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2006年4月

2006年4月30日 (日)

道元のことば

三年ほど前から、ある研究会で道元の『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)を読んでいる。冒頭の「現成公安」だけを二年かけて読み、一応最後までいったのだが、よくわからないところが多いので、もう一年かけて読み直そうとしているところだ。永平寺の開祖道元は、中国への留学経験もあり、漢語・和語を巧みに駆使し、自らの宗教体験を語る。天才肌の宗教者の言葉は、具象をそぎおとした抽象的かつ簡潔なもので、僕たち凡人の解釈を拒絶しているかのように見える。ほんとうに何度読み返しても難しい。注釈書・解説書の類は無数にあるが、道元を素材に著者自身の考えや経験を語ったものが多く、道元の言語世界に切り込んだものはとても少ない。自分で考えるしかないのである。

今日は午後から研究会がある。今日僕が読むところは、次のようなものだ。

「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙(けいげ)せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点(けんてん)し、点月の広狭を弁取すべし。」

「人が悟りを得るのは、水に月の映るようなものである。月も濡れないし、水もわれない。(月は)広大な光であるが、ほんのわずかな水にやどり、月天のことごとくが、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。悟りが人をそこなうことがないのも、月が水を穿たないのと同じである。人が悟りをこばむことのないさまは、一滴の露が月天をこばまないことにひとしい。(悟りの)深さは(悟りの)高さの尺度である。だが、(悟りの時には)年月の長短など関係ないことは、水に大小の区別がなく、(映る)月天に広い狭いの区別がないことを考えてみるとよくわかるだろう。」

僕たちのような悟らざる者に、道元の「悟り」認識がわかるのか、はなはだ疑問だが、簡単にわからないからこそ、何度も読むことに挑戦したくなるのだろう。今日の研究会では、聖書と道元とを比較しながら読むので、僕にとっては手慣れた国文学研究の手法は通用しない。言葉の用例を羅列して、この文脈ではこういう意味になる…といったテクニカルな読み方は、拒絶される。この二週間ほど、漠然と考えてきたことを、これから数時間掛けてまとめ、レポートしなければならない。タフな仕事である。

それにしても、こうした道元の言葉は、学校で決して教えられることはない。古文でも、おそらく日本史でも。この言語世界を、岩波文庫のなかだけにとじこめておくのは、実にもったいないことで、なんとか若者たちにこの世界のことを知らせたいと思う毎日だ。しかし、それにはまず自分の読み考える生活が充実していなければならない。さあ、集中、集中。

2006年4月29日 (土)

イチローの言葉

予備校の授業は90分。高等学校での50分の授業に馴れた生徒たちにはあまりにも長すぎる時間である。授業が煮詰まったとき、あるいは、気分転換が必要なときに、ちょっとした話題で緊張感をほぐすことにしている。最近の僕は、いきおいスポーツの話題が多い。トップ・アスリートのメンタルな面についての話は、受験生である彼らにも役に立つことが多いからである。今年度は、「受験生 徒然草」と称して、生徒達に配布するプリントの片隅に、イチローをはじめとするトップ・アスリートの言葉を紹介することにした。しかも、それを古文に翻訳して…。僕たちが生徒たちに教えるいわゆる「古典文法」は「読解文法」である。つまり、古文を読むためだけの文法だ。それに対して、ラテン語文法や英文法などは「規範文法」といわれる。こちらは、文法的に正しいということがきちんと規定され、「正書法」が厳然と存在する。だから、誰でも文法を学べば「ネイティブはふつうそう言わないけど、文法的には正しい」と言うことができる。でも、古典文法は、そうはっきり言わない文法なのだ。「こんな使い方の例もあれば、こんな使い方に例もある。だから、一応共通するルールはこうだ。」といったところ…。「正書法」は存在しないから、文法に従った正しい作文もしにくいのである。文語で書く人はいまどきいないから、まっ読めればいいでしょう…というノリ。この地位はしかし、ラテン語などに比べていかにもかわいそうな気がする。ただ、現代の聖書学者の中には、聖書は文語で読まれてきた歴史が長いのだから、最新の聖書研究に基づいた新しい文語訳を生み出そうという試みをしている方もおられる。とても、すばらしい仕事だと思う。受験の世界でも、例えば早稲田大学なのでは、古文作文めいたものを出題することがある。受験生は、古文で作文などしたことがないから、練習をしておかないと面食らってしまうのである。「受験生 徒然草」はそのような理由で誕生した。

この二週間、勉強のガイダンスをしながらの授業なので、時間が無くて気分転換の時間をとれなかった。プリントにもすり込まなかったのである。そうしたら、さっそく、高校生の女生徒から「春の講習会でイチローの言葉楽しみにしていたのに、今日は無くて残念でした」というコメントカードが届けられた。うれしいなあ、ひとりでもこういう反応があると。今回は『夢をつかむ イチロー262のメッセージ』(ぴあ)に所収の言葉である。

格別のわざせんとすれば、例様のわれにてあるべきがたいせつに侍り。一郎

  特別なことをするためには、ふだんの自分でいられることが大事です。 イチロー

□特別…格別なり【形容動詞・語幹の用法】 □こと…わざ【名詞】 □ふだん…例様(れいざま)なり【形容動詞】 □自分…あ・あれ・わ・われ【代名詞】 □大事…たいせつなり【形容動詞】 □です…侍り【丁寧語】

僕もふだんの自分を大切にしてゆこうと思う。生徒たちの励ましの言葉に救われるのは僕たち教師のほうなのだと改めて思う。

2006年4月26日 (水)

自分の居場所

無事、二週目に入った。多少疲れているが、体調はとても良い。三週間に一度という変則的なクラスが昨日あり、これで今年度のすべての生徒たちに出会ったことになる。13クラス、およそ千人。たった十数人の高校二年生のクラスから、二百人弱の浪人生のクラスまで、さまざまなレベル、さまざまな来歴を持った生徒たちだ。高校を卒業した者もいれば、中途退学して大学受験検定を受けて来たものもいる。昨年まで外国にいた帰国生もいれば、両親とともに8歳で来日したという中国人の生徒もいる。お国なまりでとつとつと質問してくる者もいれば、高校時代古文の授業は全部寝ていましたと堂々と主張する猛者もいる。しかし、今のところみんな目が輝いている。数年前まで、とてもシニカルなポーズをとる生徒がいたものだが、今年の生徒はみんな「マジ」だ。何が彼らをこの切迫感にかりたてているいるのか、僕にはわからないが、僕たち予備校講師にとってこの適切な緊張感ほどうれしいことはない。

