音楽史考』(昭和22年)は、明治初期の西洋音楽の歴史を考えるうえでの基本図書だが、おそらくこの名著に「蛍の光」の作詞者が明記されなかったことから、ことははじまっている。遠藤は、音楽取調掛長であった伊沢修二が残した書物・原稿を、長野県伊那の実家に発見し、驚愕する。そこには伊沢が書き残した「唱歌略説」という文書があり、唱歌の作曲者や作詞者が克明に書かれていたからだ。明治の初期、卒業式が行われたのは、資格の賦与が行われる師範学校など数校に限られていた。そこには、天皇や皇后が臨席し、壮麗な卒業式が行われる。音楽も演奏される。伊沢はその解説を書き、出席者に渡した。そしてそれはただちに新聞記事となったのである。稲垣にとって運が悪かったのは、遠藤の発見した「唱歌略説」の、その演奏会では、「蛍の光」は器楽合奏で、演奏されたことだった。インストゥルメンタルな楽曲の解説に、作詞者を書く必要はなかった。今日僕たちは、整理された明治期の新聞記事を読むことができるが、別の日の「唱歌略説」には、作詞者として稲垣の名前がクレジットされていたのである。しかし、遠藤の書物が権威化するにつれて、「蛍の光」の作詞者は不詳という常識を生んでいったものと思われる。ちょっと恐ろしい話である。

もうひとつ。昭和三十年代に当時の文部省が、著作権がはっきりしていいなかった文部省唱歌の作曲者・作詞者について大規模な調査をしたことがある。その時に、「蛍の光」の作詞者は稲垣千穎と確定していた。その証拠に、昭和三十年代後半の音楽教科書には、ちゃんと彼の名前がクレジットされている。日本の小学校でもっとも広く使われている音楽の教科書は芸術教育社のものだが(僕もそれを使った)、小学校五・六年の教科書の最終ページに、「君が代」とともに掲載されたこの曲を覚えておられる方も多いに違いない。そこには、稲垣の名前が明記されていたのである。この教科書の編者と、岩波文庫「日本唱歌集」の編者は同じ学者である。それなのに、岩波文庫のほうはついに改訂されることがなかったのはなぜだろうか。意図的に無視したのではあるまい。きっと、音楽家は作詞者の確定などには興味がなかったのだろう。そんなものなのかもしれない。でもそのおかげで、稲垣千穎はいまでも無名のままなのである。

大晦日の紅白歌合戦のフィナーレは、今でも「蛍の光」だが、数年前から稲垣の名前がクレジットされている。是非今年の大晦日には御覧になっていただきたい。少しずつ状況はかわりつつあるのだ。

「蛍の光」については話がつきない。実は、パブリッシュしてくれる出版社はすでに決まっているのだが、僕が忙しさにかまけて書けていないのである。でも、今日情熱の炎がまた燃えだしたのを感じている。権威に負けず、歴史の真実に迫りたい。それが、臨床歴史家のやり方である。頑張るぞ!

« 中村哲さんのこと | トップページ | コミュニケーションとしてのテスト »

唱歌・讃美歌」カテゴリの記事

コメント

「蛍の光」の作詞者についての記述を、たいへん興味深く拝見しました。その中に、
「別の日の「唱歌略説」には、作詞者として稲垣の名前がクレジットされていたのである。」
という記述がありますが、私が東京藝術大学附属図書館のサイトで見た「唱歌略説」には、「蛍の光」の作詞者として、稲垣千かいの名前が出ていなかったのですが、もしお分かりでしたら、記述してある場所を教えて頂けないでしょうか。
また、今日、『新日本古典文学大系・明治編』の「蛍の光」の脚注を見てきましたが、
「稲垣千かい作詞」と出ているだけで、残念ながら、何によってそう判断したのかは、記述がありませんでした。
長い間、作詞者不詳とされていたものだけに、倉田喜弘先生には、はっきり判断の根拠を示していただきたかった、と思いました。
以上、感想がてら、お願い申し上げます。

M.asamori さま
もう二年近くも休んでいる私のブログをご覧くださいましてありがとうございます。私の怠慢のため著書の執筆が大幅に遅れております。お許しください。
さて、ご質問につきまして私の知ることをできるだけ詳細お知らせいたします。
まず、この記事にも書きましたように、「唱歌略説」は伊沢修二の特定の書物の名前ではありません。現在でもクラシックの演奏会に行きますと、曲目解説のパンフレットが配られますが、伊沢は明治初期からそれを実践しておりまして演奏会のたびに「唱歌略説」を書いておりました。つまり、一般名詞のようなもののわけです。現在東京芸術大学付属図書館のサイトで公開され、M.asamori さんが御覧になりました資料は、そのうちのひとつで1882年のものです。そして、この時の演奏会では、「蛍の光」は器楽合奏だけで演奏されております。これが、遠藤宏氏が最初に発見した「唱歌略説」でございます。しかし、この「唱歌略説」は、演奏会後に新聞に発表されておりました。この頃の新聞は、天皇をはじめ皇族の動静を忠実に伝えるものでしたから、師範学校などで天皇・皇族の臨席があったときには、必ず演奏曲目と「唱歌略説」が掲載されました。私が根拠とするのは、明治十四(一八八一)年五月二十四日東京女子師範学校に皇后が行啓した折の記事です。これは「読売新聞(1874創刊)」に掲載されております。そこに次のような記述がございます。「此歌は稲垣千穎の作にして学生等が数年間勤学し蛍雪の功をつみ業成り事遂げて学校を去るに当り別れを同窓の友につげ将来国家の為に協力戮力せん事を誓う有様を述べたるものにて卒業の時に歌うべき歌なり。」もしご興味があれば、読売新聞はすべてデータベース化されているようですから、御覧になってください。最も簡単にアクセスする方法は、東京神谷町にあります「日本近代音楽館」のデータベース「明治の音楽」をおあたりください。こちらには、当時の読売新聞がすべてマイクロフィルムで所蔵されており、閲覧することが可能です。
お役にたてば幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
このあたりのことを詳述した、小論「研究ノート 蛍の光」をのちほど、ブログの先頭にアップさせていただきます。そちらもよろしければご覧くださいませ。

中西光雄様
ご丁寧なお答えをいただき、恐縮に存じます。ありがとうございました。
よく分かりました。「研究ノート 蛍の光」も一応読ませていただきましたが、後でもう一度ゆっくり読ませていただきます。
実は昨日(3月21日)、筑波大学附属図書館に出かけまして、そこで「CD 蛍の光のすべて」の冊子から解説をコピーさせてもらってきたのですが、迂闊なことに、このブログが「『蛍の光』の作詞者 稲垣千穎」をお書きになった中西様のブログなのだということに、今お礼のコメントを書こうとして、初めて気がついたような次第です。
どうも我ながらそそっかしくていけません。
そして、その「『蛍の光』の作詞者 稲垣千穎」の文章がここに再録されていることも、今日分かりました。
これから、中西様の「蛍の光」に関係した文章を、丹念に読ませていただかなくては、と思っております。
本当にありがとうございました。今後ともよろしくご指導くださいますよう、お願い致します。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/174509/10738961

この記事へのトラックバック一覧です: 「蛍の光」と岩波文庫の権威:

« 中村哲さんのこと | トップページ | コミュニケーションとしてのテスト »

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

twitter