最近のトラックバック

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月

2006年6月30日 (金)

「蛍の光」と岩波文庫の権威

前回の更新からあっというまに一月が過ぎてしまった。一学期も中盤に入り、ますます授業の準備に追われるようになったこと、健康を維持しているとはいえ疲労が蓄積してきて集中力が落ちてきたことなどが、更新をさぼった原因だが、僕自身、自らと向き合い、心のなかを整理するために「書く」という行為の大切さを知っているだけに、この長いブランクは反省に値する。つまりは、この一月、生活に追われ、何事もきちんと考えてこなかったということなのだ。読書の量も極端に減ってしまっている。僕にとって、はき出すだけの生活は非常に危険なのだ。昨日から一週間、定期試験対策のため高校生のクラスが休講となり、日の高いうちに家に帰ってくることができるようになった。昨日はさすがに夕食前から眠りこけていたのだけれど、この週末をこのまま無為に過ごすことはできない。ひさしぶりに部屋の掃除をして、また古典を読み直そう。

岩波書店から刊行されている「新日本古典文学大系《明治編》」の11巻『教科書 啓蒙文集』が昨日出版され、今日横浜の有隣堂で受け取ってきた。サービスコーナーで本を手に取るや、ひらいたページがある。この『教科書 啓蒙文集』には、明治期の「小学唱歌集」の注釈が収められているのだが、僕は迷わず、日本で最初の音楽(唱歌)の教科書「小学唱歌集 初編」の中にある「蛍」(=「蛍の光」)のページを探し当てた。そう、あの卒業式で歌われる「蛍の光」である。文部省唱歌であるこの曲が、御雇い外国人教師メイソンがもたらしたスコットランド民謡であることはよく知られているが、その歌詞の作者は誰か長い間不明であった。教科書の編集にあたった音楽取調掛の誰かであろうと推察されていたのである。最近も雑誌「サライ」(小学館)6月15日号に、CDつきの唱歌の特集があり、「蛍の光」が収められているが、解説には作詞者不詳と書かれている。しかし、それは実は音楽取調掛のひとり、東京師範学校教諭の稲垣千穎(いながきちかい)だと明瞭にわかっていたのである。わかっているのに、なぜ今日まで作詞者不詳となっているかといえば、それは岩波文庫『日本唱歌集』にそう書いてあるからに他ならない。いまだにその注があるために「作詞者不詳」とする書籍・雑誌があとをたたない。古典のかけがえのない恩恵を手軽に僕たちに与えてくれる岩波文庫だが、一面これほど権威となってしまった書物もないといえる。たいていの編集者も研究者もそこで知識を得た気になる。それが習慣化し通念となっててやがて誰も疑いをはさまなくなってしまったのである。

数年前、僕はCD「『蛍の光』のすべて」(キングレコード)の制作に参加させてもらった。そこに稲垣千穎の略歴を書き年譜を作成した。このCDを番組で紹介してくれた日本テレビのスタッフが鎌倉に住む子孫の方を捜してくださり、僕はすぐに鎌倉に会いにいった。子孫の方々は、稲垣千穎が「蛍の光」の作詞者であることを知っており、母がいつも歌を歌っていたと教えてくれた。功名心の少しもないつつましい教師の家系の一族であった。

