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2006年5月 2日 (火)

芭蕉・聖書・道元

日曜日のゼミナールは、大変スリリングで有意義なものだった。英語のA先生の主宰する「ドストエフスキー研究会」のシニアクラスには、大学二年生以上の、本物の学問に志す者たちが集う。大学生、大学院生、そして僕たちのような社会人が加わり、年齢や経歴を越えて真剣にテキストに向き合う。資格・学歴賦与とはなんら関係ない、いわば志の共同体といってよい。僕は、三年前からこの研究会に参加させてもらっている。

タイトルにあるように、本来はA先生の専門であるドストエフスキーを、とりわけここ数年は『罪と罰』を読み解く研究会なのだが、ドストエフスキーの厳しく深遠な思想世界に分け入るために、聖書を読み、芭蕉を読み、道元を読んでいる。比較文学・比較思想と説明できなくもない試みだが、僕たちが実存をかけて古典の世界に立ち向かうための、その回路を開いているのだともいえよう。この研究会では、メンバーに徹底的に思考することが求められる。テキストと自分が向き合い、考え抜いた言葉だけが重視され、手慣れた学問的手つきで処理した言説、あるいは諸学説の羅列などには誰も見向きもしないのである。僕など、国文学的かつ文献学的なアプローチの方法が大学院生のことから染みついているが、そんなセミプロの小さくまとまったレポートについては、メンバーから厳しく吟味され、考え直すことを求められてきた。研究会の途中で絶句したこともしばしばである。

「野ざらし紀行」を担当するOさんは、母の死をきっかけに松尾芭蕉の世界に出会った。彼の最初にしたことは、岩波文庫を買い、芭蕉の残したすべての俳諧を暗記すること。実に千句以上にもなる。彼はいまだに、注釈書の類を手にとろうとしない。芭蕉の人生と、自分の人生が切り結んだ瞬間をとらえ、その思いを、彼の肉体と精神のうちにある芭蕉の俳諧とともに、言葉としてほとばしらせる。ときに彼の言葉は激しく厳しいが、古典を血肉化するとはこういうことなのだと改めて思い知らせてくれたのだった。

聖書については、四つの共観福音書を比較研究することから明らかになった、「Q資料」と呼ばれる原資料を読んでいる。キリスト教的な信仰的なドグマや教義をいったん棚上げにし、イエス・キリストの肉声に迫る。そして、近代人である僕たちが、テキストと合理的・客観的に向き合った上で、なお聖書の言葉やそこに描かれたイエス・キリストの生命感が、僕たちに問いかけてくるもの、僕たちに生き直すよう迫るもののがあるのかどうかを考えている。今月は、イエスの宗教的先行者「洗礼者ヨハネ」の言動がテーマだった。ヨハネは「悔い改めの宣教」を行ったが、彼のつかんだ「神感覚」とは何だったか、二時間にわかって議論は進んでいった。四人のリポーターが、数回のサブゼミを行った上で研究会に臨んだ。テキストと向き合い、ヨハネのつかんだ神感覚をとらえようとする。神の実在をつかんだ者だけが得られる「開放感」が読み取れるとするレポーターに対して、それは「開放感」を前提にした議論で、ヨハネの言葉には「無」しか読み取れないと厳しい意見が提出される。吟味につぐ吟味で、聖書の言葉は「聖性」をはぎとられ、「虚無」の淵に追い込まれるように見える。やがて、議論は「無」とは何か…という問題にまで到達した。ニヒリズムが部屋全体を覆いつくしそうになる。そこで、メンバーのひとりがこう言った。「でも、それでも、このヨハネの言葉の持つ言葉は、生命感にあふれ、神を実感としてつかんだ者の真実の言葉のような気がします。神によって徹底的に裁かれ、無にされる感覚が、ヨハネの中に開放感をもたらし、それが彼にとっての救いとなってゆくのではないですか」と。議論は、再び息を吹き返し、僕たちは「神感覚」の実相へと向きあうことになった。