例えば、僕が二百人ほどのクラスを担当することになったとしても、学校から与えられる彼らの情報は極めて少ない。個人情報保護法のせいもあるが、せいぜいが学籍番号と、カタカナで打ち出された氏名、そしてクラス分けのテストの偏差値ぐらいしか書いていないのだ。しかも、偏差値の高い者からソートされている以上、そこにいる生徒は数値でしか把握できない。だから、僕はあえて彼らにこう言うことにしている。「今、君たちの名簿をもらいました。どんな名簿か知ってる?君たちの名前がカタカナで打ち出され、学籍番号が書いてあって、あとはクラス分けテストの偏差値だけ書いてあります。君たちがデータになって僕のてもとにあります。でも、僕はこの数値なんか信じていないし、これで君たちがわかるわけではない。でも、じゃあ教室で毎週会うといっても、二百人いたら全員を覚えることなんて無理です。ここは予備校で、カリキュラムもしっかりあり、よいテキストも準備されています。僕たちも一生懸命授業します。でも、ただ君たちが、この授業に来て、ただ受身に座っているだけだとしたら、君たちはこの中で埋没してしまうでしょう。だから、是非、君たち自身が声をあげてください。僕はここにいるぞと示してください。そうしないと何もはじまらないと思います。どうすればいいか教えます。君たちは、浪人生でここがこれから十ヶ月間の生きる場所です。他に行くところないでしょう?だから、ここに自分の居場所を作ってください。生きる場所を開いてください。だからどうすればいいのか…。僕は、予備校ってところはある意味で究極のサービス業だと思っているんです。最高のサービスが受けたければ、最高の客になる。それしかありません。こうしてほしいとはっきり言い、これはいやだとはっきり言う。黙っていないで、コミュニケーションを自分からとるんです。変ですか?お客からコミュニケーションとるなんて?でも、黙っていたら、まわりはあの人は満足してるんだな…と思ってしまいますよ。もっとはっきりいいましょう。名前を覚えるんです。友達の…じゃないですよ。君たちのクラス担当チューターを、『チューター』って余分じゃなくて「○○さん」って呼ぶんです。僕たち講師を、『英語の先生』『古文の先生』って呼ぶんじゃなくて、はやく『○○先生』って呼ぶんです。教室の掃除をしてくださってくれてる方に『おはようございます』といい、警備員さんと『今日はあったかですねえ』ってお天気の話をするんです。そしたら、どんなにたくさんの生徒がここにいても、ひとりひとりのひとが君の名前を覚えなきゃって思いますよ。そして挨拶を交わすようになる。『○○君、最近どう?』って笑顔で向こうから聞いてくるようになる。そうやって、自分から心を開いて、自分の居場所を作ってください。そしたらね、たぶん、この大勢のクラスでもやってゆけます。黙って『わかんない、わかんない』と思っていてもしかたがありません。質問に来てください。なんでも相談してください。君たちは僕たちを評価する権利を持っているわけですが、自分から何も働きかけないで、アンケートに『あの人の授業はわからない、不満!』と書くことぐらい無駄でつまらないことはないです。だって、君たちの実力はまったくついていないのに、お互いが数字でこころに傷を負ってしまうわけですから。それって一番損なことです。つらいことです。『僕は○○です。ここにいます。僕はこうしたいです』と言ってみましょう。そうすれば、何かがはじまります。笑顔の関係っていいですよ。自分の居場所は自分で作る…それが一番だと思いますよ。」

ほんとうは、お客さんに努力させてはいけないのだろうと思う。でも、僕なら、最高のサービスを受けたいときは最良のお客になろうとするだろう。僕が、R-body Projectに通い始めたとき、最初にしたことは、スタッフのほぼ全員の名前を覚えることだった。担当してくれたトレーナーの名前は手帳に書き残し、覚え、次には名前を呼んでみた。彼らは、クライアントを名前で呼ぶように指導されている。覚えるようにも言われているはずだ。でも、それはマニュアルどおりの対応に過ぎない。クライアントが笑顔で自分の名前を呼ぶ。そうしたら、彼らも本気で僕のことを覚えてくれる。笑顔の関係は、仕事の上であっても、やはり友情なのだ。そうやって、自分の場所を自分で開いたら、あとはそこへ通いつづければいいのである。いやな場所だから、続きそうもないから友情で支える。僕は、それを生徒たちに伝えたかった。

授業後、ひとりの男子生徒がやって来た。「先生、僕現役のときは小さな塾に通っていて、一クラス十人くらいだったんです。毎週あたってました。でも、浪人したらあの人数です。今日先生が埋没するよ…っておっしゃってましたけど、もう埋没していそうな気がしてます。どうしたらいいでしょうか?」。……これには困った。でも正直な生徒である。彼が少し涙目になっていた。「うん、大変だね、僕だって、あの人数、恐怖だよ。怖いよ。でもね、この十ヶ月なんとかあそこで頑張ってみようよ。いつでも話においで。それから、チューターさんにも正直に話してごらん。どうしても我慢ができなかったら、まあなんとか努力するよ。してもらうように頼んでみるよ。だから、来週まで頑張ってみて。で、また来週おいで」。僕は、そう言って彼の背中を見送った。

彼の姿は、かつての僕の姿だ。彼がどんな風に自分の居場所を作ってゆくか、僕はすこし心配しながら見守ってゆくしかない。頑張れ!青年。

2006年4月21日 (金)

音楽に感謝!

金曜日は町田で仕事。はじめての週末を迎える。水曜日から金曜日まで、午前中浪人生のクラスを2コマ担当し、夜、高校生のクラスを1コマ担当するというスケジュールになっている。浪人生と高校生の授業の間には、毎日6時間半の待機時間があるというわけだ。これがけっこう長い。自宅に近い横浜なら、いったん帰宅し、昼寝をしたり仕事をしたりすることもできるが、津田沼や町田になるとそうはいかない。いきおい、書店や家電量販店をそぞろ歩くことになったりする。無駄遣いが心配だ。

今日は、海老名に住む知人と町田駅で待ち合わせをした。昔、高円寺にあったジャズ喫茶「サンジェルマン」のマスター三野村泰一さんである。「サンジェルマン」は、僕が大学生の頃毎日のように通った店。僕は、この「マスター」からジャズとそして人生を教わった。ある意味で、東京の父のような存在である。この二十数年間お付き合いが続いてきたわけではない。僕が大学を卒業する頃、店は閉じられ、以来お会いする機会はなかった。昨年、三野村さんが、ひさしぶりに雑誌に寄稿されたことからご健在であることがわかり、編集者にお願いして、メールを取り次いでいただいたのだった。二十数年ぶりの再会は、やはりジャズのライブにしようとういうことで、昨年11月に渋谷オーチャードホールで行われた、僕の敬愛するふたりのピアニスト小曽根真さん塩谷哲さんのデュオコンサートをマスターの奥さまともども三人で聞いた。すばらしい音楽に酔いしれながら、僕たちは再会を心から喜んだことだった。

