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2015年10月 3日 (土)

コンサート&トーク「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」

先月終了した京都新聞における私の連載「唱歌の社会史」の終了を記念して、有志の方々が実行委員会をつくり、11月9日18時より、ウイングス京都 2階イベントホールで、コンサート&トーク「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」を開催することになりましたのでお知らせします。

トークの部分のパネリストは、私の他に、詩人の河津聖恵さん、そして法思想連鎖史(京都大学人文科学研究所教授)の山室信一さん、コーディネーターは社会 学(京都大学大学院文学研究科教授)の伊藤公雄さんです。私にとっては、ほんとうにありがたいお話なのですが、メンバーの顔ぶれとその業績を考えると気圧 され、逃げ出したい気持ちでいっぱいです。しかしながら、こんなチャレンジングで知的冒険心にあふれる機会はもう二度と来ないと考えて、お引き受けしまし た。まさに清水の舞台から飛び降りる(クリシェ)気分です。「唱歌の社会史」というタイトルにふさわしく、唱歌に限らず、近代の歌・音楽と社会の関係を歴 史的に総括してゆく会になると思います。

コンサートの部分ですが、私が連載でとりあげた12曲の唱歌に中から選んだ曲を、弟の 中西圭三と京都在住の野田淳子さん、ふたりのシンガーソングライターが歌ってくださいます。伴奏は、南こうせつバンドでもご活躍でギター・バイオリン・マ ンドリンなどを演奏してくださる佐久間順平さん、そしてキーボード・シンセサイザーの嶋村よし江さんです。きっとすばらしいコンサートになるでしょう。

実行委員会の方々、そして出演者のみなさまも、ほとんど手弁当で参加してくださっています。またこの美しいチラシも、上野かおるさんの愛情あふれるご協力のたまものです。ほんとうにありがたいことです。

このコンサート&トークは、河合文化教育研究所と京都新聞の後援をいただいております。ご尽力いただいた関係者のみなさまに感謝いたします。

みなさまのご期待に添えるよう私も張り切って準備いたします。

関西地区にお住まいのみなさま、どうぞ聴きにいらしてください。チケットは一般のプレイガイドでは扱わず、野田淳子事務所などで購入いだけます。お手数ですが、チラシ記載の要領でお申し込みくださいませ。

よろしくお願いいたします。

申し込み・問い合わせ先

野田淳子事務所 
605-0034 京都市東山区中之町197-205
TEL/FAX 075-751-7067
e-mail  junko21@mwa.biglobe.ne.jp
または
実行委員会携帯電話 090-2592-3150(北波)

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2015年10月 1日 (木)

唱歌歌詞解説 吉丸一昌作詞「故郷を離るる歌」 

唱歌解説

 

「故郷を離るる歌」

 

吉丸一昌 作詞 ドイツ民謡

『新作唱歌 第五集』1913(大正2)年7


園の小百合 なでしこ 垣根の千草    
今日は汝を眺むる 最終の日なり       
おもえば涙 膝を浸す さらば故郷      
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば  

 

【通釈】

庭の小百合よ、なでしこよ、垣根の千草よ

今日はおまえを眺める 最後の一日である

考えているうちに涙が 膝を浸してゆく 故郷よさようなら

さようなら故郷 さようなら故郷 故郷よさようなら

 

【語釈】

*「園」樹木・花・野菜などを植えた庭園のこと。後に「垣根の千草」とあることから、広い庭園などではなく、自宅の小庭のことであろう。

*「小百合」夏の花。「なでしこ」秋の花(秋の七草)。「千草」さまざまな種類の草。秋の季語である。この三種の景物から、この歌が晩夏から初秋の季節を歌った歌であることがわかる。

*作詞者の吉丸一昌は現在の大分県臼杵市の出身で、大分中学校(旧制)から熊本の第五高等学校(旧制)を経て東京帝国大学へ進学した。小学校と中学校(旧制)は、すでに1892(明治25)年から学年暦が四月開始になっていたが、高等学校(旧制)が四月開始になったのは、1917(大正7)年の第二次高等学校令の公布によってで、実施は1918(大正8)年春のことである。また、東京帝国大学の学年暦が四月開始になったのは、1921(大正10)年春のことであり、いずれにしても吉丸が故郷を離れたのは晩夏から初秋のころであったと推定される。つまり吉丸の実体験としても、この歌が発表された1913(大正2)年においても、高等教育機関は九月始業であったのである。このように、唱歌の歌詞には、固有の地名や地域特有の地形や風景が取り込まれることはないものの、すでに失われてしまった制度的残滓(例えば学校・学年暦)は刻印されていることに注意したい。

*「汝(なれ)」主に奈良時代の『万葉集』などで用いられた対称の代名詞。対等の相手や目下の者、さらに動物などに対して呼びかける語。ここでは「故郷」を擬人化し、友人のように「おまえ」と親しく呼びかける。吉丸は「早春賦」でも「谷の鶯」を擬人化しているが、これらは、旧来の和歌にはない吉丸独自の表現といってよい。

