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2006年5月 4日 (木)

歌道執心

世の中こぞって大型連休中で、今年は天候にも恵まれて毎日大変な人出だが、僕の所属する予備校では、この期間カレンダーどおりに授業が行われ、休みは一切無い。やっと勉強の習慣が確立し、受験生としての自覚ができたところでの連続した休暇は、精神と肉体とを一気に弛緩させ、かえって逆効果になるということだろう。あるいは、受験生としての覚悟を決めさせる「踏み絵」の役割を果たす…そういったイニシエーションの意味もあろう。とりわけ浪人生にとっては、家族連れや山歩きの人が散見するガラガラの電車に乗って登校するわけで、自分が社会的には少数者の立場に立ったこと、外国人の目で社会を眺める存在になってしまったことを、強く印象づけることになる。それは、約10ヶ月間の短期留学のはじまりを高らかに告げる鐘の音でもあるのだ。僕はというと、満員電車から開放されることを無条件で喜び、それでもなぜかいつもの時間に家を出る。今日はクルマで津田沼へ行ったが、帰途高速湾岸線の渋滞(TDLからの帰宅渋滞)に巻き込まれ、少しだけイライラした。そうとう疲労は蓄積されてきているものの、トレーニングを続けているせいか体調は良く、心地よい筋肉痛はあっても、思考を妨げるような頭痛・肩こりなどはない。僕自身の精神と肉体も、新しい局面を迎え始めたようだ。集中力をさらに高めて、生き生きと快活に暮らしたいと思う。いつも厳しく肉体を追い込んでくれる素敵なトレーナー諸君に感謝!

『方丈記』の作者鴨長明の歌論『無名抄』は、「歌道執心(かどうしゅうしん)」の話を多く収める。文字通り、和歌の道にひたすら執着し、すばらしい作品を残すことに生涯をかけた芸術家たちの話である。「執着(しゅうじゃく)」は、古代・中世を通じて日本社会の思想的・宗教的基盤であった「仏教」では完全に否定される。権力欲・名誉欲・金銭欲・食欲・性欲・愛欲…人がそれらに「執着」するがゆえに、人は不幸になる。死んでしまった最愛の夫に会いたいがために、石になった女の話がある。彼女の死後も魂は現世(げんぜ)に残り、ついには成仏できない、それは人として最低のことだと説く。「妄執(もうしゅう)」とはそのようなことを言うのである。現世において欲望をすべて捨てよ、仏に帰依し出家をせよ、それが唯一の極楽往生の道である…仏教とは本来そう教えるラディカルな宗教だ。中世の人鴨長明も、自らものした仏教説話集『発心集』でそのように説いている。ただし、「歌道執心」の人だけは別である。

平安時代に登蓮法師という歌人がいた。ある雨の日、登蓮法師とその友人たちが集まって話をしていた。登蓮法師は皆に問いかける。「ますほの薄というのはどんな薄なのか」と。和歌の中で慣用的に用いられる「ますほの薄」の由来を知りたいと思ったためである。ある老人が、「渡辺というところに、その事を知る高僧がいると聞いたことがある」と言った瞬間、登蓮法師は無言になり、「蓑と笠を借してください」と願い出る。話を中断し、出立しようとする登蓮法師に、友人たちはその理由を問うと、登蓮法師はこう言った。「渡辺にゆくのです。長年不審におもっていましたことを知っている人があると聞いて、どうしてそれを尋ねないでいられましょうか」と。「それにしても雨が止んでから出発なさいませ」と友人たちは諫めるが、登蓮法師はこのように言い捨てて渡辺に向かうのである。

「いで、はかなき事をものたまふかな。命は我も人も、雨の晴れ間などを待つべきものかは。何事も今静かに」(なんとまあ、つまらないことをおっしゃるものですね。命には限度があります。私の命も、またその方の命も、雨の晴れ間などを待つものとは限りません。晴れ間を待つ間に、どちらかの命が失われるかもしれないのです。何事も、今ただちに静かに行動するものです)。