大学生のころ、マスターからこう問われたことを僕は今でも鮮明に覚えている。「チュンシャー(mid-westの広東語読み)、君は将来何をしたいの?どんな夢を持ってる?教えてよ。」僕がしばらく考えていると、「あっ、でもね、お金儲けっていうのはだめよ。お金儲けだけを目標にしたら悪いことしなくちゃいけなくなっちゃうからね」。三野村さんは、当時、スキンヘッドだった。目の深いところで微笑みながら、低い声で僕の心の中をのぞき込んできた。僕がなんて答えたかは忘れたが、この問いだけは記憶に残った。昔は、かっこいいこういう大人がいたものだった。今、僕自身が、あのころの三野村さんの年齢に達しようとしている。

三野村さんは、僕を町田のジャズ喫茶「Nica’s」に誘ってくれた。はじめてゆく店だった。大きなスピーカーから、アナログの柔らかな音が流れていた。ハードバップ、ビックバンド、ボーカル…次々になつかしいアルバムが登場する。「ああ、ローズマリー・クルーニーだ。サンジェルマンでもよくかかりましたね」と僕。「俺、ある意味で節操ないからね。いい音楽ならなんでも好き。これだけってことはない。だから、フュージョンやラテンの曲もよくかけてたしね。お客さんのほうがびっくりすることがあったよ」と三野村さん。しかし、その無節操のおかげで、僕はあらゆる音楽を聴き、学んだ。僕たちは曲を聴きながら、「サンジェルマン」開店のころのはなしや、当時の思い出、そして会わなくなってからのお互いの人生にとって、ぽつりぽつりと語った。それはほろ苦くもあり、滋味溢れるものでもあったが、僕たちにはかけがえのない豊かな時間だった。「こうやってさ、なにをするでもなく、おしゃべりするためだけに集まってさ、わけもなく何時間か一緒に過ごすっていうのは、大人になってから知り合った者どうしじゃできないよね。『ちょっと話があります』なんて言われると、かえって何言われるんだろうなんてかまえてさ。」三野村さんは、俺たちはお互いが大人になる前に出会った仲間なんだぜ…と言ってくれたようだった。僕はとてもうれしかった。60過ぎの初老の男と、40後半の中年の男ふたりが、なんとなく二時間の時を共有していた。「でも、俺には音楽があってよかったよ。音楽に感謝だな」最後に三野村さんは僕にそういって、僕たちは店をあとにした。僕は今、三野村さんに再会できた幸福をしみじみとかみしめている。音楽に感謝!

2006年4月20日 (木)

父の教え

この二日間、睡眠四時間の生活が続いている。まあ、レギュラーシーズンに入ると毎年こんなものなのだけれど、この日常に身体が馴れるまではそうとうにつらい。授業の準備を直近にならないと始めない僕の性格上の問題もあろう。また、その日の授業の反省にたって、毎日授業内容を吟味し、翌日の授業を再構築するための手間もかかっている。だが、一番の原因は、新学期の緊張のために、睡眠後四時間後には必ず目が覚めてしまう僕の身体にある。ここ数年、僕は目覚ましを使ったことがない。それが、午前三時あれ、五時であれ、目覚ましのアラームが鳴る前に必ず目が覚めてしまうのだ。仕事には好都合…でも寝ている間も、精神は緊張しているのかもしれない。なんだか不健康な習慣である。新学期は、寝過ごしてしまうのではないかという恐怖で、より慎重になる。特に、準備で夜更かししたときは、不安で目覚ましをふたつかけて寝る。でも、目覚ましに起こされたことはない。ある年長の講師が息子にこう言われたそうだ。「お父さん、眠るのにも体力がいるんだよ。お父さんも年とって体力が落ちてきたから朝まで眠れないんだ。お年寄りが早起きなのはそのせいなんだよ」と。そうか眠るための体力がもう僕にはないんだ…。

今日は、千葉県の津田沼での仕事だった。この日ばかりは、クルマを利用して通勤している。朝五時過ぎに横浜の家を出て、ほぼ一時間後に津田沼の職場に到着する。高速湾岸線を経由する早朝のドライブなのである。なぜ、九時からの始業なのに、五時に家を出るのか。答えは簡単。満員電車の次に、クルマの渋滞が嫌いだから…。このルートは、六時を過ぎると混雑し始め、激しい渋滞がはじまる。5分出発が遅れると15分到着が遅れ、30分出発が遅れると、1時間以上到着が遅れる。到着の予想が全くつかなくなる。早朝なら、電車を使うとドアーツードアで2時間かかるところを、クルマならたった1時間でいける。それに、横須賀線は、6時台前半から激しい混雑がはじまっており、横浜駅ではもう立派な満員電車。精神衛生上もすこぶるよろしくない。1人乗車の自動車通勤はどうかんがえても環境に優しくないが、ここはどうか目をつぶってほしい。

高速湾岸線を東進すると、ちょうど日の出を正面に見ることになる。冬の低い陽射しは目をつらぬくが、今朝は低気圧が接近中とあって、雲が低くたれこめていた。有明ジャンクションを越えたあたりだったろうか、突然雲の下部にぽっかりと小さな穴が開いて、そこから一直線に若々しい陽光が地上に降り注いだ。光が柱の束のように見える。フェルメールの絵画のような光景が一瞬だけ東京に出現した。「ああ!」僕は運転しながら声をあげ、その光に祈った。神の臨在を確かに感じた瞬間だった。早起きは三文の得…。僕はウインドウを押し下げ、清涼な冷たい空気を全身に浴びたのだっった。

僕の父は、自動車工場に勤めるサラリーマンだった。無口で勤勉、まじめを絵に描いたような仕事人間だったと思う。子どもの目からは、どう考えていても父は仕事が好きでしかたがないのだと感じていた。僕が大学生になったころ、父に尋ねたことがある。「おやじは、仕事が好きなんだね」。父は首を横にふった。「仕事は好きじゃない。生活のためだ。しかたなくやっているんだ」。仕事の手順をいつも工夫し、家に仕事を持ち帰って改善提案をする父が、それほど頑なに自分の仕事を否定するとは思わなかった僕は驚いた。でもそれは本音だったのかもしれない。会社とはつらいものだ。そしてときとして残酷なものだ。父は、自分の仕事を否定することで、きっと何かに耐えていたのだろう。今なら、あのときの父の心が理解できる。でも、やはり、僕は父が仕事好きだったと信じている。

