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2006年4月30日 (日)

道元のことば

三年ほど前から、ある研究会で道元の『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)を読んでいる。冒頭の「現成公安」だけを二年かけて読み、一応最後までいったのだが、よくわからないところが多いので、もう一年かけて読み直そうとしているところだ。永平寺の開祖道元は、中国への留学経験もあり、漢語・和語を巧みに駆使し、自らの宗教体験を語る。天才肌の宗教者の言葉は、具象をそぎおとした抽象的かつ簡潔なもので、僕たち凡人の解釈を拒絶しているかのように見える。ほんとうに何度読み返しても難しい。注釈書・解説書の類は無数にあるが、道元を素材に著者自身の考えや経験を語ったものが多く、道元の言語世界に切り込んだものはとても少ない。自分で考えるしかないのである。

今日は午後から研究会がある。今日僕が読むところは、次のようなものだ。

「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙(けいげ)せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点(けんてん)し、点月の広狭を弁取すべし。」

「人が悟りを得るのは、水に月の映るようなものである。月も濡れないし、水もわれない。(月は)広大な光であるが、ほんのわずかな水にやどり、月天のことごとくが、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。悟りが人をそこなうことがないのも、月が水を穿たないのと同じである。人が悟りをこばむことのないさまは、一滴の露が月天をこばまないことにひとしい。(悟りの)深さは(悟りの)高さの尺度である。だが、(悟りの時には)年月の長短など関係ないことは、水に大小の区別がなく、(映る)月天に広い狭いの区別がないことを考えてみるとよくわかるだろう。」

僕たちのような悟らざる者に、道元の「悟り」認識がわかるのか、はなはだ疑問だが、簡単にわからないからこそ、何度も読むことに挑戦したくなるのだろう。今日の研究会では、聖書と道元とを比較しながら読むので、僕にとっては手慣れた国文学研究の手法は通用しない。言葉の用例を羅列して、この文脈ではこういう意味になる…といったテクニカルな読み方は、拒絶される。この二週間ほど、漠然と考えてきたことを、これから数時間掛けてまとめ、レポートしなければならない。タフな仕事である。

それにしても、こうした道元の言葉は、学校で決して教えられることはない。古文でも、おそらく日本史でも。この言語世界を、岩波文庫のなかだけにとじこめておくのは、実にもったいないことで、なんとか若者たちにこの世界のことを知らせたいと思う毎日だ。しかし、それにはまず自分の読み考える生活が充実していなければならない。さあ、集中、集中。

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