再び道元
再び道元である。昨日は、ドストエフスキー研究会で、僕は『正法眼蔵』「現成公安」を先月に引き続きレポートした。
身心(しんじん)に法いまだ参飽(さんぽう)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方(よも)をみるに、たゞまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方(けた)なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿(ぐでん)のごとし、瓔珞(えいらく)のごとし。たゞわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず。直下も一滴しかあるべしとしるべし。
【現代語訳】
(修行が十分でなく)身体と心にまださとりが身についていないときには、さとりとはこういうものだと納得しているものだ。(修行が十分で)さとりがまだ身体と心に身についているときには、まだ(さとりは)足りないと思うものだ。たとえば、船にのって山の見えない海の中に出て四方を見渡すと、ただ丸に見えるのであって、まったく異なる様子が見えることはない。そうではあるけれど、この海というものは丸ではない、(また)四角でもない。(だから)残った海が海であることの功徳(=本性)をつくして(その海のかたちを)考えざるをえない。(水は)魚にとっては宮殿のようなものであり、天人とっては宝で飾られた池である。ただ(人には)自分の眼のおよぶ範囲が、しばらく丸に見えるばかりである。それと同じで、万法もまたそのようなものである。俗の世界においても(出家後の)仏法の世界においても、多くの功徳を帯びているというけれども、(人は)修行をつんで(身につけた)眼力の及ぶところのものだけを理解するものだ。すべての世界の本来の姿を知ろうとするときには、(自分の認識によって)四角は四角、まるはまると見るほかに、他に海の功徳・山の功徳(それぞれの功徳)があって極まるところはなく、(自分の)四方に世界があることを理解すべきだ。自分以外のことばかりがこうなのではない。自分の足もとも(水の)一滴もそういうことなのだろうと知るべきだ。
僕は、この一連の文から、道元の永遠感・自然観について考えて見た。道元にとって、「法(=仏法)」は、完全なるもの、つまり「絶対者」の謂いだと考えてよい。「身心(自己)」に「法」が満ちるとは、先月取り上げた比喩でいえば、月が一滴の水に宿るように、法が身心に宿る状態だといえる。修行が完全な状態である。これに対して、「身心に法にまだ参飽せざる」というのはどういうことかといえば、法が不完全に身心に宿るということである。この不完全な状態を、この一文で道元はあえて問題にしようとする。
道元は、身心に法が満ちた完全な悟りを得た時にだけ、(修行や悟りが)「足らず」と認識できるという。法が身心に参飽するということ(=一滴の露に月が宿るということ)において、修行がはじまるというのはある種の論理矛盾だろう。が、その矛盾を超越することにこそ、道元の「悟り」の本質があるのかもしれない。これは、修行と悟りをめぐるダイナミズムの表明であり、道元のスタティックな論理に動性が生まれる瞬間と言ってよい。「悟る」ことによってしか次の「悟り」は見えない。もしそうなら、「悟り」というものに、段階・階級を設けなければ合理的に説明できないはずだが、その「悟り」の段階をひとつひとつ登ることによってのみ可能となる、永遠運動としての「悟り」という構造が見えてくるのである。
道元の説く「功徳・徳」とは、もの・現象それ自体が持つ本来性(nature)である。本来性という観点から見れば、ひとつひとつのもの・現象に永遠性が宿っているのである。しかし、もの・現象を、ひとつの局面から見ても本来性は明らかにならないだろう。人は自分の認識ができる限りのことしか認識できない。だからこそ、自分が認識できない世界があることを知るべきなのである。それは自分自身に対する認識(自己認識)においても同じことが言える。つまり、私自身の中に、私自身の気づいていない本来性が存在する。そのことにも気づく必要があるということである。道元の認識は常に比喩的であると同時に具体的である。自分の命でさえ「直下の一滴」と認識する。そして、その一滴にこそ、月や天が宿るというのだ。それが「悟り」ということだろう。
しかし、人の「悟り」が、このように永遠に相対化されてゆくならば、人はニヒリズムに陥る他はない。「修行」が自己目的化し、「修行のための修行」がドグマ化され慣習化される。それは、宗教の世俗化という側面を持つ。だが、絶対者の存在を彼方に見ながら、「悟り」に常に相対的な説明を加えてゆくのが道元の立場なのである。「法」「仏」という不可知の絶対者を認識するために、無限の認識の段階・階級を越えてゆく。それが、道元の言う「悟り」の意味ではないか。そして、人はそのように生きるしかないのではないか。僕は、道元からのメッセージをそのように理解してみた。
A先生が、数ヶ月前次のような話をしてくれたことを僕は思い出していた。それは、A先生が、故郷の海岸に出て海を見ていたときのこと、ひとつの直感というか認識が与えられたという話だ。海岸に打ち寄せる波、砂にはかたちがあり、匂いがあり、音がある。それは実態にほかならないが、その波や海水が連続し、海となり、水平線と出会うところで永遠につながっている…その永遠性の実感についてのことである。僕など鈍いから、海を見ていて、そのような認識・悟りに到達することはまずない。だが、A先生の語る言葉を聞いても、僕たちは「永遠性」の側面に触れることはできる。そして、その「永遠性」を実感した経験が、僕たちの顔を絶対者に向かせ、永遠運動としての「悟り」・修行に立ち向かわせるのかもしれない。
A先生は、僕のレポートを聴いたあと、眼の奥でほほえみながら、こうおっしゃった。自分の中に、ひとつの認識が生まれても、少し時間をおくと、それが間違いであったり、ほんの小さな問題だったとわかり、さらに大きな課題がすぐに見えてくる。しかし、僕自身を含めてそのように人間は生きてゆくしかないと思いますね。
道元の宇宙は、ますます深く広い。
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