その父は、毎朝6時過ぎににクルマで会社に出勤していた。冬の遅い朝など、暗闇のなかに、父のクルマのアイドリングの白い吐息が、玄関に立ちこめていたことを思い出す。通勤時間は30分。つまり7時には工場に到着する。始業は毎朝8時45分だと聞いた。。「どうしてそんなに早く会社に行くの?」。これ僕が社会人になってから父に聞いたことである。父は、僕にこう言った。「会社に行ってな、忘れ物に気づいたとするじゃろ。その忘れ物を家に取りに帰って、まだ会社の始業時間に間に合うような時間に家は出るもんなんじゃ」。なるほど…。高度成長期を支えた工場労働者の高い倫理意識についての研究はどこかにあるのだろうか。日本の高度成長期は、まざに経済の戦争だった。早朝深夜に出勤してそれを支えたのは、僕の父のような無名の会社員たちだったのかもしれない。マックス・ウエーバーが『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』で分析した、ドイツの資本主義労働者の倫理観を、高度成長下のでは日本ではどう分析するのか…。僕の父はキリスト教徒ではない。では、彼を支えたものは何か。その倫理観の源泉をいつかきとんと探ってみたい。

その息子はというと…やはり早起きして職場に向かう。どうやら緑内障ばかりでなく、日常性まで遺伝したようだ。そう考えるとおかしい。子は親の背中を見て育つ…僕も子ども達にそんな背中を見せているのだろうか、こころもとない限りだ。

寝不足で首がパンパンに張っていたので、僕はこのあいだY君に教わった首のストレッチを約一時間。お茶を飲みながら、本を読み、雑誌に目をとおす。警備員さんや、お掃除の女性と「おはようございます」と挨拶をかわし、やがて、職員と同僚講師がやってくるのを迎える。僕の朝は実にのんびりしたものなのだ。

2006年4月18日 (火)

満員電車嫌い

満員電車が死ぬほど嫌いである。特に朝の通勤ラッシュは…。ようするに僕は岡山生まれの田舎者ということなのだろう。これでも19歳で東京に出て来て、中央線沿線に住んでいた頃は、そつなく快速電車に乗るこができた。当時は知らぬ間に腕時計が引きちぎれるほどの過酷なラッシュだったが、毎日なんとか通学することができていた。だが、今は…もう出来ない。

山手線など、昼間でもすし詰めの電車が走っていることがある。そんな時は、いつもホームで数本の電車を見送ることになる。正直、あの人いきれと圧力の中に身を投じることが怖いのだ。いまどき、痴漢と間違えられる可能性だってなしとは言えない。スピードの出る特急や急行電車はとりわけ混む。だから、なるべく乗らないようにしているのだが、三年ほど前、土曜日の朝の東横線の急行電車に乗ってドアのサイドに立っていたら、20代中ごろと思しき女性が駆け込んで来るやいなや、僕のすねを後ろ足で蹴りあげて無理やり押し込んできた。僕は蚊の鳴くような声で「どうして蹴る必要があるんですか?」と問うたが、むろん相手は僕と目をあわせようともしなかった。僕はそれからほぼ一週間人間不信に陥り立ち直れなかった。東京は怖いところだ…今でもときどき本気でそう思う。都市生活は、人間疎外の構造を本質的に内包している。

だから、今朝は六時過ぎに家を出た。都心の校舎、始業は九時である。七時過ぎにもよりの駅につき、校舎が開く八時までファーストフードの店でコーヒーを飲む。授業の準備をしたり、読書をしたり…。孤独な、ちょっとすてきな時間だ。朝早い電車に乗っているサラリーマンたちは、みんなちょっといい顔をしている…というと言い過ぎだろうか。席が空いているのに立っている人がいたりして、人間らしい、自分らしい空間を守り抜くための闘いに挑んでいる人が多い。

今日担当したクラスは、国公立文系のクラスで、全国から受験生が集まっていた。首都圏だけではない。新潟や秋田、山梨や長野、山口そして鹿児島。寮があるからだろうが、まるで大学のように多彩な顔ぶれだった。おもしろい…僕はそう思った。リラックスして楽しんでやろう。「浪人おめでとう!」毎年そう言って授業をはじるが、これで笑い声が出るクラスはよいクラスなのだ。彼らの数人が声をたてて笑った。「僕は、何が嫌いって満員電車が一番嫌いです。だから、この校舎には一番にやってくる。君たちも早起きして朝質問や相談に来てください。八時には来ています。このクラスは、全国のいろいろなところからやって来ている人が多いね。まるで大学だ。でもね、はやく東京に馴れなきゃと思って頑張りすぎないでください。予備校に馴れて、ついでに東京に馴れてって考えてたら、緊張でがちんがちんになっちゃう。まあ、僕なんか東京に二十数年いて満員電車に乗れない。こないだ二十代の女性に後ろ足で蹴られて人間不信になりました。東京は…東京出身の人は知ってるだろけれど、怖いところです。でもね、怖いままでいいじゃないですか…今年はね。というわけで、勉強の話なんですが…」と言って、授業に入っていった。にこにこ笑っている生徒がいて、ちょっとうれしかった。さあ、どうなりますか。もう心は来週の授業に飛んでいる。

午前中で授業を終え、いつものように恵比寿のジムに寄る。R-body Project(http://www.r-body.com/)がその名だ。今日の担当はY君。僕がこのジムに来た最初の日から担当してくれた心優しい青年である。だから、彼は一年前の僕の身体がどんなにだめだったかを熟知している。その上で、「最近すごくフォーム良くなりましたね。全然去年と違いますよ」と言ってくれるから、とても自信がつくというわけだ。彼とはこの一年間、お互いの仕事の共通点についてよく語ってきた。そして、パーソナルトレーニングのこつを彼から教えてもらったと思っている。彼は優しいので、いつも「今日は体調はどうですか?」と聞いてくれる。正直、この歳になって絶好調というときはあまりないので、「今日は肩がね…首がね…」というと、じゃ今日は軽めでいきましょうといって、ストレッチをはじめ新しいケアテクニックをメニューに組み込んで教えてくれる。日常の中で使えるテクニックが多いので、とても助けられている。今日も、はじめ「軽めに行きましょう!」と言っていた彼だが、首のストレッチを組み込んだ上で、きちんとすべてのメニューをこなし、その上ベンチプレスのウエイトが、37.5キロに上がっていた。ウエイトが少しでもあがるというのは、僕たちクライアントには大きな達成感のご褒美を与えてくれる。「これの達成感を僕の生徒たちに与えたいんだよね。でもなかなか難しい。でも、今日はなんだかんだ言って、Y君に導かれて全部メニューをこなすことができたね。ウエイトも少し上がったし…いや、うれしかったですよ」と僕。「お客さんが調子がよくないときに、どうするか。軽くする手もあるけど、でも本当はきっちりやったほうが後で身体にいいとわかってるんですよ。それで悩むときがあるんですよね、僕は」と彼。いやいや、前回のN君とは違うアプローチだけれど、これもまたひとつのコーチング道なのだと思う。