*「眺むる」マ行下二段活用動詞「眺む」の連体形。現代語では「眺める」となる。

*「なり」断定の助動詞「なり」の終止形。ここで「である」と言い切ることで、硬質なイメージを与えている。

*「おもえば涙 膝を浸す」この表現から、作者は小庭に正対して座っていることがわかる。極めて静かな故郷との別れの場面である。和歌では伝統的に「涙」は「袖・袂」を濡らすものと表現されてきた。ここで「膝を浸す」という表現は、そうした和歌的クリシェの埒外の表現であるといえる。

*「さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば」一連の終わりに、この「7・7・7」のフレーズを二回繰り返す。「さらば故郷 3+4」を二度繰り返した後、語を逆にして「故郷さらば 4+3」と折り返すことで、リズムに変化と緊張感とを与え、この歌をより魅力的にしている。

 


土筆摘みし 岡辺よ 社の森よ
小鮒釣りし 小川よ 柳の土手よ
別るる我を哀れと見よ さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば


【通釈】

土筆を摘んだ 丘のほとりよ 神社の森よ

小鮒を釣った 小川よ 柳並木の土手よ

故郷を別れる私を哀れと思ってくれ さようなら故郷よ

さようなら故郷 さようなら故郷 故郷よさようなら

 

【語釈】

*「土筆摘みし」「小鮒釣りし」「し」は過去(回想)の助動詞「き」の連体形。この助動詞の存在によって、二番は、歌い手が自らの幼少期に直接経験したことをなつかしく回想していることを示している。別れの年の春のことを指すのではなく、あくまでも幼少期の記憶と考えておきたい。

*「土筆」スギナの胞子茎。食用ともする。春を代表する景物。

*「小鮒釣りし」この歌と同時期に作成されていた高野辰之の「故郷(ふるさと)」と共通のフレーズ。高野の「故郷」は、『新作唱歌 第五集』の出版された翌年1914(大正3)年に『尋常小学唱歌 第六学年用』の一曲として発表された。吉丸は、『尋常小学唱歌』の作詞の責任者として高野と協働しており、二人の作詞者の間に「故郷」の共通のイメージがあったとしても、なんら不思議はない。吉丸の「故郷を離るる歌」と高野の「故郷」が同時期に発表されたことが、近代日本における「故郷」観の創出の表象であったことに思いをいたしたい。

*「柳」柳の木。春を代表する景物。

*「別るる」…ラ行下二段活用動詞「別る」の連体形。現代語では「別れる」となる。

*「別るる我を哀れと見よ」故郷を出て行く自分自身を「哀れ」と蔑んでくれと「故郷」に懇願することで、故郷への深い愛惜とを示している。吉丸の経歴からいえば、故郷を離れることは進学のため、ひいては立身出世のためであったが、この歌では立身出世主義に一言も触れていないのが特徴でる。またその点で、高野の「故郷」と好対照をなしている。

 


ここに立ちてさらばと別れを告げん
山の影の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて黄昏たり さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば

 

【通釈】

ここに立ってさようならと別れを告げよう

山の陰にある故郷よ 静かに眠っておくれ

夕日は落ちて黄昏れの時を迎えている さようなら故郷よ

さようなら故郷 さようなら故郷 故郷よさようなら

 

【語釈】

*「ここに立ちて」一番の自宅の庭、二番の幼少期の回想を経て、三番で歌い手は故郷を広く俯瞰できる場所に移動したのである。一番では座っていたが、三番では立っており、いよいよ別れの時が来たことを告知する。

*「別れを告げん」「ん」は意志の助動詞「む(ん)」の終止形。「別れを告げよう」の意。

*「山の影の故郷」唱歌はあくまでも特定の地域や地形を描写するものではないが、この表現は具体的な地形を彷彿とさせる。ちなみに、吉丸の故郷の臼杵は、山と海に囲まれた風光明媚な小都市である。

*「静かに眠れ」故郷の安寧であることを祈りつつ、眠る故郷とは対照的に、眠ることなく都会へと旅立つ自らの心情を吐露している。故郷を友人として語りかけるがゆえの哀切な表現ともいえる。

*「夕日は落ちて黄昏たり」「たり」は存続・完了の助動詞「たり」の終止形。「黄昏れている」と、夕暮れの美しい時間の継続を表現している。一番の「なり」同様、「たり」と文を終止することで、硬質で古風な印象をこの歌に与えていよう。歌い手は夜汽車にでも乗って故郷を離れるのであろうか。


この歌の音数律

6   4   7

6   4   7

7   6   7

7   7   7(3+4 3+4 4+3)

動画による解説はこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=m1XKL0chsOM 

 

 

 

 

2014年5月17日 (土)

本日からブログを再開します

みなさま

一年以上もアップデートされず、事実上放置してきた私のブログ「スイングするライオン」ですが、本日より再開したいと思います。

活動がFacebook中心になってしまったこと、またライブレポート関係の記事をアーカイヴするための新たなサイトを立ち上げようと考えていたことから、新規書き込みを中止していたのですが、結果として、最近書いたものが私自身見つけられなくなるという事態を招いてしまっています。

