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2006年5月

2006年5月29日 (月)

再び道元

再び道元である。昨日は、ドストエフスキー研究会で、僕は『正法眼蔵』「現成公安」を先月に引き続きレポートした。

身心(しんじん)に法いまだ参飽(さんぽう)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方(よも)をみるに、たゞまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方(けた)なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿(ぐでん)のごとし、瓔珞(えいらく)のごとし。たゞわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず。直下も一滴しかあるべしとしるべし。

【現代語訳】

(修行が十分でなく)身体と心にまださとりが身についていないときには、さとりとはこういうものだと納得しているものだ。(修行が十分で)さとりがまだ身体と心に身についているときには、まだ(さとりは)足りないと思うものだ。たとえば、船にのって山の見えない海の中に出て四方を見渡すと、ただ丸に見えるのであって、まったく異なる様子が見えることはない。そうではあるけれど、この海というものは丸ではない、(また)四角でもない。(だから)残った海が海であることの功徳(=本性)をつくして(その海のかたちを)考えざるをえない。(水は)魚にとっては宮殿のようなものであり、天人とっては宝で飾られた池である。ただ(人には)自分の眼のおよぶ範囲が、しばらく丸に見えるばかりである。それと同じで、万法もまたそのようなものである。俗の世界においても(出家後の)仏法の世界においても、多くの功徳を帯びているというけれども、(人は)修行をつんで(身につけた)眼力の及ぶところのものだけを理解するものだ。すべての世界の本来の姿を知ろうとするときには、(自分の認識によって)四角は四角、まるはまると見るほかに、他に海の功徳・山の功徳(それぞれの功徳)があって極まるところはなく、(自分の)四方に世界があることを理解すべきだ。自分以外のことばかりがこうなのではない。自分の足もとも(水の)一滴もそういうことなのだろうと知るべきだ。

僕は、この一連の文から、道元の永遠感・自然観について考えて見た。道元にとって、「法(=仏法)」は、完全なるもの、つまり「絶対者」の謂いだと考えてよい。「身心(自己)」に「法」が満ちるとは、先月取り上げた比喩でいえば、月が一滴の水に宿るように、法が身心に宿る状態だといえる。修行が完全な状態である。これに対して、「身心に法にまだ参飽せざる」というのはどういうことかといえば、法が不完全に身心に宿るということである。この不完全な状態を、この一文で道元はあえて問題にしようとする。

道元は、身心に法が満ちた完全な悟りを得た時にだけ、(修行や悟りが)「足らず」と認識できるという。法が身心に参飽するということ(=一滴の露に月が宿るということ)において、修行がはじまるというのはある種の論理矛盾だろう。が、その矛盾を超越することにこそ、道元の「悟り」の本質があるのかもしれない。これは、修行と悟りをめぐるダイナミズムの表明であり、道元のスタティックな論理に動性が生まれる瞬間と言ってよい。「悟る」ことによってしか次の「悟り」は見えない。もしそうなら、「悟り」というものに、段階・階級を設けなければ合理的に説明できないはずだが、その「悟り」の段階をひとつひとつ登ることによってのみ可能となる、永遠運動としての「悟り」という構造が見えてくるのである。

道元の説く「功徳・徳」とは、もの・現象それ自体が持つ本来性(nature)である。本来性という観点から見れば、ひとつひとつのもの・現象に永遠性が宿っているのである。しかし、もの・現象を、ひとつの局面から見ても本来性は明らかにならないだろう。人は自分の認識ができる限りのことしか認識できない。だからこそ、自分が認識できない世界があることを知るべきなのである。それは自分自身に対する認識(自己認識)においても同じことが言える。つまり、私自身の中に、私自身の気づいていない本来性が存在する。そのことにも気づく必要があるということである。道元の認識は常に比喩的であると同時に具体的である。自分の命でさえ「直下の一滴」と認識する。そして、その一滴にこそ、月や天が宿るというのだ。それが「悟り」ということだろう。

しかし、人の「悟り」が、このように永遠に相対化されてゆくならば、人はニヒリズムに陥る他はない。「修行」が自己目的化し、「修行のための修行」がドグマ化され慣習化される。それは、宗教の世俗化という側面を持つ。だが、絶対者の存在を彼方に見ながら、「悟り」に常に相対的な説明を加えてゆくのが道元の立場なのである。「法」「仏」という不可知の絶対者を認識するために、無限の認識の段階・階級を越えてゆく。それが、道元の言う「悟り」の意味ではないか。そして、人はそのように生きるしかないのではないか。僕は、道元からのメッセージをそのように理解してみた。

A先生が、数ヶ月前次のような話をしてくれたことを僕は思い出していた。それは、A先生が、故郷の海岸に出て海を見ていたときのこと、ひとつの直感というか認識が与えられたという話だ。海岸に打ち寄せる波、砂にはかたちがあり、匂いがあり、音がある。それは実態にほかならないが、その波や海水が連続し、海となり、水平線と出会うところで永遠につながっている…その永遠性の実感についてのことである。僕など鈍いから、海を見ていて、そのような認識・悟りに到達することはまずない。だが、A先生の語る言葉を聞いても、僕たちは「永遠性」の側面に触れることはできる。そして、その「永遠性」を実感した経験が、僕たちの顔を絶対者に向かせ、永遠運動としての「悟り」・修行に立ち向かわせるのかもしれない。

A先生は、僕のレポートを聴いたあと、眼の奥でほほえみながら、こうおっしゃった。自分の中に、ひとつの認識が生まれても、少し時間をおくと、それが間違いであったり、ほんの小さな問題だったとわかり、さらに大きな課題がすぐに見えてくる。しかし、僕自身を含めてそのように人間は生きてゆくしかないと思いますね。

道元の宇宙は、ますます深く広い。

                             

エクスチェンジ

僕の書いた宮崎国際音楽祭のレポートに対して、小曽根真さんからメッセージをいただいた。(小曽根真オフィシャルサイトのBBSにて)僕の文章を過分に誉めていただいているので気恥ずかしい限りなのだが、アーティストとオーディエンスの真摯で濃密な交流が、インターネットを通じてこのように可能なのだという、ひとつの例証として、転載し紹介させていただきたい。2000年、僕が40歳になった年の秋に、僕は小曽根真というピアニストに決定的に出会ってしまった。そして、いつのまにか、小曽根さんの「おっかけ」となり、その演奏を聴いた感動をライブレポートに残すようになっていったのである。僕はプロではないので、客観的な叙述には全くこだわっていない。やはり、僕が小曽根さんという天才的なミュージシャンと同時代を生きた記録・日記というものに近いだろうと思っている。是非みなさんもにも、小曽根さんの音楽を聴いていただきたいし、小曽根真という特別にチャーミングな人に出会っていただきたいと念願している。

まずは、小曽根さんのオフィシャルサイトを訪れてみてください。小曽根さん、ほんとうにありがとうございました。

http://makotoozone.com/jp/board/

小曽根さんのメッセージ

このレポートに書いて頂いた人間なのに、その文章を読んで心から感動いたしました。 Shiolly ちゃんが書かれてた言葉をそのまま使わせて頂きますが、このMid さんの文章を読んで感じた事が大きすぎて言葉にできません。 自分の音楽の事、とても大切ですが、それ以上にその音楽を通しての皆さんの感じているドラマ、歓びが Mid さんの文章から溢れ出ていました。 こんなに凄いエネルギーのExchange がパフォーマーとオーディエンスの中にあったんだと言う事を目の当たりにしました。 まるで自分が会場に居て自分の演奏を聴いているかの様な感覚に包まれました。 

このmid さんの素晴らしい文章を読んでもう一つ実感した事。 それは演奏する人間の感性はよくフォーカスされますが、実はリスナーの感性はアーティストのそれと同じ位大切なものだと言う事です。 よく考えてみると当たり前かも知れませんが、矢張り出す方と取り入れる方の感性の周波数、深さが一致しないとなかなか良いコミュニケーションは生まれないと言う事ですよね。 そしてステージと客席の間でそんなに濃厚なコミュニケーションが存在していた、というのをmidさんの文章を読んで実感し、感動致しました。 わざわざ遠い宮崎まで来て頂いて良かった!と言える出来のコンサートになって本当に良かったです。 これだけは、本番1分前迄「今日は最高の気分」と思っていても過ぎの瞬間どうなるかわからないので、あの宮崎ではいっぱい音楽の神様に助けて頂く事が出来ました。

mid さん、素晴らしい文章をありがとうございました。

小曽根 真

2006年5月27日 (土)

風邪の効用

 不覚にも風邪をひいてしまった。よく同僚と、予備校講師の仕事は、自分自身が心身共に健康で、やっと回していける仕事だね…という話をする。ほとんど毎日、帰宅後に授業の準備、プリント作り、そして添削とこなしていると、睡眠時間がほとんどなくなることも多い。そして、それは十数週間休みなく延々と続くのである。体調管理の大切さは、スポーツ選手のそれに匹敵するかもしれない。しかし、一学期が折り返しを迎えるこの時期、体調を崩す講師や生徒は極めて多い。新学期の緊張感から解放され、心と身体がちょっとゆるむ、そこへ春から夏への季節の変わり目がやってくる。特に今年のように、日々の寒暖の差が激しく、まるで梅雨が前倒しされたように雨の日が続くと、たとえ若者であっても身体がついてゆかなくなるのだ。加えて、容赦ない都市の冷房地獄。はめごろしの窓の電車が増えて、電車の中はいつも快適に…そして過剰に冷やされている。教室もそうだ。予備校の校舎は、たいていターミナル駅の駅前にあるからエアコンは必需品である。100人以上の若者の熱気は大変なものだから、大容量のエアコンが備え付けられて教室全体を冷やす。そして、生徒より高い位置にある(つまりは暑い)教壇の天井には、ご丁寧に講師用の吹き出し口までが準備されているのだ。ここから直撃する冷風が、身体に極めて悪い。R-body Projectの鍼灸師Oさんによると、例えば首は、10分程度冷風の直撃を受けただけで調子を崩すことがあるのだそうだ。僕自身は、身体が大きく暑がりなので、どうしても教室でジャケットを着るなど厚着をすることができない。それも、今回風邪をひいた原因かもしれない。