『法華経』に「方便品(ほうべんほん)」というお経がある。「嘘も方便」の「方便」だ。「方便」は正しい手段のこと。ブッダは、それぞれの人に、時や場所に応じて、無数の異なる教えを説いてきた。だが、それは多くの教えがブッダの中で矛盾し混乱しているのではなく、たったひとつの真理に到達するために、ひとりひとりが別のルートを歩んで行かなければならないとうことを指し示していたのだった。無数の教えが、ある一つの真理から出たものだあることを人々がさとるとき、人々は「仏」となる。

ひとりひとり、時や場所に応じて、最適のトレーニングメニューを提供する必要性については、受験勉強でも同じことだ。そして、クライアントの要求に臨機応変の対応をするためには、コミュニケーションのスキルを上げてゆかなければならない。一対多の授業の中で、いかなることが可能性があるのか、どうやら今年はそれが僕のテーマになった。なかなかおもしろいじゃないか!

2006年4月17日 (月)

「サウンド・オブ・ミュージック」

プロフィール欄に、僕の精神的郷里は映画「サウンド・オブ・ミュージック」だと書いた。そして、この映画の中にあるすべてが僕の中に血肉化しているとも書いた。少しおおげさだが、これこそが自分の中で古典化作用がおきているということだと思う。人生の基準がアメリカのミュージカル映画だなんて、いわゆるインテリの人々には一笑にふされてしまうかもしれないが、僕は全然かまわない。血肉化していない知識など、無用の長物である。

リチャード・ロジャーズとオスカー・ハマーシュタイン二世というブロードウエイ最高のコンビの最後の作品になった「サウンド・オブ・ミュージック」は、1965年にロバート・ワイズ監督によって映画化された。ご存じのように、作品賞・監督賞をはじめアカデミー賞を総なめにした傑作である。ナチスドイツのオーストリア併合に抵抗して、やがて家族でスイスへ亡命する音楽一家トラップファミリーの物語。主演のジュリー・アンドリュースは、この映画の印象があまりにも強すぎて、その後ついにこれを越える作品に出演できなかったとも言われる。とりわけ日本人には人気があって、いまだにロケ地ザルツブルグでゆかりの地を尋ねてまわる観光客がひきもきらないらしい。(この現象は日本人だけのものだそうだ)。

僕は、小学校五年生のとき、つまり1970年に、いまはもうない倉敷の三友館という洋画専門劇場で見た。おそらく最初のリバイバルの上映の時だと思う。その年は、僕にとって最初の…最悪の年だった。担任の女性教師に徹底的に嫌われていたからだ。なぜあれほど馬が合わなかったのかいまだにわからないが、ともかく先生は僕のことが嫌いだった。かつて他の小学校でいとこの担任になったことのある先生だったので、母はかわいがってくれるものと思ったらしい。ところが、彼女は活発なスポーツマンタイプの男の子が好きらしく、運動音痴で本ばかり読んでいる僕は好みでなかったらしい。あれは二学期の始業式の次の日の朝礼のことだった。その日、午後のホームルームで二学期の学級委員が選挙されることになっていた。朝礼の終わりに、彼女はクラス全員にこう言ったのだ。「二学期は誰が学級委員になるんかなあ。○○(僕の名字)は指導力が全然なかったのに、どうして一学期になったんじゃろうなあ。みんなが助けたからなんとかなったけど…。今度は指導力のある学級委員を選べよ」。男のような口調で彼女は言い放った。それは僕が、教師という立場の大人から、はじめてむき出しの悪意を受け取った瞬間だった。確かに、指導力に欠けた学級委員長だったと思う。だが、選挙で行きがかり上しかたがなかったのだ。僕は、となりに座るともだちを見てへらへらと笑っていた。あんなときは笑うしかない。となりの子もへらへらと笑っていた。とてつもない言葉の暴力だった。続いてはじまった一時間目の授業は国語で、ローマ字の学習の単元。教科書には石川啄木の生涯が訓令式のローマ字で綴られていた。だが、僕は…文字が目に入らなかった。なんといったらいいのか、先生から全てを否定され卑屈になっていたのだと思う。むしろ、彼女に反抗するように窓の外をぼーっと見ていた。彼女はもう一度鉄槌を僕に与えた。「おい○○、御前みたいにぼーっとしとるからいつまでもローマ字が読めるようにならんのじゃ。しゃんと教科書に集中せい」。彼女には僕がふてくされているのがわかったのだと思う。わかっていてもう一度徹底的に否定した。僕は泣きたかったが、ほんとうにつらいときは案外泣けないものだ。またへらへらと笑い、形式的に教科書に目をおとし、授業が終わるのを待った。その日のホームルームでは、スポーツ万能のY君が学級委員長に選ばれた。僕は、彼女を徹底的に嫌いになり、体育祭の鼓笛隊も、上級生の卒業式の贈る言葉も、役割を与えられながら当日お腹が痛くなり、休んだ。それは、僕の精一杯の抵抗だった。もちろん、母にはあの九月の熱い一日のことを言っていない。母が悲しむからだ。

その年の秋も深まるころ、その母が、父母会から帰ってきて、急に僕に「今度の日曜日に映画に行こう」と誘った。映画など見に行ったことのない母である。聞けば、担任の女性教師が熱心に見ることを勧めたのだという。僕の母はいわゆる教育ママで、教師の薦めることを無視できないタイプだった。きっと教育によいと思ったのだろう。、幼稚園だった弟を父に押しつけて、ふたりでバスに乗り倉敷に向かったのである。それが、「サウンド・オブ・ミュージック」だった。