僕は、とても感動していた。そして、こう言った。「まるで傍観者の感想のようになってしまって申し訳ないのですけれど、僕は今のこの場での議論自体にドラマがあったように感じました。言葉や観念を徹底的に吟味し、いらないものをそぎ落とし、虚無の淵まで議論が行きました。僕はどうなることかとひやひやしていました。でも、そのぎりぎりまで行ったその先に、やはり開放感が見え、神感覚が見えててきたじゃないですか。やはり、この聖書が、そうゆう読み方を強いてくるテキストであり、そこがすばらしさの所以じゃないでしょうか。そして、僕たちが二時間にわたってした議論そのものが、論理のドラマであり、ヨハネと神感覚を共有するという経験だったのではないでしょうか。僕はとても感動しました」。僕はひとりでする読書が好きだが、こうして皆で切磋琢磨しながら読むことにも、大きな意義があると思った。そして、多くの若い友人たちから大切なことを教えられた。

そのあと、僕の道元のレポートがまわってきた。僕は、道元が悟りを表した「やどる」という言葉に注目した。小さな一滴の中に、月のすべてが、天全体が「やどる」というのが道元の論理だ。「やぶる」ではない。逆に、キリスト教は、洗礼者ヨハネからイエスに続く宣教の中で、調和や平安を「やぶる」ながら、人々に変革をし、生き方を変えるように迫ってきたのであった。この「神認識」の差をどうとらえるか。道元の悟りを、スタティックなものとしてみていいのか。それが、僕の次の大きな課題となった。聖書と道元とが、僕の中で共振しはじめている。僕にはその実感が確かにある。

メンバーの中に、三年前に僕が教えたことのある大学生がいた。彼が帰り際に僕にこう言ってくれた。「僕は、道元のことばをとても美しいと思いました。今まで、こういうものがあるんなんて全然知りませんでした。とても感動しました」。彼に、この道元の言葉を教えなかったのは、ほかならぬ僕自身である。僕は自分を深く恥じながら、でも、彼の言葉の重みに心が震えていた。僕は、やはり、古典の教師を目指さなければならない。僕は、彼に「ありがとう」と答えるのが精一杯だった。

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コメント

このブログを楽しみに読ませていただいています。
 4月30日に書かれていた道元の言葉を読んで、私も「美しい」と感激した1人です。宗教も古典も、まったく関係の無い所で普通にひたすら生活している私ですが、初めてこの美しい世界に触れたことに対して、この場に何とかコメントを書きたいと思い、ずっと頭の中で道元のことばを反芻していました。
 難しいことはわかりません。でも、2日間考えて、唯一思い至ったこと。芭蕉の句や道元のことばのように、深く深く考え抜かれ、長い時間をかけて研ぎ澄まされてきた言葉は、教義やら学問的知識やら、そういうものがわからなくても、どのような人にでもちゃんと届くということ。どの時代の、どのような環境の人にも、それぞれの人に対しての大切な言葉として伝わる普遍的な言葉なのだと思いました。
 水にやどる月を、心に思い浮かべる。何とも、心が安らぎます。思い浮かべて安らぐ自分に、驚いたりもします。注釈書がなくても、自分と道元、自分と芭蕉、そして、自分とキリスト?
注釈書頼りではなく、直接向き合う姿勢を大切にしたいと思います。
 古典の美しい世界を、授業だけではなく、この場でもぜひ紹介していただきたいと思い、書き込みをさせていただきました。

私も生徒になった気分で読ませていただいて
います。先日の「イチロー」は、2日前の
仕事の時おおいに実感しました。
難しい案件の時、それまでの準備がものをいうものですね。

聖書は・・・昨年仕事でお邪魔したところ
が教会で、それがご縁でひと月に一度だけ
ですが、礼拝に参加して聖書を勉強し、
教えを実践しています。

100%共感はできないので洗礼は受けませんが、礼拝の後は牧師さんの奥様(彼女も
牧師)のお料理をいただきながらいろいろ
議論しています。私以外は皆熱心な信者ですが、わからないことなどを教えていただいて
います。