いまから、十数年前、新人講師だったころ、この時期の風邪をこじらせて、肺炎になりかかったことがあった。あまりに咳がひどいので、校舎近くの診療所に飛び込んだら、レントゲンを見た実直そうな医師が「肺炎です」と宣告する。「うちに入院施設があったら入院していだだくところですけれど…」僕はその宣告のほうにショックを受けたのだが、その医師にすすめられて自宅近くの病院へ行ってみると、今度は若いチャラチャラした医師が、「肺炎とまでいうのはオーバーだよね。ま、考え方によるけど…」とニヤリとし、それでも数日間抗生物質の点滴を受けさせられた。ともかくこの時期の風邪は怖いのだ。僕が、予備校で休講を出したのは、あとにも先にもそのときだけで、調子が悪い、首が痛い、といいながら、なんとか一日も休まずに今日を迎えられた。それは、プロ意識に支えられたといえばそうに違いないが、我慢できるほどの小さな病気にしかかかってこなかったということなのでもある。咳が出ればはやめに風邪薬を服用し、学期中に熱を出すところまで悪化させない。ともかく身体を持たせる。その反動で、シーズンオフの二月になると、必ず発熱を伴う大きな風邪をひき、数日寝込むのが常だった。恥ずかしいから人にはいわないが、なかなかたいしたプロ意識だと自惚れる気持ちがなかったわけではない。しかし、そうした考え方は根本的に間違っていたとやっと気づく年齢に僕もなった。

僕は、今回の風邪とつきあいながら、野口整体の創始者野口晴哉さんの『風邪の効用』(ちくま文庫)を読んだ。1962年に原著が出版されたこの書物は、僕にとっての健康の古典といってよい。野口さんはこう語りかける。「風邪ほど難しい厄介な病気はない。しかし、風邪をひくと身体が整う。つまり、身体の中に蓄積された鈍り、弾力を失った身体がもとにもどろうとする過程で風邪をひくのだ。だから、風邪自体が治療行為ではないかと考える。周りの突然大病を得たりや死を迎える人を観察してごらんなさい。そういう人は発病の前の数年は風邪もひかなくなったと言う人が多い。つまりは、風邪をひかないくらい鈍りが体内に蓄積されているということになる。そして、バタンといく。だから、風邪をひく人はそれだけ敏感で、風邪をちょくちょくひく人のほうが身体が丈夫なのである。」目から鱗が落ちるとはこのことだ。野口さんに言わせれば、風邪をひかないように、ひいてもすぐに治すようにしむけていた僕は、自分をどんどん大病や死に追いやろうとしていたことになる。つまり、自分の自然治癒力を全く無視していたわけだ。プロ意識うんぬんの話で自惚れている場合ではない。この本を読むと、風邪をひくことが喜びにかわり、風邪と共生する勇気が与えられる。すばらしい言葉のサプリメントだ。

もうひとつの忘れられない経験も書いておきたい。昨年秋から、友人のすすめでホメオパシーという代替医療に家族ぐるみで親しんでいる。もともとは、精神的に少し不安定なところのある長男の心の治療を目的にカウンセリングに通うようになったのだが、伝統医療のホリスティックな世界観に魅了され、僕自身も学び、生活の中に取り入れることにしたのだ。200年ほど前にドイツの医師ハーネマンが創始したこの療法は、同種療法ともいわれ、簡単に言うと「症状を引き起こす原因となるものは、症状を取り去るものともなる」という考えのもとに、原因物質を何百万倍にも希釈したものを「レメディ」という砂糖玉にしみこませ、それを患者は舌下で溶かすのである。その物質が、ほんとうに症状の原因物質であったときだけ、自分の中にある自然治癒力と呼応し、ヴァイタルフォースが活性となり、症状を回復させるというわけである。効き目がないときは、まったく反応がおこらず、したがって副作用が全くない。欧米やインドでは、一般家庭で広く受け入れられている療法である。ただ、回復の途中に好転反応がおこり、症状が一時悪化することがあるのが特徴である。

長男のカウンセリングの最後に、ホメオパシーの治療者(ホメオパス)にアドバイスを受けて、僕にあったレメディを購入し飲み始めた。前にも書いたが、僕には自称週末病という持病があって、仕事のある週日は元気にしているのだけれど、週末になるとひどい肩こり・頭痛が起き、寝込んでしまうということが、もう二十年近く続いていたのである。ホメオパスの先生にそのおはなしをして、ラストックスという毒蔦のレメディを薦めていただいた。最初の一週間は、就寝前に一粒ずつ飲んでみた。肩がやや軽くなった感じがして、ちょうど一週間目に宿便のようなものが出た。それから、様子を見るために一週間休み、しかし週末にまた頭痛がするので、土曜日の朝にレメディをとったら、そこから非常に強い反応が出始めたのである。扁桃腺が腫れ、ほぼ十年ぶりの38度の発熱、痰、そしてまず左の首の筋肉という筋肉がうなりを立てて痛みを発し、うずくまらずにはいられないような頭痛、そして、その痛みがやがて右の首に移動してきて…たぶん好転反応なのだと思うのだけれど、あまりにも最悪の事態に恐怖心さえ覚えたのだった。慢性病の場合、レメディを飲むことで、かなり強い好転反応が出ることもあると聞いていたが、予想外に強い反応に驚いたことだった。仕事はやすむわけにいかないので、ちょっと無理をして仕事をしたが、こんなにつらい一週間はひさしぶりの経験だった。しかし、回復してから、やはり僕の身体は、新しい局面を迎えたように思われた。ホメオパシーでは、発熱はよいことだと考える。出すべきものは出してやる…それが治癒の道だと教える。自分のヴァイタルフォースを信じてみる。結局それが、ほんとうにまっとうな道だと考えて、以来僕はアロパシー(通常の医療)の薬はほとんど使わなくなってしまった。もちろん、今回の風邪でも市販の風邪薬は一切飲んでいない。確かに回復は遅いが、自分の肉体と対話できるので、それはそれで楽しいことなのである。

しばしば、西洋医学と東洋医学の対立が言われるが、西洋の伝統医学にだってホメオパシーのような自然治癒力を活性にするような思想と実践とがある。そしてそれは、野口晴哉さんの『風邪の効用』の思想と軽やかに結びつき、僕を励ましてくれる。それはとてもすてきな「生活の智」なのである。西洋医学を全面的に否定するつもりはないけれど、やはりもうひとつ別の道を知っておくことは、人生に幅をもたせ、思慮深さを教えてくれるのではないか。そう思わずにいられない。

僕が講師室で、ズルズル鼻をかみながら『風邪の効用』を読んでいる姿を見て、隣に座る若い同僚が笑いながらこう言った。「先生はあくまでもポジティブなんですね」。そう…強くなくても、たとえ弱くても、ポジティブでなくては人生がつまらない。風邪も楽しまなければ…。野口さんは、こう言っている。「だから私などはよく風邪を引きます。ただし四十分から二時間ぐらいで経過してしまう。クシャミを二十回もするとたいてい風邪は出ていってしまう」。僕はというと、結局一週間風邪をひきっぱなしで、週末の同窓会をキャンセルしてしまった。どうやらまだまだ修行が足りないらしい。

ホメオパシー・ジャパン http://www.homoeopathy.co.jp/

2006年5月21日 (日)

シンクロニシティ

 このコンサートホールには、三台のハウスピアノがあるのだが、まずはその中から適切な一台を選ぶことに時間がかかったと小曽根さんは言う。そして、結局最終的に選んだスタインウェイも、はじめは音がどうしても自分のイメージと一致せず、ずいぶん音のコントロールに苦しんだとのことだった。「だけど、昨日練習していたら、ある時スーッと自分が吸い込まれてゆくような深い音が出るようになったことに気づいた。ああ、これでいったらいいんだ…これでいけると…思ったら、練習が楽しくなって、どんどん僕らしい音が生まれるようになったんだ」。別れ際、僕は小曽根さんにぶしつけな質問をした。「今日のオーケストラはすばらしいとおっしゃったんだけれども、そんな最高のオケとやることに、小曽根さんは怖さというかプレッシャーは感じないんですか?もしかして自分の音がオケにつりあわなかったらどうしよう…というような、そんな気持ちにはなりませんか?」。小曽根さんは微笑みながら、「いや、そんなことはないですね。オケがすばらしいこので、彼らが美しく深い音を出してくれる。僕がその音をよく聴いて受け止めさえすれば、その音が僕をその高さや深みに自然に連れて行ってくれる。また、僕の出した音をオケが受け止めて先を指し示してくれる。僕は、自然にその方向へ行けばいいんだと思う。演奏自体はすごくタフで大変だけど、心がうきうきするし、きっとすばらしい演奏になるんじゃないかと、僕自身が期待している。でもね、僕が先走りすぎて失敗したらごめん。ともかく、一生懸命弾いてくるわ。」手を高くあげて僕たちに合図を送りながら、ホールの中に消えてゆく小曽根さんを、僕たちは心躍らせながら見送った。こうして、自己に内向しながら、同時に外に開くという困難な課題に直面した40代のピアニストは、ステージに戻っていったのである。