当時、地方では洋画は二本立てが当たり前だった。三時間にも及ぶ「サウンド・オブ・ミュージック」も例外でなく、入館するとミア・ファロー主演の「ジョンとメリー」がかかっていた。同棲する男女の日常を描いた映画で、かなりエロチックなシーンもあり、母の教育への情熱は直ちに裏切られのだった。ミア・ファローの裸のお尻が妙に美しかった。「サウンド・オブ・ミュージック」はすばらしかった。ストーリーも音楽も、与えられたメッセージも、せつなく美しく愛に満ちていて、僕は心から感動していた。それなのに、母は、夕食の時間が気になって映画の終わらないうちに帰ろうという。僕はその言葉に従うしかなかった。だから、僕は、この映画の最後の美しいアルプス越えのシーンを、数年後にはじめてみることになる。今でもジュリー・アンドリュースの姿を見て、昔の恋人のように思え、涙が流れるのは、このときの完結していない逢瀬が原因である。すべて、あなたの責任だよ、お母さん。

次の日、学校から帰って、僕は母を説得し、ひとりでバスに乗って倉敷のレコード店へ行った。そして、「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラックアルバムを買った。その夜、眠るまで聞き続けた。次の日、そのLPを僕は学校へ持って行った。先生に見せたら、彼女は美しく笑い「あんた、ほんとうに行ったんかな。よかったじゃろ?それ貸して」と言った。僕はそのときだけ、彼女に受け入れられたと感じ、心を許した。その日の午後の音楽の授業は、そのLPの鑑賞会になった。45分間、音楽室のステレオのターンテーブルは、リチャード・ロジャースの音楽を流し続けたのである。僕は最高に幸せだった。

中学二年のとき、次のリバイバルがあって、これは児島東映という劇場でやはり二本立て。スティーブン・スピルバーグの「激突!」が併映されていた。僕は母に弁当を作ってもらい、重いラジカセをもって最前列に陣取って、映画を録音した。そして、二回「サウンド・オブ・ミュージック」を見た。十時間くらいがらがらの映画館にいたことになる。そして、次のリバイバルは、大学生のとき。旧日劇最後の映画が「サウンド・オブ・ミュージック」だった。デートの待ち合わせをすっぽかされ、ひとりで地下鉄に乗り銀座に出た。余った前売り券で、もう一度見に行った。それぐらい好きだ。英語では無理だが、台詞は全部言える。誰かに試してもらいたい。

ミュージカルへの興味は、やがてミュージカルの曲をアレンジしたジャズへの興味に広がり、深まった。ナチスドイツの行ったジェノサイドを忘れない正義感と勇気をもらっい、歴史好きになった。そして、カトリックではないが洗礼を受けキリスト教徒となった。リチャード・ロジャーズとオスカー・ハマーシュタイン二世がユダヤ人であったことに最近知ったのだが、そんな事実をも包括し超越する普遍的な場所にこの作品はあると思う。だから、僕は一生この映画を見続けるだろう。

小学五年生の僕が得た人生の教訓はこうだ。自分をもっとも傷つけた憎むべき醜悪な人間が、自分にとって最もうつくしいもの与えてくれることがあるということ。その矛盾…その不思議の中にこそ、僕たちの人生があること。そして、それ以外に人生はないということ。

だから僕は、今も「サウンド・オブ・ミュージック」を見ていつもせつない思いになる。小学校五年生とき、将来ジュリー・アンドリュースと結婚したいと思った自分に苦笑しつつだ。僕の精神的郷里とはこんな場所なのである。

2006年4月16日 (日)

実学と大学

いよいよ明日から新学期が始まる。緊張の一週間だ。今日は授業の予習をしながら、なんとなく一日中落ち着かなかった。これから一週間かけて、おそらく千人以上の新しい生徒と出会う。それが、僕たち予備校講師の仕事なのだ。僕はもう二十年近くこの稼業を続けてきているが、毎年春のこの緊張は変わらないばかりか、年を追っていや増しに増す。生徒たちともどんどん年齢が離れてきて、今や親の世代となってしまった僕にとって、予備校講師にとって必要とされる「若さのオーラ」はもはやない。孤独に、新しい境地を求めてゆく一年になりそうだ。

確か中学生のころだろうか、ハーバード・ロースクールでの学生生活を描いた「ペーパーチェイス」という映画を見た。ソクラテスのメソッドと言われる独特の講義形式で、学生達は厳しい教授から知識の吟味を受け、写真的な記憶力に絶対の自信を持っていた学生が、最初にドロップアウトする。ひたすら勉学と試験に追いまくられる一年間に、教授の娘との恋がかすかな彩りを添える。アメリカのエリート教育のすさまじさをまざまざと見せつけられてたことを思い出す。

あのころ、日本では夢物語だったロースクールが、今は全国の大学に設置され、まもなく修了者に向けた司法試験も始まる。ロースクールだけではない。専門職大学院が次々に開設され、学部も含めた大学の実学への傾斜は、今やブームとすらいってよい。国公立・私立を問わず偏差値の高い有名大学は、こぞって大学院大学化を目ざし、いまや教員の多くが大学院所属となった大学も多い。もともと実学志向の強かった日本の大学だが、恐らくこの傾向はいっそう鮮明になるだろう。一方で、例えば僕の出た文学部日本文学科のような人文系の基礎研究の分野は、研究費などの点でも苦境にたたされていると聞く。大学に残り研究者に道にすすんだ友人達も、大学で文学を講ずるのではなく、「日本語表現」といったビジネスライティングなどの科目を担当することが多くなったと言う。僕は実学を否定するものではないが、教養の府の大学である以上、リベラルアーツとの共存がもっと図られてよいのではないかと思う。日本でも、いくつかの大学で、ダブルディグリー制がとられ、二つの学位を同時に取得できるようになったが、ひとつは実学、ひとつは文学やアート、という学生が増えればよいのにと願わずにはいられない。もともと、日本の大学は、例えば、東京帝国大学が芸術学部を内包しないまま誕生したように、実学に傾斜する傾向が強い。それが、日本人の政治家・経済人の底の浅さにつながっていると指摘する識者もいるくらいだ。これから僕が教える受験生達も、時代のニーズに流されず、しっかりと自分の夢と希望を見つめながら、大学を選んで欲しいと思う。