新たなサイトの立ち上げの方針は変わっていませんが、スタートまでしばらく時間がかかるかと思われますから、当面このブログを主に活用しようと考えています。

この一年の旧い記事も掲載することになり、その順序もランダムなものになりますが、どうぞお許しください。

唱歌・讃美歌関係、教育関係の記事は、今後もこのブログを通じてアップしてゆきます。

どうぞこれまでの失礼はご寛恕いただきまして、これからもよろしくお願いいたします。

中西光雄

連続テレビ小説「花子とアン」で「蛍の光」が歌われました。

本日(2014年5月17日)のNHK連続テレビ小説「花子とアン」の冒頭で、唱歌「蛍の光」が歌われました。

女学校の卒業 式の練習という設定でした。

安藤はな(のちの村岡花子)が通う女学校のモデルは東洋英和女学院ですが、"Auld Lang Syne" のメロディーには「めさめよわがたま」という讃美歌(讃美歌370番)があり、当時のミッションスクールの卒業式で、同じメロディの「蛍の光」がどのよう に歌われたのか、大変気になるところです。是非調べてみようと思いました。

卒業式でのブラックバーン校長の卒業生へのスピーチはすばらしいもので、実に感動的でした。すべての人に(特に若い女性に)勇気と励ましを与えるとてもよ い番組です。私は毎日録画して見ています。是非御覧下さい。大好きな番組で「蛍の光」が歌われて、研究者としては幸せでいっぱいです。

http://www.nhk.or.jp/hanako/

2013年3月10日 (日)

小曽根真 東京文化会館 プラチナ・ソワレ 第5夜「ザ・ジャズ・ナイト」 レポート

小曽根真

京文化会プラチナソワレ 第5夜「ザジャズナイト」

201338()19:00 京文化会小ホ

 

Ⅰ部

01 Inprovisation1 即興曲1

02 Inprovisation2 即興曲2

03 Inprovisation3 即興曲3

04 Inprovisation4 即興曲4

05 Ital Park イタルパーク (新曲)

06 Dancing At The B.P.C. ダンシング・アット・ザ・B... (新曲)

    *B.P.C. The Berklee Performance Center

Ⅱ部

01 Cubano Chant クバノチャント

02 My Witch’s Blue マイ・ウイッチズ・ブルー

03 Before I Was Born ビフォー・アイ・ワズ・ボーン

04 Emily エミリー

05 Wild Goose Chase ワイルド・グース・チェイス 

アンコール

    Do You Know What It Means To Miss New Orleans

 ドゥノウホワットイットンズトゥミスニュリンズ

 

 客席うしろのドアから現れたピアニストは、通路側の聴衆に「こんばんは」と声をかけながらステージに上がり、この東京文化会館のハウスピアノであるYAMAHA CFXの前に座った。腕時計をはずしてピアノの上に置くという、いつもの小さな儀式のあと、美しいファーストノートが宙に舞う。プログラムがあらかじめ発表されていない今夜のコンサートは、いわばコンサート全体が即興作品だが、小曽根はそれを4曲の即興組曲ではじめたのだった。本格的な春の訪れを感じさせるこの日にふさわしい、明るさに満ちた第1曲は、小曽根の初期の作品のみずみずしい才能を直接的に受け継ぎながら、それを豊かにリファインしたもので、ピアニスト・作曲家としての自らの来歴に挨拶をすることで、このコンサートを始めようとする小曽根の意志を感じることができた。第2曲・第3曲と、クラシカルな語法に基づいた重厚で思索的なソナタが続いたあと、一転して第4曲では、ジャズミュージックの王道に立ち帰りピアノを底抜けに明るく歌わせる。組曲によって物語を紡ぐという構成法はクラシック音楽の影響を強く受けているともいえるが、優れたクラシック音楽家との共演や作曲を通じて、物語の技法を自家薬籠中のものとした小曽根にとって、この即興での発露は極めて自然なことであったに違いない。こうしてわたしたち聴衆は、小曽根真の「今」に出会った。

 小曽根は、このコンサートの後渡米し、「かけがえのない先生」ゲイリー・バートンとのレコーディングに臨む。この夜、そのために書かれた新曲が2曲披露された。1曲目は「イタルパーク Ital Park」というタンゴ。ゲイリーのバンドに加わった若き日の小曽根は、クリスマスイブをアルゼンチンのブエノスアイレスのクラブで迎えた。そこで、ビアソラのバンドと共演し、タンゴのすばらしさに圧倒され、強く影響されることになったのだという。イタルパークは、ブエノスアイレスにあった遊園地の名前であるが、その遊園地のイメージを曲にしたもの。小曽根の音楽の核のひとつであるラテン音楽へのデディケーションを示す一曲といってよい。もう1曲は「ダンシング・アット・ザ・B...  Dancing At The B.P.C.」。 B.P.C.とは、 The Berklee Performance Centerのことで、小曽根とゲイリーが出会ったバークリー音楽大学に附属するコンサートホールの名前である。もちろん、この一曲は、恩師ゲイリー・バートンへのすばらしいオマージュ。小曽根のピアノソロでの演奏は、もちろんすばらしいものであったが、アルバムのリリースと、それをひっさげてのコンサートツアーが、今から待ち遠しくてならない。小曽根真の「近未来」に出会った。