「この話、もし今君たちに明確な何かしたいという目標があり、それに向かってひたすら努力していたらなら、すごく理解できるはずだよね。例えば、音楽や絵画などの芸術や、スポーツ、それ以外の学問でもいい。ほんとうにやりたいことがあったら、ひたすらそのことばかりを考えるはずです。そして、まず身体が動く。登蓮法師はそのような『執心』をもっていたわけです。『執心』は仏教では完全に否定されるけど、受験生には必要だと思う。そうでなかったら、予備校に来る意味なんかなくなる。でも、この登蓮法師のように強い『執心』ではなく、ただなんとなく大学に行きたいなあ…くらいの弱いモチベーションの人が多いのも事実ですね。君たちも、ちょうど自分の将来について考える時期だから、自分にひきつけてこの登蓮法師について考えてみてください。彼のこの高いモチベーションは、彼に特別の才能があったからなんだろうか、つまり彼はある種の天才なのだろうか、どうでしょう?僕は、才能と努力についていつもこの話をします。タイガー・ウッズという天才的なゴルファーがいるよね。彼は、努力の天才ともいわれます。ゴルフが好きで好きで、朝から晩までゴルフのことばかり考え、練習を重ねている。試合でパターの調子が悪かったとき、彼は日没で球が見えなくなるまで練習をしているといいます。天才と呼ばれる人間が一番最後まで練習をしている。才能とは努力だ…と言ってもいいかもしれないよね。もうひとり、これは日本人のダンサーなんだけれど、イギリスのロイヤルバレエ団で初めての日本人プリンシパルになった熊川哲也という人がいます。今、Kバレエカンパニーという集団を率いています。彼は、『あなたはどうしてプリンシパルになれたんだと思いますか』という問いに対して『才能だね』と答えました。僕は、そのインタビューを見ていて、なんて不遜な人間なんだとも思ったのですが、あとで彼は本の中でこう語っています。『ロイヤルバレエ団でトップダンサーになるためには、練習にすべてをかけ、個人ができる限りの努力をしているのなんか当然のことなんです。だから、そのなかで自分だけがプリンシパルに選ばれた理由を問われたら、才能だと答えるしかない。でないと、他の人の努力に対して失礼でしょう』と。僕は、努力と才能をめぐるこのふたりの議論は、実は同じことを言っているような気がしています。ただ、一度君たち自身で考えてみてください。自分には才能がないから、この道に進めないんじゃないか…そう思っている人も多いと思います。でも、才能とうものが、まず努力する才能…つまり『執心』にあるとしたら、まず自分の内側にその情熱があるかどうか問いかけて見るべきでしょう。やってみて、『我に才無し』と思ったら、思えるまでやれたら、それは幸せといえるんじゃないでしょうか。是非、今年、今この時だからこそ考えて見てください」。

僕など、才能の無い人間の典型だけれど、だからこそ生徒たちに言えることもある。ちょっと挑発的にはなすと、目が輝き出す生徒と、目をふっとそらす生徒がいる。それでいいと思う。でも、「執心」の芸術家には、今でもあこがれている自分がいる。谷川俊太郎が武満徹についてこう言っていた。「彼は僕とあうと、突然こないだ見た映画の話を堰を切ったように話し出すやつでした。あいさつもせずに」。そういえば、大学生のころ、ゼミが終わって大学から駅の間、つまらない世間話をしている僕たちに向かって、ある先輩がこう怒ったのだった。「お前らはなんで帰り道にそんなくだらない話をしながら歩いていられるんだ。ほんとうに文学に心奪われているのなら、今までゼミで話していた話題をしながら帰るのが本当じゃないか。」あの時は、ただの難癖だと思ったが今ならわかる。「執心」とはそうことなのだと。

「君たちは、入試のために無理やりやっている古文を『文学』とは思わないでしょうね。僕も予備校で『文学』を教えようとは思わないです。でもね、「執着」が完全否定される中世に、「歌道執心」の話が残り、そして「執心」を称揚していた人がいたことだけは忘れないでください。なぜだと思いますか?それは、やはりこの作品が『文学』だからなんです。芸術家には芸術家の心がわかる。志ある者には志がわかるってことです。そのことだけ、忘れないでいてくれればうれしいです。余計なことを話ました。」やはり、僕は「歌道執心」について語ることが好きなのだなと思う。

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コメント

おはようございます。
『無名抄』からバレエとくると、これはぜひ読んでみたくなります。
思い当たることがたくさんありまして、
のんびりなんていっている場合ではない!という心境です。

高校で部活をしていたときも、社会人になってから社交ダンスをしていたときも、コレくらいの結果がでればいいから練習はこれで十分、と最初から実現可能な目標設定をしてきました。

ひとつに夢中になると、他が全く見えなくなってしまう自分も知っていて実は怖いのです。「怖いこと」は、それをすることでしか克服できないと聞きました。となると
これはもう答えが出てしまいました。
私にはとてもタイムリーなお話でした。
どうもありがとうございます!

mimikoさん、おはようございます。コメントありがとうございました。「歌道執心」という言葉が、mimikoさんの今の課題に励ましを与えたのなら、紹介者の僕としてもうれしいかぎりです。自分の中の「恐怖心」といかに闘うか…これは表現者としてだけでなく、「生活者」としての日常の中でも問われることがありますね。まずは、「目をそらさない」こと。そして「逃げない」こと。僕自身そう言い聞かせています。お互い頑張りましょう。今日がmimikoさんにとってよい一日でありますように…

簗瀬一雄著「無名抄全講」を図書館で
先ほど借りてきました。
あまりにすばらしくて・・・「訳」ばかり
読んでしまいそうになりましたが。

手元に置いておきたい1冊です。

すばらしい!
その本は本格的な注釈書ですね。
まずは訳だけ斜め読みでいいと思います。
気に入った話だけ、原文で朗読するとより頭に入ると思いますよ。
今度わからないことがあったらmimikoさんに伺います(笑)。

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