僕はなんとかしてこの事実を多くの方に知ってもらいたいと思い、岩波書店に手紙を書いた。CDと資料を同封し、岩波文庫の注を改訂してくださいとお願いしたのである。しばらくして返事をくださったのは、「新日本古典文学大系《明治編》」担当の編集者の方だった。この書物に「蛍の光」の注釈が入るから、そこで検討させていただきたい。ついては、担当の先生に資料をお渡しするから…そう丁寧に書かれていた。結論をいえば、今回の注釈ではじめて。「蛍(=蛍の光)」の作詞者として稲垣千穎の名前が明記されることとなった。僕はほんとうにうれしかった。これで変わるかもしれない…と思う。いやらしい話だが、岩波書店の本はそれほどに権威があるのである。でも…岩波文庫が改訂されるまでは、大きな変化はないかもしれない。編者がなくなった今、容易に改訂できないのかもしれないが、なんとか訂正を働きかけてみたい。そう誓う僕なのだ。つまらないことと思われるかもしれない。しかし、ほとんどすべての日本人が知っている歌の作詞家なのである。僕はこのひとりの市井の学者を歴史から抹殺するわけにはいかないのだ。今回、注釈に明記してくださった倉田善弘先生に心からの敬意を表するものである。

遠藤宏著『明治音楽史考』(昭和22年)は、明治初期の西洋音楽の歴史を考えるうえでの基本図書だが、おそらくこの名著に「蛍の光」の作詞者が明記されなかったことから、ことははじまっている。遠藤は、音楽取調掛長であった伊沢修二が残した書物・原稿を、長野県伊那の実家に発見し、驚愕する。そこには伊沢が書き残した「唱歌略説」という文書があり、唱歌の作曲者や作詞者が克明に書かれていたからだ。明治の初期、卒業式が行われたのは、資格の賦与が行われる師範学校など数校に限られていた。そこには、天皇や皇后が臨席し、壮麗な卒業式が行われる。音楽も演奏される。伊沢はその解説を書き、出席者に渡した。そしてそれはただちに新聞記事となったのである。稲垣にとって運が悪かったのは、遠藤の発見した「唱歌略説」の、その演奏会では、「蛍の光」は器楽合奏で、演奏されたことだった。インストゥルメンタルな楽曲の解説に、作詞者を書く必要はなかった。今日僕たちは、整理された明治期の新聞記事を読むことができるが、別の日の「唱歌略説」には、作詞者として稲垣の名前がクレジットされていたのである。しかし、遠藤の書物が権威化するにつれて、「蛍の光」の作詞者は不詳という常識を生んでいったものと思われる。ちょっと恐ろしい話である。

もうひとつ。昭和三十年代に当時の文部省が、著作権がはっきりしていいなかった文部省唱歌の作曲者・作詞者について大規模な調査をしたことがある。その時に、「蛍の光」の作詞者は稲垣千穎と確定していた。その証拠に、昭和三十年代後半の音楽教科書には、ちゃんと彼の名前がクレジットされている。日本の小学校でもっとも広く使われている音楽の教科書は芸術教育社のものだが(僕もそれを使った)、小学校五・六年の教科書の最終ページに、「君が代」とともに掲載されたこの曲を覚えておられる方も多いに違いない。そこには、稲垣の名前が明記されていたのである。この教科書の編者と、岩波文庫「日本唱歌集」の編者は同じ学者である。それなのに、岩波文庫のほうはついに改訂されることがなかったのはなぜだろうか。意図的に無視したのではあるまい。きっと、音楽家は作詞者の確定などには興味がなかったのだろう。そんなものなのかもしれない。でもそのおかげで、稲垣千穎はいまでも無名のままなのである。

大晦日の紅白歌合戦のフィナーレは、今でも「蛍の光」だが、数年前から稲垣の名前がクレジットされている。是非今年の大晦日には御覧になっていただきたい。少しずつ状況はかわりつつあるのだ。

「蛍の光」については話がつきない。実は、パブリッシュしてくれる出版社はすでに決まっているのだが、僕が忙しさにかまけて書けていないのである。でも、今日情熱の炎がまた燃えだしたのを感じている。権威に負けず、歴史の真実に迫りたい。それが、臨床歴史家のやり方である。頑張るぞ!