 開演15分前、ほぼ満員になったホールに、出演者のプレトークが奢られた。橋本邦彦さんの洒脱な司会と翻訳によって、まずマエストロ・デュトワが、シューマンとショスタコービッチの楽曲について解説した。すぐれた交響楽は、ベートーベンやブラームス以外にもたくさんあるので、そのすばらしさを多くの人々に知らせたいという、彼の情熱が言葉の端々からほとばしった。続いて登場した小曽根さんは、ゲネプロを聴いてとても感動したという橋本さんの問いに答えて、「ジュノム」を演奏楽曲に選んだ理由について話した。小曽根さんは、自分にとっていかにこの曲の二楽章が大切か、そして、この美しいバラードがどれほど深いインスピレーションを自分に与えるかについて、実に楽しそうに語ったのである。もちろん、その後の演奏は、腰が抜けるほど美しかったのであるが…。

 やがて、コンサートが始まった。一曲目はシューマンの「マンフレッド」序曲。フルオーケストラで演奏されるこの曲は、金管楽器を中心にゴングやシロフォンの音が印象的用いられる壮大な叙情詩で、ロマン的な色彩が強い。マエストロ・デュトワの華麗なコンダクトによって、オーケストラは一糸乱れぬ演奏を見せ、満員のオーディエンスを魅了した。高い音楽性と技術に裏打ちされた音楽家たちが、マエストロ・デュトワの強い求心力に引き込まれ、美しい音と音の複合体をオーディエンスに投げかけてくる。僕は圧倒的な迫力に息をのんだ。音に気品と厚みとが同時に存在するのだ。

この日のコンサートマスターは、一曲目のシューマンと三曲目のショスタコービッチを、徳永二男さん、二曲目のモーツアルトを、三浦章宏さんがつとめる。モーツアルトは、他の二曲に対してオーケストラが小編成であること、そして、三浦章宏さんが東京フィルハーモニーオーケストラのコンサートマスターとして、既に一度小曽根さんとモーツアルトを演奏したことがある経験がかわれたということだろう。

そして、いよいよ二曲目。モーツアルト作曲、ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調「ジュノム」K.271である。ここまで、僕のこの冗長なレポートを辛抱づよく読んできてくださった方々の中には、いよいよ演奏の詳細が聴けると、期待してくださっている方もおられるに違いない。しかし、それはとうてい僕の任ではない。小曽根さんとマエストロ シャルル・デュトワ、そして宮崎国際音楽祭管弦楽団とのコラボレーションは、僕の聴力と言語能力をはるかに超えた、そう神に捧げられた音楽というべきもので、僕の拙い能力で技術論をあげつらったところで、音楽の本質から離れていってしまうだけだからだ。しかし、幸いなことに、まもなくNHKでこの日の演奏が放送されると聞いた。是非、その放送をご覧になって、ご自分の目で、耳で、その日どれほどまでにドラマチックな精神と音との格闘が行われたか、確かめていただきたい。僕自身は、自分の不明を恥じ入るしかないことだ。

ただ、ひとことだけここに印象を記しておくことをお許しいただけるだろうか。この日の小曽根真は、ジャズピアニストでもクラシックピアニストでもなかった。音楽の神の前で、ただひとりピアノで祈りをささげていたピアニストでしかなかった。小曽根さんは、第一楽章の最初の音符の、その深く美しい音色でオーディエンスとオーケストラを魅了し、自ら音を奏でながら、ホール全体の求心力の中心となった。そして、そのひとつひとつの音を、極めて高いレベルで理解し即座に音で反応するマエストロとオーケストラの感性が呼応し合い、見事な音楽的イメージを構築していったのである。モーツアルトが楽譜に書いた音、それは、小さな装飾音に至るまで美しくこの世に呼び戻され、管弦楽の音色と混じり合った。そして、あの特徴的なカデンツァでさえも、それはもはやジャズピアニストのそれではなく、かといってクラシックピアニストのそれでもない、むしろメロディやリズムの多様性については禁欲しながら、純粋な音と音との絡み合いからインスピレーションを得て、まさに即興で音楽が演奏されている、つまりはそこで音楽が生まれているその瞬間を目の当たりにするというレアリテが、僕たちを深い感動に導いた。とりわけ、あの小曽根さん自身が、重要だと語った第二楽章の美しさを、僕は生涯わすれることはないだろう。僕には、とてもゆっくりした、今まで聴いたこともないゆっくりしたテンポで音が刻まれていたように感じたのだが、終演後小曽根さんに伺ったところ、特に今日の演奏でテンポを遅くしたつもりはないと言う。つまりそれは、僕がそう感じたということなのであって、第二楽章が極めてエモーショナルな演奏であったということの証拠になるだろう。小曽根真がジャズピアニストとしての「我」を捨てたから、この演奏が可能になったのではない。「クラシックピアニスト」にジャンルを移行したわけでもない。小曽根さんは、ある意味で、もっともニュートラルな位置に身を置き、自分の内面を深く掘り見つめることで、同時に音楽に向かってすべてをゆだね自己を全開にしてゆくという、すさまじい精神のドラマを僕たちにつつみかくさず見せてくれたのだと思う。それは、マエストロにとっても、オーケストラの楽団員にとっても、感動的なことであったと思う。さすがに、第三楽章のカデンツァで小曽根さんがピアノの胎内に腕を差し入れ、弦を指でたたきはじめた時には、驚きをかくせなかった彼らであったのだけれども…。

オーディエンスのわれるような拍手とブラボーの歓呼に応えて、カーテンコールに応じる小曽根さんの姿は輝いていた。小曽根さんは、マエストロとオーケストラの人々に向かって指をたててガッツポーズを見せ、満面の笑みで再度オーディエンスのオベーションに応えたのである。ブラボー!ブラボー!僕はなぜか泣けてきて、小曽根さんの姿がゆがんで見えた。

やがて、小曽根さんはピアノに座って、演奏を始める。ジャズ特有のストライド奏法でのニューオリンズジャズか、ラグタイムのアンコールらしかった。でも何という曲なのだろう…と思っていると、それこそオーディエンスもオーケストラの楽団員もほぼ同時にそれに気づいて隣の人と顔を見合わせ微笑む。すかさず、ステージの上では、コンサートマスターの三浦さんがオーケストラに指示をして弓を弦におろして全員が演奏に加わる。そう、それは第三楽章のカデンツァの最後部の再現であったのだった。マエストロ抜きの二度目のフィナーレは、笑顔の中でのブラボー。オーケストラの誰にも告げられていなかった小曽根さんの悪戯は、すべての人々へのうれしいサプライズプレゼントとなったのである。

三曲目に演奏されたショスタコービッチの交響曲第10番 ホ短調 op.93は、フルオーケストラで、なおかつ四楽章もある大曲であるが、全身全霊をこめたマエストロとオーケストラの情感溢れる演奏で、この20世紀最大の交響楽作者の壮麗な音楽を心ゆくまで堪能することができた。この日の全三曲は、ほんとうにすばらしいプログラムであったと思う。マエストロ シャルル・デュトワと宮崎国際音楽祭管弦楽団のみなさんに、心からの讃美と感謝を申しあげたい。