いつも思うのは、正しいことはシンプルで
あるということです。日常生活には
とても役に立っています。迷ったときの
原点になっています。

100%共感できない理由は・・・
「夫はすべて正しい、すべて夫に従う」と
いうところです。(笑)

かなえさん 真摯ですてきなメッセージありがとうございました。このブログは、僕自身の備忘というか、生活の記録としてはじめたものですが、僕が引用した古典の一節がかなえさんの心に届いたのなら、ほんとうに幸せなことです。日本人は、美意識に敏感な民族で、例えば仏教なども、仏像を通して「美」を介して受け入れ浸透していったと言われていますね。司馬遼太郎さんは、思想や宗教をすべて美意識の問題に還元してゆくその精神構造に問題があったとされていますが、道元の言葉に触れると、美意識と思想がみごとに両立している第一級の作品だとすぐに理解できます。無駄をそぎ落とした言葉の輝きは、心を打ちます。僕は大学生の頃から、今はやりの「新書」が好きで、つまりは「情報」が大好きだったのですが、恩師から「新書」はやめて「新書」の著者が読んだ「古典」そのものを読みなさいと強く薦められました。未だに「新書」好きはかわりませんが、ただ「原典」に自分で立ち向かうと、凛とした気分になり、言葉によって確かに励まされます。注釈書はなくてはならない書物ですが、まずは「原典」に直接触れることにしたいと思っています。その際は、余計な知識はいったん棚上げにする必要があるでしょう。日々の生活をおくりながら、道元の言葉を繰り返し思う…それはすてきなことだと思うのです。僕は以前、「抜き書き集」というプリントをつくって、一年の最後の授業で生徒に渡し、また年賀状のかわりに友人達に送っていたりしました。文字通り、僕がその一年で感動したり励まされたりした言葉を「抜き書き」しただけのものでしたが、作らなくなった今でも、それを欲しいとおっしゃってくださる方があります。このブログは、日々書いて行く「抜き書き集」にしたいと思っています。これからも、さまざまな言葉を「抜き書き」してゆきますので、よろしくお願いします。ありがとうございました。

mimikoさん いつもすてきなメッセージありがとうございます。「生徒」としてではなく、「友人」としてともに古典を読んでいけたらうれしいと思います。また、忌憚のないご意見を聞かせてくださいね。教会に行ってらっしゃるのですね。僕は、二十代の後半に洗礼を受けましたが、その時には神をつかんだ…というか、神につかまれた感覚があったものの、それからも信仰については揺らぎ続けています。僕自身はプロテスタントの信仰ですが、数年に一度カトリックに強烈にひかれてしまうこともあります。またいずれ書きますが、カトリックの神父さんに座禅を習っていたこともあります。僕の妻は熱心な仏教徒ですが、仏教の「寛容」の精神にもあこがれを持ちます。そして、ときどき落ち込むとニヒリストに変身します。教会にもほどんど行かないダメクリスチャンですが、でも聖書はやはり大切な書物です。励まされ、癒され、そして裁かれる。今は、むしろ信仰の問題を棚上げにして、自分にとって聖書の言葉がどれほどのリアリティを持っているのかを検証しているところです。しかし、読めば読むほど深い書物です。シンプルな言葉ほどラディカルなものはないと思います。キリスト教徒は日本では少数者で、多くの人々がカトリックとプロテスタントの(つまりは神父さんと牧師さんの)区別がつきません。でも、自分にとっての「絶対者」の問題は、日々考えてみるべき課題だと思っています。mimikoさんが、牧師さんご夫妻をはじめ、信仰を持つ方々と、真剣な議論を深めていかれることに、心から期待しています。また、お気持ちお知らせくださいね。ありがとうございました。

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