2006年6月 4日 (日)

中村哲さんのこと

もう二週間前のことになるが、僕の勤務する予備校に、アフガニスタンで医療活動をしておられる中村哲さんが講演に来てくださった。中村さんは福岡出身で、支援組織「ペシャワール会」も福岡に本部がある。そんなわけで、福岡の校舎では何度か講演をしてくださっているが、東京でははじめて…。毎週、福岡から出講している世界史の講師Aさんが司会をつとめた。

僕は、中村さんの講演を二度ほど聴いている。京都の論楽社という民間教育の場。友人の虫賀宗博さんと上島聖好さんが開いた志の高い「学校」で、現在も定期的に講座と月例会を開いている。僕はこのふたりの友人から、ただならぬ迫力のメッセージをもらったときには、素直にその言葉の力に従って京都まででかけることにしていた。そして、そうしたときには、このうえなく豊かな出会いがあった。中村さんもそのように出会った人のひとりである。眼の奥でほほえみながら、とつとつと博多弁で話す中村さんの言葉には、理想に燃える詩人の情熱と、戦場で人の生死を直接見つめる冷厳な現実家の冷静さが同居し、民家の広い座敷を隙間なく埋めた数十人の聴衆を魅了した。なによりも、自らの命を危険にさらしながらも、誰よりも人生を楽しんでいるようであった。そして、戦火と干ばつにさらされるアフガニスタンの現実から、現代の日本社会を鋭く撃つ舌鋒は、厳しくさわやかだった。僕は十数年前、福岡の校舎に二年ほど出講していたことがある。その時に教えた生徒の父親が、中村さんをはじめてパキスタン(アフガニスタンの隣国)に誘った登山家で(なんと当初は蝶の採集が同行の目的だったそうである)、そんなこともあって特別な親近感をいだいていたりもするのだ。

中村さんの現地での活動は、はじめはハンセン氏病の治療だったが、今や医療活動に留まらない。未曾有の干ばつにみまわれたアフガニスタンに灌漑をほどこし、緑の農地を復活させ、難民たちに定住を促している。それは、かつて自給自足の生活をしていた誇り高いアフガニスタンの人々に矜持を取り戻させる活動ですらある。このあたりの活動については中村さんの『アフガニスタンで考える 国際貢献と憲法九条』(岩波ブックレット)を参照していただきたい。現地の人々でもメンテナンスができるように、江戸時代に筑後川で使われていた「蛇籠」の技法を学び、現地の人々に教えて灌漑を完成させるくだりは圧巻で、国際貢献にはお金ではなくいかに卓越した知恵が必要か教えてくれる。

予備校の講演会には、300人以上の聴衆がやって来て、最前列は床に座り、数十人が立ち見をした。聴衆は予備校生だけではなく、大学生、そして社会人もいた。そして、全ての人々が、真実の言葉を求めてやってきていた。中村さんが、スライドを用いてアフガニスタンのリポートをしたあと、質疑応答の時間に入ると、最初こそ遠慮がちだったものの、やがて手がとめどなく挙げられ、収拾がつかなくなるほどだった。それぞれが中村さんの言葉に導かれ、深く思考していたのである。中村さんは言う。「お金があれば、物があれば便利で幸せという考え方は間違いなのです。今の日本は、みなが物を持ちすぎている。便利になりすぎている。それでみんなが不幸だ、不幸だと言っている。アフガニスタンの子どもたちは、親がいなくても、今日の食べ物に困っていてもみんな明るい。そのことを知っておいてください」と。

司会のAさんが、今度NHKで中村さんの番組がありますと紹介した後、テレビ制作会社に勤務するという女性がこんな質問をした。「先生は、さきほど講演の中で、日本のマスコミに対して批判的なことを述べておられました。戦火や干ばつのことについて真実を伝えていないということです。その先生が、どうして今回日本のマスコミの番組を受けられたのか是非教えてください」。詰問する口調ではなかった。彼女自身のために聞いておきたかったのだろう。「それは、とてもよい質問ですね。私は、現在の日本を批判しましたけれども、今あるものをすべて否定しようとは思わない。例えば、新幹線は使います。メディアにも問題はたくさんありますけれども、しかし、現場にゆくと、高い志をもった人がたくさん働いています。そういう人々は、いろいろな制限の中で葛藤しながら、しかし、なんとか真実を伝えよう、日本のマスコミをよくしようと考えています。私は、そのように考え続けることこそが大切だと思います。志を捨てないことです。そういう方とは一緒に仕事をしたいと思います。そして、そういう番組を通じて私たちのしていることを多くの方々に知ってもらいたいと思っています」。