さて、終演後、僕と金さんの宿泊組は、シーガイア・リゾートで開かれた宮崎タキシード倶楽部主催の「交流パーディ」(有料)に参加した。これは、文字通り、オーディエンスと演奏家たちの交流を目指した特別企画で、驚いたことに、オーディエンスと音楽家が自動的に同じテーブルに着くように仕組まれているのである。もし望むなら(そして勇気があるなら)マエストロと歓談しながらワインを楽しむこともできるのである。もちろん、小曽根さんも参加された。事情を全く知らない僕たちは、なぜか最前列に陣取り、USBヴェルビエ・フェスティバル・オーケストラの若き音楽家たち、そして桐朋音楽大学に在学中の学生からなる講習生たちの弦楽四重奏を心ゆくまで堪能したのである。怖い者知らずとはこのことである。僕たちと同じテーブルには、この日のプレトークの司会をした橋本邦彦さんがいらっしゃった。橋本さんは、5月6日に宮崎市内の特設ステージで行われたストリート演奏会で演奏されたストラヴィンスキーのバレエ音楽「兵士の物語」の翻訳と語りを担当された方であり、デュトワ氏の通訳もなさっていた。ミュージカルの翻訳で有名で、ここ数年上演されるバーンスタインやソンドハイムなどのミュージカルのほとんどを翻訳されており、宮本亜門さんとのコラボレーションも多い。(ちなみに次回作はスティーブン・ソンドハイムの「スイニードッド」で、なんと大竹しのぶさんと市村正親の主演!大竹さんはミュージカル初主演である。)その橋本さんから、お話を伺うことができた。橋本さんは、ゲネプロで小曽根さんのピアノを聴いて、まず音の美しさに心奪われたという。それは、ひとつの音だけでわかるほどのもので、多くのピアニストの中でもわずかな天才にしか許されていない才能だと語ってくれた。そして、ゲネプロのカデンツァと本番のそれとは全く違っていたけれど、どちらもすばらしかった。ほんとうに心躍る楽しい演奏だと絶賛した。そして、モーツアルトも聴きたいけれども、今度は是非バースタインの「不安の時代」を聴きたい、これは今絶対に小曽根さんでなければ弾けない曲だろうと熱望されたのだった。僕は、そのお気持ちを是非小曽根さんにお伝えしますと橋本さんに約束したのだった。そのあと、二十数年に渡る橋本さんとバーンスタインとの交友について、楽しくお話を伺った。バーンスタインとカラヤンとの確執や、知られざるカルロス・クライバーとの友情、そしてこどもたちへの音楽教育への情熱など、話題はつきることなく続いたのであった。その中で、ひとつだけ印象深かった話をここに記して、このレポートを終わりにしたい。橋本さんは言う。バースタインほど記憶のいい音楽家はいなかった。一度聴いたほとんどの音楽を覚えていた。彼はとてもさびしがりやで、パーティーが大好きだったのだが、そのたびにピアノの前にすわり、ジャズのスタンダードを弾いた。歌詞も完全に覚えており、しばしば替え歌を歌うほどだった。ラテンの音楽、とりわけ中南米の音楽にも興味があって、だから「ウエストサイドストーリー」が出来上がったのだ。ただ、彼には悩みがあった。それは彼があまりにも音楽を記憶していたから、自分が新しい曲を作曲するときに、すべて今まで聴いた何かの曲、誰かの曲に似ていると感じ、亡くなるまで本気で苦しんでいた。20世紀、そして21世紀に新しい音楽を作ろうとしたら、もしそのコンポーザーが恥知らずでなかったら、この問題・苦悩に立ち向かわざるをえない。それは、しかし、天才ならではの悩みなのだけれどね…。僕は、今回の宮崎への旅のはじめと終わりに、ふたつのとてもすばらしい言葉を聞けたと思っている。それは、小曽根さんの「40代特有の問題」に関する言葉と、バーンスタインの「記憶力と創造性」に関する言葉であり、このふたつは確実にリンクしているように思われたからだ。無数の音のパレットと無数のメロディラインを自覚してで、小曽根さんは21世紀のコンポーザー、そして演奏家としてこれからも生きてゆくことになる。だが、この先新たに天才ゆえの悩みと限界を抱え込むにしても、決して小曽根さんは孤独ではないと感じた。僕の中でのシンクロニシティが、なぜかそれを確信させたのだ。これから、小曽根真はもっともっとおもしろくなるぞ…そう信じて疑わない僕なのである。

帰りの飛行機はもちろんオンタイムで飛んだ。空港までのタクシーの中で、ゴルフ好きの運転手さんと、毎年ダンロップフェニックストーナメントにやって来るタイガー・ウッズのことについて話した。あの若きゴルフの天才は、自分の限界をどう考えているのだろう…長いスランプの後奇跡の復活をした彼の言葉も、いつか聞いて見たいと僕は思った。今回の宮崎遠征は、僕の中に新たなフォーミュラをつくりあげたようだ。やはり、搭乗機のキャンセルは、心ゆくまで楽しむものだったのである。

2006年5月20日 (土)

四十代の問題

日曜日の早朝、宮崎へ向かう飛行機に乗るために羽田にやって来たら、搭乗便がキャンセルになっていた。すでにチエックインははじまっており、幾人かの乗客はすでに搭乗待合室に入っていたようだった。搭乗機の突然のメカニカルな問題による欠航によって、航空会社のカウンターは大混乱していた。他の航空会社へのエンドースといえば聞こえはいいが、実際はなかば強制的にバスで空港内を端から端まで移動させられ、再度のチェックインのためにバスを降りまたバスに乗りを繰り替えしていたために、出発は一時間ほど遅れてしまったのだった。団体の観光客と思われる人々が、口々に、そして聞こえよがしに航空会社の対応への不平を口にし、しばらくの間、殺気だった雰囲気が時間を支配していた。しかし、僕はというと、そのトラブルをひとり楽しんでいたのである。2003年の5月にも同じような経験をしていたからだ。それはニューヨークのJ.F.ケネディ空港でのこと。金曜日の夜、マンハッタンのジャズクラブ”Jazz Standard”での小曽根真The Trioのライブを聴き、翌朝帰国のために空港に到着すると、搭乗便がやはりキャンセルになっていた。その時の旅はというと、金曜の夕方にニューヨークに着き、その夜のライブを聴き、土曜日の午前中にニューヨークを離れるという強行スケジュールだったので、それを知った航空会社の職員が、これ幸いと気の毒がって、マンハッタンのホテルを準備するから翌日の便に振り替えるようにすすめてきたのだった。僕もしばし考えた。正直に言えば、もう一泊して土曜日のライブを聴いてゆきたかった。しかし、日曜日に帰国しておかないと、月曜日の仕事に穴をあけることになる。それが絶対に許されぬというわけではなかったが、しかし、一度仕事に穴を開けてしまうと、次のまたとないチャンス、それは小曽根さんにとっての、そしてつまりは僕たちファンにとっての、エポックメイキングなライブやコンサートがブッキングされた時に、僕自身が聴きに行くことをためらうことになってしまう。そのことが怖くて、その日は無理矢理他社便にエンドースしてもらって帰国したのだった。前夜のライブはほんとうにすばらしかった。ニューヨークの小曽根真は輝いていた。はるばるニューヨークまで来たかいがあったと心から思ったのだった。その日以来、僕にとって、搭乗便のキャンセルは、かけがえのないすばらしい音楽・演奏が聴けることの表象となったのであり、縁起が悪いものという文字通りの意味でのジンクスを、熱狂へと転換する方程式となったのである。そして、今回の宮崎旅行では、既にして行きの便がキャンセルとなった。それはとりもなおさず、これから宮崎で聴く小曽根さんのモーツアルトが、以前にも増してすばらしいものであることを約束してくれたようなものだった。僕だけにしかわからない遠征旅行のフォーミュラがささやいた甘美な預言は、もうその日の夕方には現実のものとなった。しかしその現実は、預言をはるかに超えて荘厳なものだったのである。

今年で第11回を迎える宮崎国際音楽祭は、総合プロデューサーであるバイオリニスト徳永二男氏のもと、指揮者シャルル・デュトワ氏をアーティスティック・ディレクターにいただく。そのメイン会場となる宮崎県立芸術劇場は、宮崎市の中心部から少し離れた総合文化公園の中にあった。県立美術館や県立図書館と連なるように造形された美しい建物である。1996年の音楽祭創設の際、音楽的な、そして精神的なとしてシンボルとしてこの音楽祭に深くかかわった故アイザック・スターン氏を顕彰するために、メインホールは「アイザックスターンホール」と命名されている。ウィーンの「ムジークフェラインザール」をモデルにした形式で、「シューボックスタイプ」と呼ばれる。要するに、靴箱のような長方形のホールの底辺に客席があり、二層に吊られたコの字型の桟敷席が低いステージを見下ろす形式なのである。宮崎県産のケヤキやミズメザクラを多用した快適な空間の正面には、壮麗なパイプオルガンがそびえ立ち美しい中に適切な緊張感を与えていた。もちろん、今日のコンサートもこのホールで演奏されるのである。この日のプログラムを示しておこう。

演奏会4「3つのメモリアル」

1 シューマン 「マンフレッド」序曲 op.115

2 モーツアルト ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調「ジュノム」K.271

3 ショスタコービッチ 交響曲第10番 ホ短調 op.93

この三曲である。

 宮崎国際音楽祭管弦楽団は、この音楽祭のために特別に編成されたもので、例えばバイオリンの漆原朝子・啓子姉妹などソリストとしても活躍中のトップレベルの音楽家たちと、海外から招聘されたUSBヴェルビエ・フェスティバル・オーケストラの若き音楽家たち、そして桐朋音楽大学に在学中の学生からなる講習生などからなる混成オーケストラである。わずか二日間のリハーサルを経て、すでに前日、同じアイザックスターホールでドビュッシー、ストラヴィンスキー、そしてラヴェルを演奏して、オーディエンスから喝采と賞賛とを浴びていた。その完成度と音楽性の高さは、マエストロ・シャルル・デュトワをして、このメンバーでツアーに出て、各地の音楽ファンにそのすばらしさを知らしめたいと言わせたほどである。小曽根さん自身、前日のコンサートを聴いてすっかり彼らの演奏に魅了され、音の美しさにノックアウトされたと言う。小曽根さんのピアノとの、極めて高いレヴェルでの対話、コラボレーションが期待される所以なのである。

