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2006年4月15日 (土)

格差社会って何だろう?

急ぎで提出しなければならない原稿があるというのに、午前中ジムに行ってきた。

昨夜は、持病の首のこりが激しくて、痛みで何度か目がさめたほどだ。主に目の疲れが原因だと思うが、これは仕事柄あきらめなければならない。今まであらゆる医療・民間療法を試したが、一時的に回復することはあっても、根治はかなわぬことだった。一昨年には週に一度はひどい頭痛がして、仕事が手に着かないほどにまで悪化した。いよいよ最後の最後の選択肢としてジム通いをはじめたのは、そのためだ。なにしろ、小学校時代に体育の成績が五段階評価の2だった僕である。できるだけ運動などしたくない文弱の徒が、重い腰をあげるためにはたいへんな決意が必要だった。通い始めて一年数ヶ月、今では、調子が悪いときほど運動をしたほうがよいということが身に浸みてわかっている。筋肉は内側からほぐさなければだめらしい。この認識を得ただけでも、僕にとっては革命的なことだった。

今日の僕の担当はN君。僕の通うジムでは、トレーナーは当日割り当てられることになっている。N君はメンバーの間で「鬼」と恐れられているほど厳しい追い込みで有名だが、どうせやるなら厳しいトレーニングの方が心地よいわけで、ファンも多い。僕もそのひとりだ。しかし、身体の調子がもうひとつの時に彼が担当になると、果たして自分の身体がついていけるのか若干心配になるのも事実。どきどきしながらトレーニングに入った。

トレーニングの半ばにベンチプレスがセットされているのだが、僕の現在のウエイトは35キロ、1セット12回を2セット行うわけだ。体調によって途中でつぶれてしまうこともあるが、今日は調子よく2セット目も12回をこなしたら、N君が「あがらなくなるところまでやってみましょう!」といって13回目をコールする。結局、14回目でサポートに入ってもらってこのメニューは終了した。「この状態がオールアウトっていうんですか?」と僕が聞くと、彼は、「確かに、もうウエイトがあがらなくなった状態をふつうオールアウトって言うんですけど、でも本当に筋肉を完全にオールアウトしたかったら、どんどん負荷を下げていって、例えば、最終的には、膝だちで腕立て伏せをして、もうあがらないというところまで追い込んでゆくんです。もうできない…というところまで追い込んでやると、筋肉が傷ついて、次にもっと大きな負荷に耐えられるように、大きな筋肉ができてくるんです。それを、超回復というんです。じゃ、やってみましょうか?はい、1…2…」。結局僕は、腕立て伏せまでして、完全にオールアウトした。腕に力が入らなくなった。その後、彼は怪我に対する注意点と心得をレクチャーしてくれたのだが、ここでは書かない。彼の追い込み方は厳しいが、決して精神論ではない。ロジカルで明晰だ。いかにもトレーナーという仕事が好きで、勉強していることがよくわかる。そこに彼の才能を感じてしまう。クライアントが「オールアウト」という言葉を使うとき、実は常識的な「オールアウト」の定義は自分で学んで知っているものなのである。(ちなみに僕は"Tarzan"の用語辞典で知った。)だから、雑誌に書いてある程度の知識をトレーナーから聞かされても、知識の再確認に終わってしまう。でも、N君の開設は、僕にとって「オールアウト」という語の含蓄を大きく広げてしまうものだった。そして、それを体験させてくれさえした。驚きと感動…それをクライアントに与えるためには、クライアントの心理を深く理解し、自分の持てる知識を使ってとっさにロジックを組み立てなければならない。そういう意味で、N君は職人だし、プロフェッショナルだと思った。教師としての僕も彼から多くを学ばせてもらっている。専門用語や受験用語を多用し、生徒を煙に巻いていないか、きちんと検証しなければならない。質問者が、何を求めて質問しているか、鋭敏な感覚を持たなければならない。そして、望んでいる以上のサムシングを与えられたときだけ、そこに感動が残る。ずっと年若いN君から僕は課題を与えられた。

N君は、高校まで野球をし、甲子園のベンチ入りをしたこともあるそうだ。彼は、高校卒業を期に、アスリートではなく、スポーツトレーナーの道を選んだ。迷うことなく専門学校に進学し、卒業後あこがれの職業についた…ということらしい。彼の生き生きした姿を見ていると、目標と希望がどれほど若者に大切かということがよくわかる。彼の才能が彼の情熱を味方につけて、きっとすばらしいプロフェッショナルになることは間違いない。そして、彼のみならず、このジムの若きトレーナー達は、ほとんどそうした経歴の持ち主ばかりなのである。とても信頼できる、若き友人達だ。

大学に行くことだけがすべてではない…そう言われてひさしいが、彼らを見ていると、ほんとうにその言葉が現実味を帯びてくる。というか、かつて大学時代の恩師が語った言葉を思い出す。「大学はしかたなくて来るところで、大学生は落ちこぼれだと思ったほうがいい。すばらしい将棋さしは大学には来ない。既に神から声がかかっている。君達がもしエリート意識を持っているとしたら大きな勘違いだ」。ニートやフリーターが社会問題化しているが、N君たちのようにプロフェッショナルとしてのキャリアを堂々と歩む若者もいる。そこに大学卒の学歴は関係ないのだ。

最近、予備校講師の間で話題になっていることがある。現代の予備校生は分からないことがあっても質問に来ない。以前は、分からないことが続くと授業に出なくなったものだが、分からなくても授業に出続ける。そして、一学期が終わる頃、やっと「先生、僕この一学期の間何も覚えてこなかったんですが、どうしたらいいでしょうか?」と聴きに来るのだ。「ほんとうに何も?」「はい何も…」「じゃ、ずっとわからなかったんじゃないか?授業」「はい、全然わかりませんでした」。質問に来る子はまだいい。ずっと何もわからないまま、一年を過ごす者もいる。僕も実際に経験した。そして、同僚達も同じだと言う。この大学受験生の無気力さも、現代の若者の一面だ。僕も受験のプロである以上、こうした無気力にも闘いをいどんでゆかなければならないが、だが相当にタフな闘いになるのは確実である。

現代は格差社会だそうだ。経済的な階層化もすすんでいると聞く。資産格差・賃金格差・学歴格差…。でも、若者と日常的に接していて僕が一番感じる格差は、意欲の格差である。よい学校へ行き、よい大学を出れば、人生の選択肢が広がるという言説はほんとうなのだろうか。経済的に恵まれないと希望にまで格差ができるというのはほんとうなのだろうか。僕は違うと思うのだ。

若者をあなどってはいけない。自ら選んで、プロフェッショナルへの道、職人への道をすすむ者もどんどん出て来ている。そんな若者を応援し、信頼し、真の友人となる。僕はやはりそういう大人になりたいと思った。

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