その番組を紹介したい。

 NHK 知るを楽しむ この人この世界 

  アフガニスタン・命の水を求めて ある日本人医師の苦闘 中村哲

 教育テレビ 2006年6月、7月

  月曜日午後10:2510:50 全8回

  (再放送 翌週月曜日 午前5:055:50

  第一回は6月5日「アフガニスタンという国で」。

 なお、テキストも日本放送出版協会から発行されており書店で入手可能である。

NHK http://www.nhk.or.jp/shiruraku/

ペシャワール会 http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

論楽社 http://blog.rongakusha.com/

父と子

タイガー・ウッズが、ツアーを欠場している。父のアール・ウッズ氏が、5月3日にがんで亡くなり、その悲しみと闘っているからだ。タイガーが、幼い頃から父の手ほどきを受けてゴルフをはじめ、現在のスーパースターの地位を築いたことはよく知られている。スポーツ界では今や常識の親子鷹の典型である。日本のスポーツ界では、イチローをはじめ、宮里藍、横峰さくら、亀田兄弟など、活躍中のトップアスリートの多くが、父の影響を強く受けてスポーツをはじめ、最初のコーチは父親であった。また松井秀喜も、コーチではないものの父との精神的な関係がたいへん深いといわれる。マスコミがそう喧伝するからかもしれないが、今や父親の直接的な関与がなければ、アスリートは生まれないといった勢いだ。自らも父親である僕は、自分とふたりの息子たちとの関わりをふりかえり、内心忸怩たる思いになる。僕など、未だに自己実現のあり方について思い悩むことが多く、残り少なくなった自分の可能性に未練たらたらなのである。いわゆる「親ばか」には違いないが、息子の音楽のレッスンの送り迎えをするくらいで、アドバイスを与えるどころか彼らのモチベーションをあげることすらできないでいる。

ピーター・シェーファーに、今度はサリエリではなく、モーツアルトの父親の物語を書いてもらいたい。音楽の天才を息子として授かった音楽家の話…。兄弟なら、より豊かな才能を与えられた者に対して嫉妬もしようが、父と子ならどうなのか。どこかで血の連続を感じ、こどもの将来におのれの情熱のすべてをかけるようになるのだろうか。是非、そのあたりの精神の葛藤を描いてもらいたい。世界中の父親に、かけがえのない贈り物になるはずだ。

松尾芭蕉は、最初の文学行脚『野ざらし紀行』の冒頭に次の発句を置く。

 野ざらしを心に風のしむ身哉

 秋十年却つて江戸を指す故郷

二十九歳で、故郷の伊賀上野から江戸に出て十余年、芭蕉は江戸市中に居住し、俳諧師として試行錯誤の日々を送った。大火のために「芭蕉庵」が類焼し深川に居を移す。そして、母の死の報が兄から届いたのは、出立の前年のことであった。その時、芭蕉はすでに四十一歳になっていたのである。「野ざらし」とは髑髏のことだから、彼の精神に母の死が大きく影を落としていたのは確実であり、母への墓参も旅の目的のひとつではあった。だが、旅立ちにあたって、芭蕉はこう宣言する。私の故郷は、伊賀上野ではなく、かえって今宇住む大都会江戸なのだと…。都市生活の中で故郷を喪失し、そして臍の緒を通じてつながった母も死んでしまった。今や江戸が故郷になったとは一種のレトリックで、芭蕉はどこへも帰属せぬ永遠の「旅人」となったのであろう。「死」を意識することで、父母血縁という小さな共同体・人間関係から出て、より広いどこまでも透徹した「人間」観を獲得するという精神のドラマがここにはある。芭蕉の言語表現の凄みは、まさにここにあると僕は思う。