 開演前、幸運なことに、僕たちはゲネプロを終えたばかりの小曽根さんにお話を伺うことができた。Tシャツでさっそうと僕たちの現れた小曽根さんは、まずオーケストラの音の美しさを指摘し、是非今日の演奏を楽しみにしていてほしいと語った。もちろん、いつものように「ピアニストはへぼやけどな」とつけ加えるのを忘れなかったのであるけれど…。僕たちの話題は、自然に前週に東京フォーラムで行われた「ジュノム」の演奏と、その後、小曽根さんがこのフォーラムに書き込んだメッセージに及んだ。「ジュノム」のすばらしい演奏ののちに、小曽根さんがなぜか内向し、自分と向き合わざるおえなくなったと語ったあの言葉についてである。小曽根さんは、問いに直接答えずに、新たに僕たちに次のようなエピソードを語ってくれた。昨年の暮れ、ブルーノート東京でミンガスビックバンドの公演があったとき、小曽根さんか彼らの音楽を聴きにでかけ、」バークリー音楽大学での同級生であるトロンボーン奏者Ku-umba Frank Lacyに再会した。小曽根さんは彼に、「最近、音楽を演奏していても昔のようにわくわくしないし、楽しくない。それはどうしてなんだろう?」と問いかけたのだそうだ。それに対するFrank Lacyの応えはこうだった。「それはね、まこと、40代特有の問題なんだよ。40代の音楽家の誰もが向き合う問題。音楽の問題じゃないね。君自身の心の問題なんだ」と。もっと若かったころは、新しい和音を弾くたびに感動していた。こんな美しい和音もある。こんな不協和音もある。これはどうだ。これは新しい。このように音のパレットがどんどん増えて行くことが楽しくてしかたがなかった時期があった。でも、今は、その無限に存在するように思われた和音のほとんどを知っており、自分の音のカタログの中にすべてがあるように感じられる。どんなに工夫しても、すべてどこかで聴いた音。そのようにして、自分の作る音に、音楽に、感動できない自分を発見し愕然としてしまった。「音のパレットを広げたことだけで満足してしまうミュージシャンはいくらでもいるよね。僕も、そうならないとは限らなかったと思う。でも、先週『ジュノム』を弾いて、確かに次の次元というか、次のレベルがはっきり見えたような気がするんだ。それは、音のパレットを広げることではなくて、自分が弾くひとつひとつの音の深さ、美しさをどこまでも追求すること…ひとつひとつの音の深さに連れていってもらえる世界に自分が行ってみること…これからの僕はその課題に向き合わなければならないと、『ジュノム』の演奏を通じて理解したんだ。」と小曽根さんは言う。他ならぬ僕自信も40代だから、自分の仕事や生き方の中での40代の問題はよくわかる、というか、とても身につまされる問題だ。しかし、小曽根さんのような天才的な音楽家が、僕たちと同じようにもがき苦しんでいたとは、想像だにしなかったことだった。クリエーションのレベルが違うから、小曽根さんと自分を比較したり、同一化するつもりは毛頭ない。だがしかし、小曽根さんの創り出すものが確かに「僕らの音楽」であることはわかる。「僕らの音楽」「僕らの時代の音楽」「僕らの地球の音楽」「僕らの命の源にふれる音楽」。話を聞いて、モーツアルトが、現代に生まれ変わるとしたら、やはり小曽根真という存在を媒介としてしかありえないと僕は確信していた。30代でこの世を去ったモーツアルトには、40代の問題などなかっただろう。でも、生きながらえていたら、きっと同じ問題に向き合っていたはずだ。モーツアルトを失われた生涯を生き直す小曽根真が僕の目の前で動きつづけている、そしてあまりにも率直に自らの思いを僕たちに語ってくれることに僕は深く感動していた。小曽根真の「ジュノム」はその個性的なカデンッアだけが見せ場ではない。ファーストノートかラストノードまでのひとつひとつの音が、命がけのドラマなのだ。

2006年5月14日 (日)

縁(えにし)

今週は、とても忙しい一週間だった。ひさしぶりに土曜日まで仕事。今日は、今秋出版される予定の参考書の作成会議だった。日本史と古文の講師のコラボレーションによる、受験一辺倒ではない新しいタイプの参考書を作るべく四人で侃々諤々。素材選びに手間取って午後一時にはじまった会議が、気づいたら八時近くまで続いた。僕の担当は、もともと専門の上代(奈良時代)と、ぐっと下って近世(江戸時代)である。近年、国公立大学の二次試験を中心に、近世の文章の出題が増加している。それは、大学入試センター試験に象徴されるように、受験生へのフェアネスに配慮して、近世の大量出版文化の中に埋もれたマイナーな作品に着目し、すべての受験生にとって初見の文章を出題しようする意志が出題者側に働いていることが一つの原因である。しかし、明治以来連綿として教科書を管理してきた文学部国文学科が、近年の人文系学問軽視の風潮と、文部科学省の強い指導に後押しされて、全国的に解体・再編されつつあり、その結果として、いわゆる国文学プロパーだけでなく、歴史学・社会学といった隣接諸科学、そして政治・経済といった社会科学系の学問の専門家までもが、入試問題作成に関わるようになったことも一因といえるかもしれない。以前なら、近世文といば、松尾芭蕉の俳諧・俳文であったり、文人の典雅な歌文集・紀行に限られていたものだが、今や、江戸期の都市の形成と旺盛な市民の経済活動などにも触れた、歴史的な背景知識がないと読解できない考証も多く出題されるようになった。例えば、金銭の貸借論、つまり具体的には、商都大坂の市民が借金を踏み倒す話などはおもしろいが、和漢の学問に通じた近世の知識人の、あまりにもペダンティックな漢籍の引用や凝りに凝った修辞などを前にすると、自分の知識の浅薄さを実感せざるをえない。近世思想史へのまなざしも当然要求されるところだ。しかし、法学部や経済学部といった社会科学系統の学部・学科では、古文の入試とはいえ、その専門分野に関連する政治・経済の話題が出題されるほうが自然なのであり、やっと日本の大学もまともになりつつあると言えるのかもしれない。こうした文章を、日本史の講師に教えを請いながら読み進めてゆくと、はじめて気づき理解できるところが大変多い。参考書をつくりながら、一番学んでいるのは僕自身であることは間違いなく、学ぶことの感動と喜びが行間にあふれるならば、きっとよい参考書ができるだろうと思う。だから、相当にタフな仕事になるには違いないが、これからの数ヶ月参考書づくりを心から楽しもうと思っている。

雨の帰途、日本史のI先生のクルマに便乗させていただいた。I先生は、50台後半になっってから教習所に通い、免許を取得するやいなやドイツ製のスポーツカーを購入した。そしてその運転はスポーツカーに似つかわしくアグレッシブでスパルタンだった。元祖ちょいわるオヤジ風のI先生には大変なカリスマ性がある。それが、この行動力にあることを僕は改めて理解したのである。I先生は、団塊の世代に属しているが、今でも時々僕たちに向かって「俺はおまえらの世代には絶対に負けないからな」と挑発的な発言をしたりもするのだが、その敵愾心の強さが、なんともいえない色気とチャーミングさを醸し出しているから不思議だ。僕たちも、彼らに一生負け続けているわけにはいかない。

僕が、国文学の世界に志したのは、高校一年生の秋に岡野弘彦著『折口信夫の晩年』(中公文庫)に出会ったからだ。不世出のポエタ・ドクトゥス(詩人学者)折口信夫の晩年を、生活を共にしながら看取ってゆく学生岡野弘彦の描く、あまりにも濃密な師弟関係に僕は震撼し圧倒された。そして、僕自身も岡野弘彦の弟子になりたいと思ったのだった。数年後、僕のこの小さな願いはかなえられた。一浪して入学した大学の講義で、岡野先生の第一声を聴いたあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。この岡野弘彦が、大学の予科に入学しようとしたとき、それは太平洋戦争のただ中のころであったが、面接官であった陸軍の将校が、岡野青年の入学に難癖をつけた。その時、もうひとりの面接官がこう言い放ったのだそうだ。「この青年がこれほどまでに入りたいというのだからそれでいいじゃありませんか」と。軍人にたてつくというのは勇気のいることだ。が、このひと言のおかげで、岡野青年は大学に入学し、折口信夫と出会うことになるのである。そして、その面接官が、I先生の父上なのであった。「おれのオヤジがいなけりゃ、岡野さんは大学へ入学できなかったわけだ。岡野さんがいなけりゃ、今のおまえもない。だから、うちのオヤジがいなけりゃ、今のおまえはないということだな」と笑う。見事な三段論法である。僕が、今の予備校に入ったとき、I先生はすでにカリスマ講師だった。だから若手の僕は、しばらくの間口さえ聞けなかった。だから、十年ほど前にこの話を聞いて、僕はその浅からぬ縁に未だに感動し続けているのでもある。僕の一生を変えた本の主要な登場人物の息子さんが、今僕の隣でハンドルを握っているのだ。一緒に参考書をつくっているのだ。不思議な縁というものは、実際に存在している。

まもなく日曜日の朝だ。夜が明けたら、僕は宮崎に行く。宮崎国際音楽祭で、僕が敬愛するジャズピアニスト小曽根真さんとシャルル・デュトワが、モーツアルトの協奏曲「ジュノム」で共演するのである。聞きにゆかないわけにはいかない。四十歳の秋に、僕は小曽根真さんとその音楽に出会った。今に至るまで小曽根さんの言葉と音楽にどれだけの慰めと雪をを与えられたかわからない。僕が、小曽根さんの主宰しているフォーラムに投稿した過去のライブレポートは、友人のしば姫さんがご自分のHPで管理してくださっている。このブログからもリンクをらせていただいたので、もし興味がおありでしたら、ご覧いただけると幸いです。

みなさまに感謝!

2006年5月 9日 (火)

「添削」はじまる!