 第Ⅱ部は、レイ・ブライアントの「クバノチャント Cubano Chant」から始まる。小曽根が12歳のとき、「おじ」から譲られたチケットでオスカー・ピーターソンのコンサートに行き、その第1曲として演奏されたこの曲を聴いて、すばらしさに涙が止まらなかったという楽曲である。すでに天才ハモンドオルガン奏者であった小曽根少年が、「一台のピアノでこんなにスイングできるんだ!」と思わなかったら、ピアニスト小曽根真は誕生していなかったわけで、わたしたちファンにとってもかけがえのない一曲なのである。第2曲は「マイ・ウイッチズ・ブルー My Witch’s Blue」。わたし自身が小曽根に出会った頃の「ヴィエンヴェニドス・アル・ムンド Bienvenidos al Mundo 」がそうであったように、この曲は「今」の小曽根真を象徴するテーマ曲であり、ほぼすべてのコンサートで演奏されている。いわば小曽根の体温計と言ってよい。共演者との関係、ホールとの相性、気温、湿度、天候、そして聴衆との距離感によって、毎回異なるアレンジと演奏で、この日この時だけの小曽根真が提示される。もちろん東京文化会館小ホールのインティメイトな空間を象徴するようなすばらしい演奏であった。第3曲は、1995年のアルバム「Nature Boys」からの美しい「ビフォー・アイ・ワズ・ボーン Before I Was Born」。この曲はソロコンサートでしか聴けない美しく繊細なスローバラードである。宙を見つめ、ピアニストと聴衆の肉体を浄化してゆくように歌われるこの曲のメロディが、今もわたしの耳の中で鳴り続けている。

 第4曲は「エミリー Emily」。「エリス・マルサリスに教えてもらうまで、きちんと知らなかったこの曲が、今どうしてこんなに近く感じられるのだろう?」と小曽根は語る。先日のエリスとのデュオコンサートでももちろん演奏されたこの曲を今夜はソロで…。エリスへのレスペクトと愛、そしてエリスを通じて感じとったジャズミュージックの歴史への献身、今まさにジャズミュージックへ原点回帰しながら、あらたな音楽創造の場へ立とうとする小曽根の思いと決意とが、ひとつの楽曲に結実したあまりにも美しくせつない演奏に、わたしは涙を禁じ得なかった。第Ⅱ部の最終曲(第5曲)は、「ワイルド・グース・チェイス Wild Goose Chase」。1994年のアルバム「BREAKOUT」からの楽曲である。「この曲は、最近YAMAHAから出版された楽譜集に採譜されて入ってるんですけど、その楽譜見ても僕はとても弾けません」と言って聴衆を笑わせる小曽根であるが、それはただの軽口だと直ちに証明してしまう。早弾きでかつメロディアスなこの曲を、小曽根は一息で駆け抜けて見せた。ホール全体が熱狂したのは言うまでもない。万雷のオベーションが続いたのである。アンコールは、「ドゥノウホワットイットンズトゥミスニュリンズ Do You Know What It Means To Miss New Orleans」。「父から教えられていたこの曲を知っていたことで、アメリカに行って、どれほど多くのミュージシャンと心を交わしあい、ともにセッションが出来たかわからない」と小曽根は言う。もとろんエリスともそうだった。「Pure Pleasure for The Piano」にも収録されているし、先日のデュオコンサートの際も演奏されていたこの曲を今夜はソロで。約二時間のコンサートを締めくくるに最もふさわしい音楽と人への愛に満ちた選曲であった。この曲に表現されたジャズミュージックのスピリットをひとりでも多くの人に知ってもらいたいという小曽根の願いと祈りが、わたしたち聴衆の心を直接強く打ったのでもあろう。わたしたちは去りがたい思いを強く残しながら、コンサートホールを後にしたのである。

 ジャズミュージックの歴史、クラシック音楽との融合、尊敬するミュージシャンとの出会いと影響、そうしたさまざまな異なる時間の軸が、ひとりの音楽家小曽根真の中で交錯し、咀嚼され、再構成されてゆく。優れた音楽家は、このようにして生まれ育まれ、気づき感じとり苦悩しながら、音楽の中で生きてゆくという凄まじい「いきざま」を、わたしはこのコンサートで見ることができた。音楽家にとって、回顧するほどの経験と歴史を持つことは悪いことではない。むしろ前を向いて走り出すためのブースターである。小曽根真は、音楽の前では今でも少年のように純粋であり、やんちゃな部分を持っているから、「円熟」などという言葉ではとうてい表せないが、それでもわたしは十数年来のファンとして、これからの小曽根が一番いいぞ!という確信めいたものがある。世界の音楽シーンの中で小曽根の立ち位置は独特で、小曽根のパースペティヴからしか見えないもの、伝えられないものが、あまりにもたくさんあるからだ。楽曲を創作し演奏するだけでなく、それを下の世代に伝えてゆく責任もある。そして、小曽根はもう実際にそういうチャレンジをし続けているのである。同時代を生きる者として、その現場に立ち会えるこれほどうれしいことはない。どうかひとりでも多くの方々にコンサートホールに足を運んでいただきたい。小曽根真の音楽に直接触れ、できたら小曽根真と言葉を交わしていただきたい。きっと人生が豊かになるはずだから…。(了)