モーツアルトは父の死に衝撃を受け、その悲しみを「レクイエム」に表現した。哀切なすばらしい曲だが、彼はついに父の死を乗り越えることができなかった。タイガー・ウッズはどうだろう。父の死を対象化して、より高次のプレイを僕たちに見せてくれるだろうか。そして、それは彼にとってどんな境地なのだろうか。CNNによれば、先週彼はこどもたちのための教育プログラムを再開し、自らの練習はじめたという。まもなく始まる全米オープンでの彼の活躍を期待したい。

中世のキリスト教の思想家たちは、さまざまな言葉を残している。次の言葉は、歴史家の阿部謹也先生から教えていただいた言葉である。

ある賢者は学びのあり方と形式について尋ねられたとき、こう述べている。「謙虚な精神、探求の熱意、静かな生活、黙々とした吟味、貧しさ、異国の地、これらは往々にして、多くの人々に読解の折の不明を明らかにしてくれるものである」。全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。というのは、他方である人が言うように、「いかなる甘美さで生まれ故郷がなべての人を引きつけるのか、そして自らを忘れ去ることを許さないのかを私は知らない」。修練を積み重ねた精神が少しずつ、これら可視的なものや過ぎ去るものをまず取り換えることを学ぶこと、次いでそれらを捨て去ることができるようになることは徳性の大いなる始源である。祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。第一の人は世界に愛を固定したのであり、第二の人は世界に愛を分散させたのであり、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。

「ディダスカリコン」上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成9サン=ヴィクトル学派』平凡社

道元の思想にも通じるこの言葉は、僕たちにさまざまなことを思い起こさせてくれる。おそらく、親と子、個人と国、などをめぐる情感は地続きで、中世の隠棲者ならぬ世俗的生活を送る僕たちは、現実をきちんと見据えながらも、自分を客観的に見つめることが必要なのだ。親子も、家族も、僕にとってはかけがえのないものだが、だが世界はその論理と感情だけでは解けないだろうと思う。これからも考えてゆきたい。

タイガー・ウッズのオフィシャルサイト

http://www.tigerwoods.com/jp/

モチベーション

木曜日のこと。添削を取りに来た女生徒が、関西のいくつかの大学についての質問をした。入試の傾向と勉強法についてである。最近では、関西の大学を東京でも受験することができる。地方試験を積極的に行っているからだ。僕は、いくつかの大学について知る限りの情報を駆使してアドバイスをしたあと、「でもなぜ関西の大学なの?」と質問してみた。親元を離れれば、幸福なパラサイトの生活は終わる。滑り止めとして一応受験するならともかく、首都圏の受験生が関西の大学を受けるには、それなりのモチベーションが必要だからだ。「私は、関西の企業に就職したいんです。それには、関西の大学の方が有利だと思って…。先生はどう思われますか?」。「うん、確かに関西の大学は関西の企業には太いパイプがあると思うよ。で、例えばどこの会社ですか?松下?サントリー?」。「いいえ、私はどうしてもミズノに入りたいんです。スポーツに関連した仕事がしたいので…」。(なるほど)。「そうだね、ミズノもアシックスも関西の企業だもんね。」「私、ミズノかアシックスに入りたい…とそんな漠然としことしか考えてなくて…。その他のことはまだ何も考えていないんです。」(いえ、いえ、もうあなたは十分すぎるほど考えているよ。具体的で見事な夢!)。「で、第一志望校はどこなの?」。「早稲田大学のスポーツ科学部です」。(やっぱり…)そこで僕は、以前このブログに書いたこと…つまり、早稲田大学スポーツ科学部のカリキュラムの充実度や将来性、しかし、卒業生が必ずしもスポーツの世界に留まらないことの問題点、そしてスポーツに関するプロフェッショナルの必要性などに語ったあとで、まずは第一志望校を目指して頑張るようにアドバイスした。僕がもちろん、高いモチベーションに支えられたR-bodyのトレーナーたちの姿に日々感動していることも付け加えて…。