スポーツジム「R-body project」が、肉体に関する優れたパーソナルソリューションを提供していることは、すでに述べたとおりである。若く意欲に満ち専門の知識を豊かにもったトレーナーたちに導かれて、僕もこの一年半トレーニングを続けることができた。結果から言えば、僕の肉体に起きた変化は予想以上のもので、ある意味で「生」の局面が変わったとさえ感じられるほどである。しかし、「R-body project」の魅力は、ヒューマンリソースのすばらしさにとどまらない。そのシステムと、それを支えるコンセプトが大変ユニークで優れたものなのだ。会員は毎月SOAPという身体計測とカウンセリングを受ける。身長・体重・体脂肪率などの客観的なデータの計測にはじまり、身体各部の運動機能、姿勢などが画像のよって記録され、データベース化される。そして、そのデータを見ながら、資格を持つアスレチックトレーナーが、ひとりひとりのクライアントと対話し、細かいアドバイスを与えながら翌月のトレーニングメニューを作り上げてゆくのである。詳細な分析によって、長期と短期の目標をふたつながら同時に示す。実に合理的で無駄のない、至れりつくせりのシステムといえよう。もちろんそれなりのコストはかかる。僕にとっても、入会には清水の舞台から飛び降りるくらいの決断は必要だった。今でも、身の程知らずだと思わないわけではない。しかし、この一年半の経験をトータルに評価すると、コストパフォーマンスはきわめて高いと言わざるをえない。なにしろ、「R-body project」は僕の「生」の局面を変えてしまっうほどの最終兵器なのだから…。

最高のサービスをひたすら享受し消費することは、ほんものの成功者、お金持ちにまかせておけばいいことだ。僕は、サービスを受ける以上に、ここから真剣に学ぼうと思った。そして、何かを学ぶことができれば、会費などのコストは、授業料にもカウンセリング料にも、また投資資金にもなるのである。もちろん、僕が学ぶのは、トレーニングの技法ではなく、広い意味でのマネジメント、教育的マネジメントなのである。これも前に述べたが、僕は小学生のころから、すでにして体育の評定で五段階評価の2をつけられていた劣等生である。もとろん運動能力はプアだが、それ以上に運動への意欲が全くない。スポーツらしいスポーツもしたことがない。そんな中年のクライアントに、高いモチベーションを与え、週二回のトレーニングを習慣づけるというのは、そう簡単なことだとは思えない。小さく具体的な目標を与え、それをクリアすることで達成感をもたせ、その小さな成功体験が、全体のビジョンの中でどういう意味を持つのかということをクライアントにきちんと納得させること。そして、クライアントに常に感動を与え続けること。これは、僕たち予備校講師にも全く共通した課題なのである。

教育の分野でもパーソナルサービスが、つまりは個別指導とか家庭教師のような形態が、苦手科目攻略の最善の方法だと僕は公言してはばからない。生徒にもそう言っている。教師というものは、その専門科目においてかつて優等生だった者がなることが多い職業である。だから、できない生徒の気持ちがほんとうの意味ではわからない。どこが、なぜわからないかも、わからないことすらある。僕もかつてそうだった。毎日二百人ほどの生徒を前にして講演会のような授業をしていると、その「できない・わからない」現実を見ないですむ。だから、何割かの生徒を確実に授業から疎外し、置いてけぼりをくわしてきたのだと思う。もっとひとりひとりの生徒に寄り添うことはできないか、ひとりひとりの「できなさ・わからなさ」に光をあて、彼らのモチベーションを上げ、しかも現実に効果をあげる方法はないかと、思っていたところだった。だから、「R-body project」のパーソナルソリューションのすばらしさには、感動した。そして、ひとりの教師として震撼した。こんな確実な学習法があることをすべての受験生や保護者が知ったとき、僕たちの今の仕事が成り立つのだろうか…いや、よしんばコストの面での要求によって今の一斉授業の形態が続いたとしても、おそらく旧態依然たる方法として、低い価格設定をよぎなくされ、同業他社との価格競争に陥ることは必至である。そんな低い足音が、ひたひたと近づいてくることを感じていた。折しも、僕の小学生の息子たちが、個別指導の塾に通い始めたのである。ときどき息子を迎えにゆくたびに、その塾は生徒の数が確実に増加しているようだった。

さて、僕が今ただちにできることは何か、そう自分に問いかけた。もちろん、予備校のシステムの都合上、いきなりパーソナルサービスに移行することは無理な話である。前にも書いたように、今年度僕が担当する最大のクラスは約170人の生徒が在籍している。全員を対象とすることなど考えられない。そこで古くからある教育技法「添削」をリニューアルし、システム化してみることにしたのである。国公立大学の二次試験には、論述型の設問が多く出題される。生徒が予習でつくりあげて来た解答を、授業後「添削」する、これが古くからの手法。僕は、生徒が予習でつくりあげて来た全文解釈を、授業前にチェックする方法を試みた。古文が長文読解科目である以上、解釈力は養成は必須のポイントといえる。そして、これなら、国公立クラスでも私大クラスでも関係なく実施できる。生徒たちは、テキストの本文の横に、一語一語置き換えた現代語を書き、「逐語訳(ちくごやく)」を完成させて僕のところへ持ってくる。午前8時の開校時間から受付を開始して、8時半で締め切る。それからの僕はというと、30分で十数枚集まったそれを赤ペンとマーカーとでチェックし、コメントをつけて授業5分前に生徒に返却するのである。正直全力疾走でへとへとになる。時間との勝負だ。でも、それをすることで、僕自身には豊かなフィードバックがある。生徒がどこで間違いやすいか、どう間違えたかをつぶさに見、それを新鮮なまま授業運営に生かせるからだ。生徒はというと、自分の間違えたところにマーカーがひかれているテキストを見て、めりはりのある受講ができる。間違えたところに、最大の集中力を発揮すればいいというわけなのである。お互いが、ちょっと頑張って早起きをすることで、共同体意識が生まれ、コミュニケーションがとれる。授業に対してよりアグレッシブなモチベーションが持てるようになるわけである。かつて、「添削」の横には、気合いを入れるために「頑張れ!」と書くのが常。「あと一歩!」と書くこともあった。でもそれを、「R-body project」のSOAPに学んで、チェックシートの添付に変更してみた。あなたが間違えたのは、この助動詞の意味の判定を間違えたからです、この助詞を見落としたからです、この単語を覚えていないからです、あなたは敬語の知識が全くありません、など。具体的な分析とメニューを示す。そして、短期的なプログラムづくりである。チェックシートの作成など準備に手がかかるが、教師である僕自身に、生徒から豊かなフィードバックがある。人は間違いからしか学ばない。とてもおもしろい、だがタフな仕事である。

「添削」をしていると、つくつく人には個性があるものだと思う。とても客観的な評価をしているはずなのに、ひとりひとりの生徒の顔が浮かんでくる。おつちょこちょい、小心者、楽天家、天才肌…全部全文解釈に出てしまうから不思議だ。「あなたは単語力が足りないね」。一週目は安堵する。二週目はまたかと落胆する。三週目になってやっと勉強がはじまる。それが普通の若者である。それでいい。それがいい。

四週目の今日、国公立のクラスでは「添削」持参の生徒が現れはじめた。みんな時間が守れない。はあはあ息をきらせながらやってきて、「先生、今日は遅くなったんですけど…」と言い訳する。「いいよ、今日だけね、来週から時間守ろうね。8時から来てますから」。安心して笑顔が戻る。だって、帰れとはいいにくい。僕だってかつて遅刻の常習犯だった。昔の自分とつきあっているのだ。全文を丁寧に単語にわけで数時間かけて丁寧に全文解釈した生徒がいた。朝忙しい僕のことを慮って、次の週の全文解釈をもってきた生徒もいた。なんていいやつなんだろう!そして、全文解釈の横に僕の似顔絵を描いて来た生徒もいた。つくづく教師は報われやすい職業だと思う。頑張るしかない。現代の若者、決して捨てたものではないのである。

2006年5月 8日 (月)

名づけの精神史

早朝に目覚めてこの文章を書いている。この週末は、さすがに疲れたのか、昼間からうとうとばかりしていた。しかし、夜寝ると、授業ではない、なぜか一般向けの講演に遅れそうになる夢ばかり…。講義で使うスライド(古い!今時はパワーポイントである。)が見つからない。講演後には海外旅行への出発が控えているというのに…だ。相当ストレスがたまっているのだろう。あまりにもわかりやすすぎる夢で、目覚めてから笑ってしまう自分がいる。こんなに本人に簡単に理解できるのなら、精神分析医などいらない。

先週、高校生たちに「夜明け前」に関する言葉を教えた。あかつき・あかとき・あした・あさまだき・しののめ・いなのめ・おしあけがた・つとめて・夜のほどろ…。早朝の美しさのように言葉も美しい。そして、多彩だ。

「君たちの中に朝型の人いますか?朝早く起きて勉強している人。夜更かしして受験勉強する、いわゆる夜型の人は多いけど、今時朝型人間は少ないかもしれません。僕なんか年寄りだから、朝早く目覚めちゃう。仕事や予習はいつも早朝です。だいいち、満員電車がこわいので、毎日六時過ぎには家を出ます。だから、だいたい毎日四時くらいには起きて、夜明けを迎えることになります。早起きって気持ちいいんだぜ。新聞配達のバイクの音が聞こえるころ、窓からうすぼんやりした光が差し込んできて、やがて窓全体に広がる。窓を開けると、冷たいきれいな空気が流れ込んでくる。とても素敵な時間です。君たちの勉強も朝型に変更することをすすめますよ。勉強の能率があがりますよ。」

「でも…もしかして君たちが朝型人間になって、早朝に勉強することになっても、やはり新聞配達がやってくる時間だと漠然と認識するだけで、美しい名前をつけようなんて思いもしないのではありませんか。「夜明け前…それでいいじゃないか…」そう思うのが普通だと思います。でも、奈良・平安時代の日本人は、この時間に、たくさんの美しい言葉をつけている。なぜなのでしょうね。ひょっとして彼らが暇だったのでしょうか?あるいは全員が詩人だったとか…どう思いますか?」