昨日、スポーツトレーナーのN君について書いた。もちろん、スポーツトレーナーへの道も実学に違いないが、大学でもその道を目指すことができる。例えば、早稲田大学のスポーツ科学部がそれで、新設学部ながら、すばらしいスタッフと独自のカリキュラムを揃えたおすすめの学部である。小論文の講師に聞くと、この学部を目指す生徒の指導がもっともやりやすいそうだ。それは、彼らの意志がはっきりと決まっているから…。大学で漠然とモラトリアム状態を継続しようとする他学部の志望の学生とは、明らかに質が違うのだそうだ。昨年、僕のところにも、そうした受験生が何人かやって来た。熱意に感じて、なんとかして合格させてあげたいと真剣に思った。アメリカの大学では、四大プロスポーツに直結するトップ・アスリートたちがいる大学には、アスレチック・トレーナーの養成学部がある。優れたアスリートたちの身体を間近に見ることができるから、優れたトレーナーが育ってゆくという道理だ。僕の通うジムの代表Sさんもそんなひとりで、彼自身早稲田のスポーツ科学部で講師をしていたこともあり、彼は他大学出身ながら、今トレーナーを目指すなら早稲田を薦めますよ…と言っていた。早稲田なら、優れたラグビー選手、駅伝選手、スケート選手など、世界レベルのアスリートたちとともに学べるのだ。スポーツマネジメントやスポーツジャーナリズムの講座も擁するこの学部のこの実学はすばらしいと思う。

ただ、これは仄聞しただけで確かな情報ではないのだが、この学部の卒業生(スポーツ科学部の前身学科の卒業生ということだが…)の少なからぬ者が、就職先にスポーツ・トレーナーを選ばず、一般企業を選ぶということが、教員たちの悩みの種であるとも聞いた。クライアントひとりひとりの身体的特徴と体調をつかみ、信頼感を勝ち取り、ともに汗をかきながらトレーニングをしてゆくある意味で泥臭い仕事に耐えられない若者も多いということかもしれない。また、早稲田の卒業生であれば、一般企業にも就職しやすいという側面も影響しているかもしれないのだが…。やはり、日本の企業風土、就職慣習などに、大きな問題がありそうな気がするのだ。

そこでまたN君のことに戻る。彼のスポーツ・トレーナーにかける情熱とプライドは、まっすぐで熱い。ひたむきな職人=プロフェッショナル志向である。あまりにも実直すぎて、人は目を背けたくなり、ときには笑い飛ばしたりしたりもするだろうが、この若者の情熱を直視し、受け入れ、称揚する以外に、この国の将来はない。今や、優れたスポーツ・トレーナーのいないところに、優れたアスリートは生まれないのである。そして彼のような職人が、より高度な理論を学ぶために、大学や大学院に入学するようになれば、大学も活性化するに違いない。僕は、それ以外に、日本の大学の生き残る道はないとも思っている。

2006年4月15日 (土)

格差社会って何だろう?

急ぎで提出しなければならない原稿があるというのに、午前中ジムに行ってきた。

昨夜は、持病の首のこりが激しくて、痛みで何度か目がさめたほどだ。主に目の疲れが原因だと思うが、これは仕事柄あきらめなければならない。今まであらゆる医療・民間療法を試したが、一時的に回復することはあっても、根治はかなわぬことだった。一昨年には週に一度はひどい頭痛がして、仕事が手に着かないほどにまで悪化した。いよいよ最後の最後の選択肢としてジム通いをはじめたのは、そのためだ。なにしろ、小学校時代に体育の成績が五段階評価の2だった僕である。できるだけ運動などしたくない文弱の徒が、重い腰をあげるためにはたいへんな決意が必要だった。通い始めて一年数ヶ月、今では、調子が悪いときほど運動をしたほうがよいということが身に浸みてわかっている。筋肉は内側からほぐさなければだめらしい。この認識を得ただけでも、僕にとっては革命的なことだった。

今日の僕の担当はN君。僕の通うジムでは、トレーナーは当日割り当てられることになっている。N君はメンバーの間で「鬼」と恐れられているほど厳しい追い込みで有名だが、どうせやるなら厳しいトレーニングの方が心地よいわけで、ファンも多い。僕もそのひとりだ。しかし、身体の調子がもうひとつの時に彼が担当になると、果たして自分の身体がついていけるのか若干心配になるのも事実。どきどきしながらトレーニングに入った。

トレーニングの半ばにベンチプレスがセットされているのだが、僕の現在のウエイトは35キロ、1セット12回を2セット行うわけだ。体調によって途中でつぶれてしまうこともあるが、今日は調子よく2セット目も12回をこなしたら、N君が「あがらなくなるところまでやってみましょう!」といって13回目をコールする。結局、14回目でサポートに入ってもらってこのメニューは終了した。「この状態がオールアウトっていうんですか?」と僕が聞くと、彼は、「確かに、もうウエイトがあがらなくなった状態をふつうオールアウトって言うんですけど、でも本当に筋肉を完全にオールアウトしたかったら、どんどん負荷を下げていって、例えば、最終的には、膝だちで腕立て伏せをして、もうあがらないというところまで追い込んでゆくんです。もうできない…というところまで追い込んでやると、筋肉が傷ついて、次にもっと大きな負荷に耐えられるように、大きな筋肉ができてくるんです。それを、超回復というんです。じゃ、やってみましょうか?はい、1…2…」。結局僕は、腕立て伏せまでして、完全にオールアウトした。腕に力が入らなくなった。その後、彼は怪我に対する注意点と心得をレクチャーしてくれたのだが、ここでは書かない。彼の追い込み方は厳しいが、決して精神論ではない。ロジカルで明晰だ。いかにもトレーナーという仕事が好きで、勉強していることがよくわかる。そこに彼の才能を感じてしまう。クライアントが「オールアウト」という言葉を使うとき、実は常識的な「オールアウト」の定義は自分で学んで知っているものなのである。(ちなみに僕は"Tarzan"の用語辞典で知った。)だから、雑誌に書いてある程度の知識をトレーナーから聞かされても、知識の再確認に終わってしまう。でも、N君の開設は、僕にとって「オールアウト」という語の含蓄を大きく広げてしまうものだった。そして、それを体験させてくれさえした。驚きと感動…それをクライアントに与えるためには、クライアントの心理を深く理解し、自分の持てる知識を使ってとっさにロジックを組み立てなければならない。そういう意味で、N君は職人だし、プロフェッショナルだと思った。教師としての僕も彼から多くを学ばせてもらっている。専門用語や受験用語を多用し、生徒を煙に巻いていないか、きちんと検証しなければならない。質問者が、何を求めて質問しているか、鋭敏な感覚を持たなければならない。そして、望んでいる以上のサムシングを与えられたときだけ、そこに感動が残る。ずっと年若いN君から僕は課題を与えられた。