「私は、大学でスポーツマネジメントを学んで、ミズノのようなスポーツメーカーに入りたいんです」。なぜミズノという企業が彼女を惹きつけているのかはわからないが、しかし、彼女に明確な夢を与えているのは事実である。「で、あなたは今年スポ科は受けたの?」。「はい、でもダメでした。ここに受験の結果があるんですけど…」。最近大学のサービスは充実している。早稲田大学は、有料だが、受験生に受験結果の告知をしているのだ。今春の入試で彼女がとった成績が、合格最低点とともに打ち出されていた。彼女の成績は、合格最低点の一割下くらいだった。スポ科では、英語と国語(数学)の得点が一定以上でないと小論文を採点の対象にしてくれないのだが、彼女はそのレベルを十分に超えており、小論文も加えた三科目の成績が記されていたのである。「ボーダーラインのあたりには、たった一点にもたくさんの人がひしめいているから、私なんて全然ダメです」と彼女は謙遜する。「絶対大丈夫です…とはいえないけれど、あなたのようにモチベーションの高い人が一年頑張れば、来年は十分合格できるよ。決して難しい闘いではない。来週からも、頑張ろうね。僕も応援していますから…」。その瞬間、不安そうだった彼女の顔が少しだけ緩んだのだった。彼女の提出した添削は、モチベーションの高さを反映して実に丁寧で用意周到だった。勉強をはじめた今はあふれる情報に溺れている状態だが、今後は彼女自身が多くの情報の中から必要なものだけを選び取り、読解のスピードをあげてゆくことも大切になる。ただ、「ゆっくり弾けないものは、絶対にはやくは弾けない」という真理は、音楽でもスポーツでもそして勉強でも変わらない。そして、練習も努力も必要である。そのことを、彼女はなんとなく理解しているようだった。「で、あなたは高校時代どんなスポーツをやっていたの?」。「ハンドボールです」。大学入試はたいていの場合、インターハイに出場するより易しいと僕は思う。もちろん、オリンピックやワールドカップなどとは比べようもないのだ。だから、大学入試という小さな関門をまず乗り越えて、次の大きな夢に向かって頑張ってもらいと願わずにいられない。帰ってゆく彼女の背中に、心の中で「頑張れよ!」と声をかけた。

ひとつだけ心配なのは、彼女のような生真面目な生徒は、時としてポキッと折れてしまうことがあることだ。特に自分にとって決定的な挫折感を感じた瞬間、高いモチベーションも希望も放棄してしまうことがある。幸いなことに、彼女にとって一度目の大学受験は、そのような契機にならなかった。だが、彼女の夢に対して、親なり教師なりまわりの大人たちが無関心を示し、彼女がそれに失望し周囲に対して信頼感を失ってしまうと、意外に弱い一面が顔をもたげてくるかもしれない。だから、もちろん適切な競争は保持しなければならないものの、彼女のようなモチベーションの高い若者に対しては、大人たちが常に関心を払い続け、真剣に向き合っていかなければならないと思うのだ。少なくとも、若者たち自身の才能や努力が足りないこと以外の理由で、彼らに夢をあきらめさせるような社会を準備しないことが、僕たち大人に与えられたミッションだと思う。予備校講師たる僕も頑張るが、大学の先生たちにも、そして企業社会の方々にも、是非頑張っていただきたい。そして現在は、大人たちが真剣に手を結び合うことが必要な時代なのである。そうは思いませんか?

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

twitter