「僕は、大学生のころ、言語人類学者の先生から、『サピア=ウォーフの仮説』というものを習いました。サピアとウォーフという二人の人類学者が、共同で提出した仮説です。仮説というからには、まだ客観的に証明されていません。どういう仮説かと言うと、『ある文化にとって重要だと思われる事柄については、それを表す語彙数が増える』というものです。西サモア諸島では、ここは漁業で生計をたてている島なんだけれども、海の特定の場所に名前がつけられているというのです。僕たちなら「西北西の沖合5キロの位置」などと表現する場所を、例えば「青山」と名づけている。(海に山って名づける人はいないでしょうけれど…)。その島で「青山」と言ったら、島民たち全員が「あの場所だ」とイメージがわくのだそうです。もちろん、ただの大海原なんですよ。ここからわかることは、人間というものは、自分にとって、自分たちにとって大切だと思うものに対しては、名前を与えるという原理なんです。ほら、君たちにもひとりひとり固有の名前がついているね。これは、ご両親が君たちがうまれたときに、この子が将来こんな子になりますようにという願いをこめて、君たちに名付けをしたんです。ご両親にとっては、君たちはかけがえのない存在なんです。だから、名を与えた。犬だって「犬」って言っているときにはかわいくないけど、「こころ」(あっ、これが家の犬の名前です。雄のミニチュアシュナウザーなんですけど…変ですか?)って呼ぶともう世界一かわいい。かわいくてしかたがない。名付けは、愛情の表現でもあります。」

「じゃ、古代の日本人は、なぜ『夜明け前』にこんなにたくさんの美しい名前を与えたんでしょうか…。たぶん、それは彼らのこんな生活習慣のためでした。君たちは、当時の結婚の形態が『通い婚』あるいは『妻訪い婚』だったことは知っているでしょう。男女二人は一緒に生活せず、男が女のもとに通い一夜を過ごす。しかし、これには厳密なルールがありました。男が女のもとを訪問する際は「月明かり」のもとで行うべし。当時、都大路にも街路灯はありません。しかし、たいまつをつけて徘徊してはいけなかったのです。闇夜には通えない道理です。だから、男も女も満月の夜を待っていた。彼らが、『望月・十六夜月・立待月・居待月・臥(寝)待月』と、満月の夜から19日の夜まで、この五日間だけに名付けをしているのは、当然といえます。では、『夜明け前』はなぜ大切だったのか。女のもとで一夜を過ごした男は、必ず「夜明け前」に自宅に戻っていなければなりませんでした。いわゆる『朝帰り』はもってのほか。とりわけ、結婚を正式に宣言しないうちにそんなことをすると、一生ダメな男という烙印を押されるようなものだったんです。だから、『夜明け前』にこぞって帰った。そして、自宅に帰ってから『後朝の文(きぬぎぬのふみ)』というラブレターを書くのです。それが恋愛のマナーでした。だから、『夜明け前』は男が帰る時間、別れの時間、男女が一緒にいられる最後の瞬間でした。ロマンチックで切ない時間を、美しい言葉で表現するのは、人間として当然のことだと思いませんか。」

「恋愛ってすばらしいものです。君たちも、もうその経験がある人もいるだろうし、これから経験する人もいるでしょう。恋愛は誰もがするものだし、誰もをロマンチックにします。受験生である今は恋愛に逃げてはいけませんが、いずれ近い将来誰もが味わうことになる美しい感情の世界です。古代人のその思いが、『夜明け前』という言葉に結晶している。そう思ったら、古語にも少しは親近感を感じられるのではないかと僕は思いますよ。」

「ついでに言いますが、君たちの中には、文法用語のような何かを説明するための言葉に拒否する人がたくさんいます。難しい漢語は見るのもいやだとかね。でもね、人間はずっと昔からひとやものやことがらに『名付け』をすることで、認識してきた歴史があるんです。『名付け』ることではじめて相手が認識できる。愛することができる。相手とコミュニケーションがとれるのです。だから、多少面倒くさいでしょうが、僕がこの授業の中で使う用語『接続・係り結び・連体中止法・一連の述語』などは、覚えてくださいね。そのひとつひとつに、名前が示す独特の世界があるのです。それを共有しないと、君たちは教室の中でただひとり異邦人になってしまいますから。僕はこれから何度も言いますよ。『名前をつけたらおともだち』。ようするに、すべてはコミュニケーションの問題なんです。自分と違う世界とつきあわないと楽しくないじゃないですか。『名前をつけたらおともだち』。」

文章を書いているうちに、夜がすっかり明け切ってしまった。大型連休明けの月曜日、今週も頑張ろう。

2006年5月 4日 (木)

歌道執心

世の中こぞって大型連休中で、今年は天候にも恵まれて毎日大変な人出だが、僕の所属する予備校では、この期間カレンダーどおりに授業が行われ、休みは一切無い。やっと勉強の習慣が確立し、受験生としての自覚ができたところでの連続した休暇は、精神と肉体とを一気に弛緩させ、かえって逆効果になるということだろう。あるいは、受験生としての覚悟を決めさせる「踏み絵」の役割を果たす…そういったイニシエーションの意味もあろう。とりわけ浪人生にとっては、家族連れや山歩きの人が散見するガラガラの電車に乗って登校するわけで、自分が社会的には少数者の立場に立ったこと、外国人の目で社会を眺める存在になってしまったことを、強く印象づけることになる。それは、約10ヶ月間の短期留学のはじまりを高らかに告げる鐘の音でもあるのだ。僕はというと、満員電車から開放されることを無条件で喜び、それでもなぜかいつもの時間に家を出る。今日はクルマで津田沼へ行ったが、帰途高速湾岸線の渋滞(TDLからの帰宅渋滞)に巻き込まれ、少しだけイライラした。そうとう疲労は蓄積されてきているものの、トレーニングを続けているせいか体調は良く、心地よい筋肉痛はあっても、思考を妨げるような頭痛・肩こりなどはない。僕自身の精神と肉体も、新しい局面を迎え始めたようだ。集中力をさらに高めて、生き生きと快活に暮らしたいと思う。いつも厳しく肉体を追い込んでくれる素敵なトレーナー諸君に感謝!

『方丈記』の作者鴨長明の歌論『無名抄』は、「歌道執心(かどうしゅうしん)」の話を多く収める。文字通り、和歌の道にひたすら執着し、すばらしい作品を残すことに生涯をかけた芸術家たちの話である。「執着(しゅうじゃく)」は、古代・中世を通じて日本社会の思想的・宗教的基盤であった「仏教」では完全に否定される。権力欲・名誉欲・金銭欲・食欲・性欲・愛欲…人がそれらに「執着」するがゆえに、人は不幸になる。死んでしまった最愛の夫に会いたいがために、石になった女の話がある。彼女の死後も魂は現世(げんぜ)に残り、ついには成仏できない、それは人として最低のことだと説く。「妄執(もうしゅう)」とはそのようなことを言うのである。現世において欲望をすべて捨てよ、仏に帰依し出家をせよ、それが唯一の極楽往生の道である…仏教とは本来そう教えるラディカルな宗教だ。中世の人鴨長明も、自らものした仏教説話集『発心集』でそのように説いている。ただし、「歌道執心」の人だけは別である。

平安時代に登蓮法師という歌人がいた。ある雨の日、登蓮法師とその友人たちが集まって話をしていた。登蓮法師は皆に問いかける。「ますほの薄というのはどんな薄なのか」と。和歌の中で慣用的に用いられる「ますほの薄」の由来を知りたいと思ったためである。ある老人が、「渡辺というところに、その事を知る高僧がいると聞いたことがある」と言った瞬間、登蓮法師は無言になり、「蓑と笠を借してください」と願い出る。話を中断し、出立しようとする登蓮法師に、友人たちはその理由を問うと、登蓮法師はこう言った。「渡辺にゆくのです。長年不審におもっていましたことを知っている人があると聞いて、どうしてそれを尋ねないでいられましょうか」と。「それにしても雨が止んでから出発なさいませ」と友人たちは諫めるが、登蓮法師はこのように言い捨てて渡辺に向かうのである。

「いで、はかなき事をものたまふかな。命は我も人も、雨の晴れ間などを待つべきものかは。何事も今静かに」(なんとまあ、つまらないことをおっしゃるものですね。命には限度があります。私の命も、またその方の命も、雨の晴れ間などを待つものとは限りません。晴れ間を待つ間に、どちらかの命が失われるかもしれないのです。何事も、今ただちに静かに行動するものです)。