2013年3月 8日 (金)

毎日新聞(大阪本社版)で拙著が紹介されました。

3月8日付けの毎日新聞(大阪本社管内 北陸・近畿・四国・中国)で、拙著「『蛍の光』と稲垣千頴」が紹介されました。

同新聞京都支局の論説委員榊原雅晴さんのコラムで、「元祖・桜ソング」としてとりあげてくださったものです。

達意の文章で、「蛍の光」の来歴と現在、そして将来について語ってくださっています。

お読みいただければ幸いです。


20130307

2013年2月 8日 (金)

”PURE PLEASURE FOR THE PIANO”ライブレポート

 エリス・マルサリス&小曽根真のピアノデュオコンサート”PURE PLEASURE FOR THE PIANO”を、横浜青葉台・フィリアホールで聴いた。東日本大震災とハリケーン・カトリーナの復興支援チャリティとして同名のアルバムがリリースされて から半年。エリスは、昨年9月東京ジャズフェスティバルに出演のため来日し、小曽根やクリスチャン・マクブライド、ジェフ“ティン”ワッツらとのすばらし いセッションを繰り広げ、聴衆を魅了したが、残念ながら私自身はその場に居合わせることができなかっ た。だから、今回のコンサートには特別な期待を持っていたのである。ヤマハのフルコンサートグランドピアノCFXが二台組み合うように置かれたステージ は、インティメイトでタイトな、ふたりのピアニストの関係と音楽とを象徴するようでもあり、ときにはすさまじい挑み合いとチェイスとを展開するためのコッ クピットのようでもあった。エリスは、このCFXをとても気に入っているようで、東京ジャズの際には、リハーサル室に置かれたこのピアノの前を、なかなか 離れようとしなかったそうである。フィリアホールは室内楽用の比較的小さなコンサートホールであり、だからこそ、この二台のヤマハ製フルコンの奏でるメロ ディは、ふたりのピアニストが床を踏みならすリズムとともに、私たち聴衆の心と身体に、直接作用した。

 エリスは79歳。奇しくも小曽根の父実と同年である。ステージの上を、大きな身体を揺らすようにゆっくり歩き、ピアノの前にゆっくりとどっしりと座る。 エリスの前ではCFXさえ小さく見えるほどだ。小曽根の問いかけに、遅れ気味に応えるこのチャーミングなグランドダッドは、しかし、演奏をはじめると全速 力で疾走しはじめた。あるときはメロディラインを流麗に奏で、あるときは小曽根の才気溢れる挑発に端正なバッキングで応じる。ジャズ界のレジェンドの語り は、ラグタイムのストライド奏法にはじまり、ブルースで泣き、ワルツで踊って、やがてスイングの強烈なグルーブ感に収斂していった。エリスと小曽根との親 密なアイコンタクトは常に笑顔で交わされ、かけがえのない時を共有しているよろこびとせつなさ、そしてお互いに対するレスペクトの思いが、聴衆にも手に取 るように理解された。ジャズミュージックの底抜けの明るさの中に、静謐でホーリーな精神性を感じることができる稀有なコンサートであった。ふたりの偉大な アーティストに心から感謝したい。

 ステージングも、聴衆を驚かせるすばらしい工夫がなされていたが、最後のコンサートを控えているので、ここでは書かない。最終日の彩の国さいたま芸術劇 場に行かれる方はお楽しみに!演奏される楽曲も、アルバムに収録されているものの他に、驚くようなすばらしい曲が準備されている。こちらも期待していただ きたい。我慢できないから一曲だけ触れるのだが、”Limehouse Blues”が聴けたのは私にとって僥倖であった。1922年にフィリップ・ブラハムによって作曲されたこの曲は、ガートルード・ローレンスによって有名 になった。彼女の伝記映画“Star!”は、ロバート・ワイズ監督がジュリー・アンドリュース主演で1968年に撮ったものだが、私はこの曲をこの映画で しか聴いたことがなかった。とてもオリエンタルでエキゾチックなブルースだが、この曲を、エリスと小曽根のデュオで聴けるとは思ってもいなかったのであ る。小曽根から楽曲名がコールされたとき、腰が抜けそうになり、演奏を聴いて立てなくなったことだけは、ご報告しておきたい。