N君は、高校まで野球をし、甲子園のベンチ入りをしたこともあるそうだ。彼は、高校卒業を期に、アスリートではなく、スポーツトレーナーの道を選んだ。迷うことなく専門学校に進学し、卒業後あこがれの職業についた…ということらしい。彼の生き生きした姿を見ていると、目標と希望がどれほど若者に大切かということがよくわかる。彼の才能が彼の情熱を味方につけて、きっとすばらしいプロフェッショナルになることは間違いない。そして、彼のみならず、このジムの若きトレーナー達は、ほとんどそうした経歴の持ち主ばかりなのである。とても信頼できる、若き友人達だ。

大学に行くことだけがすべてではない…そう言われてひさしいが、彼らを見ていると、ほんとうにその言葉が現実味を帯びてくる。というか、かつて大学時代の恩師が語った言葉を思い出す。「大学はしかたなくて来るところで、大学生は落ちこぼれだと思ったほうがいい。すばらしい将棋さしは大学には来ない。既に神から声がかかっている。君達がもしエリート意識を持っているとしたら大きな勘違いだ」。ニートやフリーターが社会問題化しているが、N君たちのようにプロフェッショナルとしてのキャリアを堂々と歩む若者もいる。そこに大学卒の学歴は関係ないのだ。

最近、予備校講師の間で話題になっていることがある。現代の予備校生は分からないことがあっても質問に来ない。以前は、分からないことが続くと授業に出なくなったものだが、分からなくても授業に出続ける。そして、一学期が終わる頃、やっと「先生、僕この一学期の間何も覚えてこなかったんですが、どうしたらいいでしょうか?」と聴きに来るのだ。「ほんとうに何も?」「はい何も…」「じゃ、ずっとわからなかったんじゃないか?授業」「はい、全然わかりませんでした」。質問に来る子はまだいい。ずっと何もわからないまま、一年を過ごす者もいる。僕も実際に経験した。そして、同僚達も同じだと言う。この大学受験生の無気力さも、現代の若者の一面だ。僕も受験のプロである以上、こうした無気力にも闘いをいどんでゆかなければならないが、だが相当にタフな闘いになるのは確実である。

現代は格差社会だそうだ。経済的な階層化もすすんでいると聞く。資産格差・賃金格差・学歴格差…。でも、若者と日常的に接していて僕が一番感じる格差は、意欲の格差である。よい学校へ行き、よい大学を出れば、人生の選択肢が広がるという言説はほんとうなのだろうか。経済的に恵まれないと希望にまで格差ができるというのはほんとうなのだろうか。僕は違うと思うのだ。

若者をあなどってはいけない。自ら選んで、プロフェッショナルへの道、職人への道をすすむ者もどんどん出て来ている。そんな若者を応援し、信頼し、真の友人となる。僕はやはりそういう大人になりたいと思った。

2006年4月14日 (金)

「古典」を読むこと

 気がついたら46歳になっていた。若い頃、自分の42歳までの姿はなんとなく想像できていたのだけれど、なんだかそこまでで人生が終わりそうな気がして、その先を考えようともしなかったことを思い出す。もうあれから4年も生きてしまったのだな…最近よくそんな風に考える自分がいる。

 人生そのものが"terra incognita"(未知の国)を旅するようなものだが、とりわけこの数年は異国に迷い込んでさまよい歩いている気すらするのはなぜなのだろう。仕事には十分慣れ、生活はそこそこ安定しており、家族との小さな幸せも確かにある。そして、それはかけがえのない大切なものだとも思う。だが、だからこそ、それを守るためだけのために、時として自動化して「安楽」に生活している自分が、まるで異国人のようにも思えてくるのだ。僕はこんな大人になりたかったのだろうか?せわしない日々の生活に、なんとなく息苦しくさを感じ渇いている自分がいる。子どものころの自分のまなざしに審判を受ける自分がいる。

 唐突だが、これから本気で「古典」を読もうと思っている。都会の雑踏の中で、職場のざわめきの中で、家族との団らんの中で、歴史に淘汰されてきた古人たちの言葉に向き合う。いまさら、かっこつけて哲学者を気取るつもりはない。孤独にならなくてもいいのだと思う。家族と公園にでかけてシェークスピアの気に入った一節ずつを朗読する。病院の診察室で医者と『徒然草』談義をする。転職の相談に来たかつての教え子にアウグスティヌスの回心について語ってみる。そんなたわいもない日常の中で「古典」を読んでゆきたい。理解できなくていいのだ。古人の声に自分の声を重ね合わせることができるのなら…。

 読書好きを気取りながら「新書」ばかりを読んできた僕だ。思潮の動向に敏感で、「思想」だってファッションのひとつだった。そこから何も学ばず、何も身についていないことは、自分が一番わかっているつもりだ。ファッションはすてきだが、僕にはもうそれにつきあう体力も時間も残されてはいないような気がする。だから今「古典」を読む。

 僕は、大学・大学院で日本の古典文学を専攻し、今は予備校で受験生に「古文」を教えている。だけど、どうも日本の古典がしっくりこないままだ。『源氏物語』はいまだに好きになれない。『徒然草』はようやく魅力が見えてきたところかもしれない。松尾芭蕉はこれからだ。で、今のところ、モンテーニュが一番肌に合っている気がする。「道徳観察者」という正真の「モラリスト」、山の向こうにはまた別の正義がある…と語る中世のフランスの哲学者はとても魅力的だ。だから、『エセー(随想録)』を読む。『徒然草』と比較しつつ…。

 僕には夢がある。今は一介の「古文(日本)」教師に過ぎないけれど、いつの日か「古典」の教師になる…という夢だ。「古典」の上に、日本の…とか、中国の…とか、ヨーロッパの…とかつかないただの「古典」の教師。専門はない。『チップス先生さようなら』のチップス先生のように、ラテンの引用句を会話のふしぶしに入れ込むのではなく、快活に日常生活や芸術について語るおしゃべりな教師。考えがまとまらないとき、あの人と話したらなぜか頭が整理されてはっきりと問題点が明らかになった…と言われるような穏やかな明晰さを持ったメンター。まあ、僕には無理なはなしだが、でもそういう人になってみたい。なれたらいいな。

 時間はないが、時間はある。だから、ゆっくりこのブログに自分の歩みを残してゆきたいと思う。本来軽薄な流行大好き人間だから、すぐに馬脚をあらわすだろう。そのときは、思いっきり笑ってやってください。古典とジャズと教育と…へんなとりあわせの「哲学のライオン」出発進行!

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