「この話、もし今君たちに明確な何かしたいという目標があり、それに向かってひたすら努力していたらなら、すごく理解できるはずだよね。例えば、音楽や絵画などの芸術や、スポーツ、それ以外の学問でもいい。ほんとうにやりたいことがあったら、ひたすらそのことばかりを考えるはずです。そして、まず身体が動く。登蓮法師はそのような『執心』をもっていたわけです。『執心』は仏教では完全に否定されるけど、受験生には必要だと思う。そうでなかったら、予備校に来る意味なんかなくなる。でも、この登蓮法師のように強い『執心』ではなく、ただなんとなく大学に行きたいなあ…くらいの弱いモチベーションの人が多いのも事実ですね。君たちも、ちょうど自分の将来について考える時期だから、自分にひきつけてこの登蓮法師について考えてみてください。彼のこの高いモチベーションは、彼に特別の才能があったからなんだろうか、つまり彼はある種の天才なのだろうか、どうでしょう?僕は、才能と努力についていつもこの話をします。タイガー・ウッズという天才的なゴルファーがいるよね。彼は、努力の天才ともいわれます。ゴルフが好きで好きで、朝から晩までゴルフのことばかり考え、練習を重ねている。試合でパターの調子が悪かったとき、彼は日没で球が見えなくなるまで練習をしているといいます。天才と呼ばれる人間が一番最後まで練習をしている。才能とは努力だ…と言ってもいいかもしれないよね。もうひとり、これは日本人のダンサーなんだけれど、イギリスのロイヤルバレエ団で初めての日本人プリンシパルになった熊川哲也という人がいます。今、Kバレエカンパニーという集団を率いています。彼は、『あなたはどうしてプリンシパルになれたんだと思いますか』という問いに対して『才能だね』と答えました。僕は、そのインタビューを見ていて、なんて不遜な人間なんだとも思ったのですが、あとで彼は本の中でこう語っています。『ロイヤルバレエ団でトップダンサーになるためには、練習にすべてをかけ、個人ができる限りの努力をしているのなんか当然のことなんです。だから、そのなかで自分だけがプリンシパルに選ばれた理由を問われたら、才能だと答えるしかない。でないと、他の人の努力に対して失礼でしょう』と。僕は、努力と才能をめぐるこのふたりの議論は、実は同じことを言っているような気がしています。ただ、一度君たち自身で考えてみてください。自分には才能がないから、この道に進めないんじゃないか…そう思っている人も多いと思います。でも、才能とうものが、まず努力する才能…つまり『執心』にあるとしたら、まず自分の内側にその情熱があるかどうか問いかけて見るべきでしょう。やってみて、『我に才無し』と思ったら、思えるまでやれたら、それは幸せといえるんじゃないでしょうか。是非、今年、今この時だからこそ考えて見てください」。

僕など、才能の無い人間の典型だけれど、だからこそ生徒たちに言えることもある。ちょっと挑発的にはなすと、目が輝き出す生徒と、目をふっとそらす生徒がいる。それでいいと思う。でも、「執心」の芸術家には、今でもあこがれている自分がいる。谷川俊太郎が武満徹についてこう言っていた。「彼は僕とあうと、突然こないだ見た映画の話を堰を切ったように話し出すやつでした。あいさつもせずに」。そういえば、大学生のころ、ゼミが終わって大学から駅の間、つまらない世間話をしている僕たちに向かって、ある先輩がこう怒ったのだった。「お前らはなんで帰り道にそんなくだらない話をしながら歩いていられるんだ。ほんとうに文学に心奪われているのなら、今までゼミで話していた話題をしながら帰るのが本当じゃないか。」あの時は、ただの難癖だと思ったが今ならわかる。「執心」とはそうことなのだと。

「君たちは、入試のために無理やりやっている古文を『文学』とは思わないでしょうね。僕も予備校で『文学』を教えようとは思わないです。でもね、「執着」が完全否定される中世に、「歌道執心」の話が残り、そして「執心」を称揚していた人がいたことだけは忘れないでください。なぜだと思いますか?それは、やはりこの作品が『文学』だからなんです。芸術家には芸術家の心がわかる。志ある者には志がわかるってことです。そのことだけ、忘れないでいてくれればうれしいです。余計なことを話ました。」やはり、僕は「歌道執心」について語ることが好きなのだなと思う。

2006年5月 2日 (火)

芭蕉・聖書・道元

日曜日のゼミナールは、大変スリリングで有意義なものだった。英語のA先生の主宰する「ドストエフスキー研究会」のシニアクラスには、大学二年生以上の、本物の学問に志す者たちが集う。大学生、大学院生、そして僕たちのような社会人が加わり、年齢や経歴を越えて真剣にテキストに向き合う。資格・学歴賦与とはなんら関係ない、いわば志の共同体といってよい。僕は、三年前からこの研究会に参加させてもらっている。

タイトルにあるように、本来はA先生の専門であるドストエフスキーを、とりわけここ数年は『罪と罰』を読み解く研究会なのだが、ドストエフスキーの厳しく深遠な思想世界に分け入るために、聖書を読み、芭蕉を読み、道元を読んでいる。比較文学・比較思想と説明できなくもない試みだが、僕たちが実存をかけて古典の世界に立ち向かうための、その回路を開いているのだともいえよう。この研究会では、メンバーに徹底的に思考することが求められる。テキストと自分が向き合い、考え抜いた言葉だけが重視され、手慣れた学問的手つきで処理した言説、あるいは諸学説の羅列などには誰も見向きもしないのである。僕など、国文学的かつ文献学的なアプローチの方法が大学院生のことから染みついているが、そんなセミプロの小さくまとまったレポートについては、メンバーから厳しく吟味され、考え直すことを求められてきた。研究会の途中で絶句したこともしばしばである。

「野ざらし紀行」を担当するOさんは、母の死をきっかけに松尾芭蕉の世界に出会った。彼の最初にしたことは、岩波文庫を買い、芭蕉の残したすべての俳諧を暗記すること。実に千句以上にもなる。彼はいまだに、注釈書の類を手にとろうとしない。芭蕉の人生と、自分の人生が切り結んだ瞬間をとらえ、その思いを、彼の肉体と精神のうちにある芭蕉の俳諧とともに、言葉としてほとばしらせる。ときに彼の言葉は激しく厳しいが、古典を血肉化するとはこういうことなのだと改めて思い知らせてくれたのだった。

聖書については、四つの共観福音書を比較研究することから明らかになった、「Q資料」と呼ばれる原資料を読んでいる。キリスト教的な信仰的なドグマや教義をいったん棚上げにし、イエス・キリストの肉声に迫る。そして、近代人である僕たちが、テキストと合理的・客観的に向き合った上で、なお聖書の言葉やそこに描かれたイエス・キリストの生命感が、僕たちに問いかけてくるもの、僕たちに生き直すよう迫るもののがあるのかどうかを考えている。今月は、イエスの宗教的先行者「洗礼者ヨハネ」の言動がテーマだった。ヨハネは「悔い改めの宣教」を行ったが、彼のつかんだ「神感覚」とは何だったか、二時間にわかって議論は進んでいった。四人のリポーターが、数回のサブゼミを行った上で研究会に臨んだ。テキストと向き合い、ヨハネのつかんだ神感覚をとらえようとする。神の実在をつかんだ者だけが得られる「開放感」が読み取れるとするレポーターに対して、それは「開放感」を前提にした議論で、ヨハネの言葉には「無」しか読み取れないと厳しい意見が提出される。吟味につぐ吟味で、聖書の言葉は「聖性」をはぎとられ、「虚無」の淵に追い込まれるように見える。やがて、議論は「無」とは何か…という問題にまで到達した。ニヒリズムが部屋全体を覆いつくしそうになる。そこで、メンバーのひとりがこう言った。「でも、それでも、このヨハネの言葉の持つ言葉は、生命感にあふれ、神を実感としてつかんだ者の真実の言葉のような気がします。神によって徹底的に裁かれ、無にされる感覚が、ヨハネの中に開放感をもたらし、それが彼にとっての救いとなってゆくのではないですか」と。議論は、再び息を吹き返し、僕たちは「神感覚」の実相へと向きあうことになった。

僕は、とても感動していた。そして、こう言った。「まるで傍観者の感想のようになってしまって申し訳ないのですけれど、僕は今のこの場での議論自体にドラマがあったように感じました。言葉や観念を徹底的に吟味し、いらないものをそぎ落とし、虚無の淵まで議論が行きました。僕はどうなることかとひやひやしていました。でも、そのぎりぎりまで行ったその先に、やはり開放感が見え、神感覚が見えててきたじゃないですか。やはり、この聖書が、そうゆう読み方を強いてくるテキストであり、そこがすばらしさの所以じゃないでしょうか。そして、僕たちが二時間にわたってした議論そのものが、論理のドラマであり、ヨハネと神感覚を共有するという経験だったのではないでしょうか。僕はとても感動しました」。僕はひとりでする読書が好きだが、こうして皆で切磋琢磨しながら読むことにも、大きな意義があると思った。そして、多くの若い友人たちから大切なことを教えられた。

そのあと、僕の道元のレポートがまわってきた。僕は、道元が悟りを表した「やどる」という言葉に注目した。小さな一滴の中に、月のすべてが、天全体が「やどる」というのが道元の論理だ。「やぶる」ではない。逆に、キリスト教は、洗礼者ヨハネからイエスに続く宣教の中で、調和や平安を「やぶる」ながら、人々に変革をし、生き方を変えるように迫ってきたのであった。この「神認識」の差をどうとらえるか。道元の悟りを、スタティックなものとしてみていいのか。それが、僕の次の大きな課題となった。聖書と道元とが、僕の中で共振しはじめている。僕にはその実感が確かにある。

メンバーの中に、三年前に僕が教えたことのある大学生がいた。彼が帰り際に僕にこう言ってくれた。「僕は、道元のことばをとても美しいと思いました。今まで、こういうものがあるんなんて全然知りませんでした。とても感動しました」。彼に、この道元の言葉を教えなかったのは、ほかならぬ僕自身である。僕は自分を深く恥じながら、でも、彼の言葉の重みに心が震えていた。僕は、やはり、古典の教師を目指さなければならない。僕は、彼に「ありがとう」と答えるのが精一杯だった。

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