 最後に、ふたりの偉大なピアニストにもう一度感謝を捧げよう。

 終演後、小曽根はこう語った。「今日は楽しくてしかたがなかった。これが僕の音楽のルーツなんです。すべてのルーツ。No Name Houseも、その他の活動すべても、ここから始まっているんです。この思いや感動を、国立の子たちや若いミュージシャンたちになんとか伝えたい。」

2012年12月22日 (土)

文語のクリスマス・キャロル「あめにはさかえ」(『讃美歌』98)口語訳・注釈

今年のクリスマスイブ礼拝で、聖書の朗読を担当することになりました。
生まれてはじめての経験なので緊張しています。
どうぞお近くの方はお出かけください。

   
クリスマスイブ礼拝

 20121224日(月)19:3020:45
 日本キリスト教団代田教会
 
さて、この礼拝では、何曲かの文語の讃美歌(クリスマスキャロル)が歌われます。
ちょうどよい機会ですので、歌詞の深い理解のために、文語の歌詞に現代語訳と注をつけてみようと思います。
まずは、私の大好きな「あめには、さかえ」から。
メンデルスゾーン作曲のすばらしい楽曲です。この歌は、195412月に発行された日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌』(日本基督教団讃美歌委員会)に掲載されています。現行の『讃美歌21』(199910月)では、「聞け、天使の歌」とタイトルを変えて新しい歌詞がつけられていますが、この歌詞も純粋な口語ではありません。やはりメンデルスゾーンの曲には「あめには さかえ」という歌い出し初行のタイトルがふさわしい気がします。

あるいは今後も、クリスマスには文語で歌い継がれるかもしれません。
歌い継ぐなら、意味を学んでからにしたほうがよいというのが、私の立場です。
私自身、大好きな歌ながら、なかなか歌詞が覚えられませんでした。
意味と構造を理解していなかったためだと思われます。
讃美歌に親しんでいない人が「あめには さかえ」と聞くと、例えば宮沢賢治の「あめにも まけず」などを想起し、「雨には 栄え」と誤解してしまうのではないかとも思います。
世代を超えて歌うことのできる文語の歌は、学校でも教会でも残して欲しいと念願するものです。

少しはやいですが、みなさま、すばらしいクリスマスを!

讃美歌98 あめにはさかえ


あめにはさかえ み神にあれや、
つちにはやすき 人にあれやと、
みつかいたちの たたうる歌を、
ききてもろびと 共によろこび、
今ぞうまれし 君をたたえよ。

【口語訳】
天には栄光が 神にあるように、
地には平和が 人にあるようにと、
み使いたちの 讃える歌を
聞いて多くの人が ともに喜びあい、
今まさに生まれた 君を讃えなさい。

【注釈】
*冒頭の「あめにはさかえ み神にあれや、つちにはやすき 人にあれや」は、イエス・キリストの誕生を讃える言葉「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ。」(文語訳聖書 ルカ伝2:13-14)の和語的表現。この部分は、文誤訳聖書も歌詞も現代語の通常の語順ではない。「いと高き所には、神に栄光あれ」=「あめには、み神にさかえあれや」、「地には、主の悦び給ふ人に平和あれ」=「つちには、人にやすきあれや」となるべきところ。この語順が、わかりにくさを助長している可能性がある。
*「あめにはつちには」は、和語「天地(あめつち)」(『古事記』冒頭「天地初発時」)を分解し、区別の係助詞「は」で対称とした表現。「あめ」は「いと高き所=天」を、「つち」は「地」を表す。
*「さかえ」は名詞。「栄光」の和語的表現。動詞「さかゆ」の連用形と誤認する可能性がある。
*「み神」。「神」には尊敬の接頭語「み」が付く。
*「や」は詠嘆の終助詞。
*「やすき」は形容詞「やすし(安し)」の連体形の準体用法。名詞として扱う。「安し」は「安心だ・平穏だ」の意味だが、ここでは「平和」の和語的表現として用いられているる。この「やすき」を「平和」と理解するためには、聖書の該当箇所を想起する必要があろう。
*「もろびと」は「多くの人・衆人」の意味。
*「今ぞ生まれし 君をたたえよ。」は、1番から3番まで共通した最終行となる。
*「ぞ」は強調の係助詞。文末の一語を連体形で結ぶ。「今ぞうまれし」の「し」は、回想の助動詞「き」の連体形で、係り結びが完結しているように見えるが、「今ぞ生まれし」は「君」を修飾しているので、結びの消去(消滅・流れ)と判断する。先行する讃美歌の歌詞は「今生(あ)れましし」であったが、「生(あ)る」という動詞が用いられなくなったために、現行の歌詞に変更された。先ほど述べたように、「ぞ」では係り結びの完結の可能性を否定できないので、本来なら文末に影響を与えない強意の副助詞「し」などを補うべきであったかもしれない。「今し生まれし」と「し」音の繰り返しをきらって、現行のようになったということも考えられよう。



さだめたまいし 救いの時に、
かみのみくらを はなれて降(くだ)り、
いやしき賎の 処女にやどり、
世びとのなかに 住むべき為に、
いまぞ生れし 君をたたえよ。


【口語訳】
定めなさった 救済の時に、
神の御蔵を 離れて地上に降り、
身分の低い(聖霊によって) 処女に宿り
世の人々の中に 住もうとするために、
今まさに生まれた 君を讃えなさい。


【注釈】
*「さだめたまいし」の主語は「父なる神」。「たまふ」は尊敬の補助動詞。
*「かみのみくら」。「御座(みくら)」は、天皇の御座所のことだが、転じてキリスト教の「神の座」のこと。神のいらっしゃる場所。
*「いやしき賤の処女」。「処女マリア」のこと。処女懐胎を示す。「いやし」「賤し」はほぼ同義で、身分が低いということ。「賤の」は形容詞語幹の用法である。「いやしき賤の」は四半世紀ほど前から「御霊(みたま)によりて」と読み替えて歌われるようになった。ことさら身分の低さを強調する差別的表現を忌避するためだと思われる。
*「住むべき為に」。「べし」は当然・推量・意志などの意味を表す助動詞。偈現代語の語感では「するべきだ」ととられがちだが、ここは「意志」とするのが適当。神の意志として、イエスは天から地に派遣された。


あさ日のごとく かがやき昇り、
みひかりをもて 暗きを照らし、
つちよりいでし 人を活かしめ、
つきぬいのちを 与うるために、
いまぞ生れし 君をたたえよ。


【口語訳】
まるで朝日のように 輝きながら昇り、
み光を用いて 暗い場所を照らし、
地から作られた 人をよく生きさせ、
尽きることのない永遠の命を 与えるために、
今まさに生まれた 君を讃えなさい。


【注釈】
*一行二行および三行四行は、それぞれ一連の表現。すべて最終行の「君」を修飾する。
*「みひかり」。「み」は尊敬の接頭語。神の御光。
*「暗き」。形容詞「暗し」連体形の準体用法。「暗い場所」のこと。
*「つちよりいでし人」。主なる神は土から人を創造された。(「創世記」)
*「活かしめ」。「しむ」は使役の助動詞。「す・さす」に比べてやや硬質の表現。
*「つきぬいのち」。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。「尽きることのない永遠の命」のこと。
*「与ふるために」。「与ふる」はハ行下二段活用動詞「与ふ」の連体形。「与えるために」。

日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌』日本基督教団讃美歌委員会、195412

2012年12月13日 (木)

井上ひさし『組曲虐殺』(天王洲銀河劇場)再演レポート

 井上ひさしの遺作となった『組曲虐殺』の再演を、初演と同じ天王洲銀河劇場で見た。この三年の間に、作者の井上ひさしが亡くなり、その直後に東日本大震災の悲劇が起きて、日本の社会が大きく変質したことを誰もが実感する中での公演となったが、それだけに初演以上の切実さを持って、井上と俳優たちが練り上げたことばが、私たちの胸に突き刺さってくるものであった。とりわけここ数週間の、戦争への足音を耳元で聞かざるをえないような政治的言説に、嫌悪といらだちを覚えていた私に、豊かな演劇的経験と思索と行動へのヒント、そしてなによりも希望を与えてくれたことに対して、まず特別の謝意を示しておきたい。

 プロレタリア作家小林多喜二(井上芳雄)の生と死を、井上お得意の音楽劇として作品化した『組曲虐殺』は、第一幕の登場人物の丹念な(ときにはしつこいほどの)描写からはじまる。多喜二を支える実姉の佐藤チマ(高畑淳子)、恋人の田口瀧子、のちに妻となるプロレタリア女優の伊藤ふじ子(神野三鈴)、そして、多喜二を追う特高警察の古橋鉄雄(山本龍二)と山本正(山崎一)。その誰もが十分に個性的で人間的魅力に溢れているが、多喜二を必死に守る女性たちばかりでなく、彼を追い詰める権力特高警察の者たちまでもが、社会の全体主義化、戦争への傾斜、そして根底にある経済的貧困の被害者として描かれる。時代の暗さが彼らに影を落とし、それぞれに苦渋に満ちた人生を選択させているのである。そして、主人公小林多喜二の姿は、これらの人々のことばと所作によって、少しずつ彫啄されてゆくという趣向のように思われた。

 一転して第二幕は、多喜二の逮捕と虐殺という受難の物語が、すさまじい緊張感の中で語られてゆく。多喜二自身によって語られる、次のことばが印象的だ。

「…絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか…いや、いないことはない。」

さらに、彼は続ける。

「たがいの命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに値しません。」

「ぼくの思想に、人殺しの道具の出る幕はありません。」

 井上ひさしが、小林多喜二に語らせたこれらのメッセージは、確かに作家小林多喜二の肉声であるが、また劇作家井上ひさしの肉声でもあって、私たちの心を強く打つ。小林と井上の作家・表現者としての人生がオーバーラップしてゆくのである。井上芳雄の演技は迫真のもので、まさに多喜二が乗り移ったかのようであったが、それはまわりを固める俳優陣にも言えることで、故井上ひさしへの追慕と感謝の思いを捧げるというよりも、自らの肉体と精神を駆使して、井上の構想した演劇世界を初演以上に豊かに現前させることに成功したという点において、井上作品の永遠性を証明したのであり、井上ひさしの魂をみごとに復活させたということに他ならない。そう、確かにこの舞台の上には、井上ひさしがいた。俳優たちも、そして全身全霊をかけてピアノを演奏する小曽根真も、そのことを確信していたであろう。

 俳優たちのコミカルな演技が笑いを誘い、でも心の琴線がことばに共鳴して涙が流れ出てしまう。実際、第二幕の後半は、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえ、それはカーテンコールまで終わることはなかった。この公演は平日木曜日のマチネー。しかし、三階席まで満員のオーディエンス。カーテンコールはスタンディングオベーションとなったことは言うまでもない。終演後、私の少し前を歩いていた三人連れの女性たちは、山形ナンバーのクルマに乗り込み帰っていった。みんなこの公演を待っていたのである。

 『組曲虐殺』は、東京公演が年末まで続いたあと、来年二月までの全国公演を控えている。この「落ちた」俳優たちとピアニストが繰り広げる演劇世界がどれほどの進化をするのか、私には想像もできない。しかし、この芝居を見逃すことは、人生の損失のひとつになるだろということはできる。初演のときより、私たちはずっと息苦しい社会の中に生きている。だからこそ、勇気と希望とをもってよりよく生きるために、井上ひさしの遺言のようなこの珠玉の作品を見ておきたいと思うのだ。

 

 

2012年11月28日 (水)

戒能信生「賀川豊彦と関東大震災」日本のボランティア活動の原点について

河合塾エンリッチ講座2012
「賀川豊彦と関東大震災」日本のボランティア活動の原点について
 戒能信生(日本基督教団東駒形教会主任牧師)
 2012年11月27日(火)17:30〜19:00 河合塾秋葉原館4A教室

 入試が近づき余裕がなくなってしまったのか参加者が非常に少なかったのだが、大学のゼミナールのような雰囲気で戒能先生の講義を親しく伺えたことは、私たち参加者にとっては夢のような体験だった。

 土曜日の関東大震災の報を受けて、賀川豊彦が神戸を出発したのは、月曜日の朝のこと。日曜日に蔵書(多くは洋書)を売り払って金をつくり、横浜から被災地に入った。その行動力にまず驚く。

 戒能先生は、賀川その人の言動よりも、賀川を支えたボランティアの人々にフォーカスしてゆく。まず、賀川が神戸から連れて来た三人の若者(木立義道、深田種嗣、薄葉信吾)の写真を指し示しながら、それぞれの性格となしえた仕事を丁寧に解き明かしてゆかれた。事務的能力に優れた木立は、慰問のふとんを被災者に配って寝場所を与え、与えたふとんを担保にして金を貸し(質屋)、廃品回収業(バタ屋)を始めることを奨励する。深田は宗教的な仕事を担当してボランティア活動を精神的に支えて、後に著名な牧師となった。(この人が、あのすばらしい説教をなさる深田未来生先生の父上とは!)京都から復興景気で出稼ぎにやってきて、被災地の惨状を見てボランティアとして働くことになって大工田中源太郎。家を出て奉仕団に身を投じ、ボランティアたちの食事全般の面倒を見た南京米のママさん。何の特殊能力を持たない青山学院の女学生菊池千歳は、被災者の話をただただ聞いて(傾聴)勇気づけた。(この人が佐竹昭先生の母上!)泥棒の前科があるにもかかわらず子ども会をつくり幼児教育に没頭した東間清造もいた。戒能先生は、それぞれの人物像を愛情を持って丁寧に描写しながら、これらの人々は、関東大震災のボランティア活動をきっかけとして、生涯の道が開かれたのだと雄弁に語られた。私も、このすばらしいメッセージを多くの若者に届けたいと思う。

 最後に賀川豊彦の天譴論批判に話が及んだ。大震災を人間世界の腐敗と堕落に対する天からの報復とする「天譴論」は、ひとつの流行思想で、それゆえに震災後の思想界、文学界を席巻した。それを正面から批判したのはひとり賀川豊彦のみであったと、戒能先生は指摘されたのである。最後に、賀川豊彦のことばを引いておこう。

「東京の罹災者に向つて『御前は罰当たりだよ』と手紙を出す暇があつたら先づヨブの患部に包帯をしてやる事だ。善悪の裁判は神の職分である」(『苦難に対する態度』)

 私は同僚の講師が企画した講演会に駆けつけたに過ぎないが、キリスト者として新たにされる経験であったことは間違いない。講演をしていただいた戒能信生先生に心から感謝したい。たとえ参加する生徒が少なくても、このようなすぐれた知性との出会いの場を準備することが、予備校河合塾のアイデンティティだと信じている。なにがあっても継続してゆきたいと改めて思ったことだった。

20121127enrich

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